第二十二話
翌日、いまだ気まずい思いを引きずったまま、僕はフェアリーパラダイスへ出勤した。
更衣室にはすでに絵舞さんがいた。僕を見るなり、いつものように丁寧にあいさつしてくる。
「おはようございます」
「お、おはようごさいます……」
昨日のことなど、何もなかったかのような態度に、かえって不気味なものを感じてしまう。
着替えの後、店内を掃除して、ミーティングを経てから営業時間に入っても、やはり絵舞さんからの視線が気になって仕方がない。目が合えばいつものように微笑んでくれるけど、今の僕にはその笑顔に悪寒を覚えてしまう。
「お待たせいたしました。オムライスとカフェラテでございます」
「王子様、それは隣の御主人様のご注文よ」
「申し訳ございません! 大変失礼いたしました」
おかげで仕事に集中できなくて、ケアレスミスを連発して嶋村さんからも注意されてしまうし、踏んだり蹴ったりである。
「コーヒーを飲みましょう」
更衣室で休憩していたら、嶋村さんがトレーを持って入ってきた。そんな独り言を口にしてから、事務室でコーヒーを飲もうとする嶋村さんの姿が、勝手に想像されてしまう。
礼を述べてからコーヒーを一口すすった僕に、嶋村さんは気遣うような目線でたずねてくる。
「元気ないわね。絵舞ちゃんと何かあったの?」
なんでそこまで見抜いてるんだと、危なくコーヒーを吹き出しそうになる。二度ほど咳をしてから、改めて嶋村さんを見ると、ニヤッとした微笑みを浮かべていた。
「今日のあなたは、絵舞ちゃんの方ばかり気にしていたから、二人の間で何かあったのかと思ったのよ」
「その、何ていうか……」
昨夜の絵舞さんとのことを言っていいものか、ためらっている僕に、嶋村さんは表情を改める。
「あたしは店長として、店の中で問題があるのなら、それを解決する義務があるわ。あなたが絵舞ちゃんに対して、何か含むところがあるのなら、遠慮なく言ってほしいの」
「あの人に対して『含むところ』と言っていいのか、実は……」
嶋村さんがそこまで言ってくれたので、僕は絵舞さんとの間で起きたことを話してみた。聞き終えると彼女は、ため息交じりに苦笑した。
「絵舞ちゃんたら、やっぱりあなたにも興味を抱いてたのね」
「『やっぱり』って……?」
「ああ見えて絵舞ちゃんは、好奇心の強い子っていうか、探究心の
そこから話は、絵舞さんが初めてフェアリーパラダイスに現れた時のことへと繋がる。
今から二年前、最初は客として来店した絵舞さんは、店長である嶋村さんに履歴書を突き出し、自分も男の娘であることを告げた上で、『この店で働かせてほしい』と直談判したのだと言う。
当時も人手不足だったこともあり、早速嶋村さんは絵舞さんを面接することにした。志望の動機をたずねたところ、自分以外の男の娘というものをよく知りたいと言うのが一番で、そのためなら給料すらいらないとまで言い切ったのだそうだ。流石に嶋村さんとしては、受け入れられない話である。
男の娘を知りたいだけなら客として訪問すればいいことで、メイドとして働くのであれば仕事を優先してもらわなくては困るし、働いた分に対して給料を払うのは労働基準法で定められているうえに店長としても当然のことだと、嶋村さんは説得した。反省した絵舞さんは自分が間違っていたと謝罪し、それでも自分はここで働きたいと懇願した。その熱意にほだされた形で、嶋村さんは絵舞さんを採用したのだった。
「それ以来、絵舞ちゃんは真面目に働いてくれてるって思ってたんだけど、あなたへの興味は抑えきれなかったのね」
嶋村さんは少し眉根を寄せて笑っていた。そこで疑問を口にしてみる。
「絵舞さんが興味あるのは男の娘で、なんでTSの僕にまで興味を持つんでしょうか?」
「あの子はあの子なりに、男の娘とTSの違いについて知りたいと考えているのでしょう。夕べのことは、それがちょっと暴走しちゃったってところかしら」
そう言って嶋村さんは飲み終えたカップをソーサーに戻した。絵舞さんの過去を聞かされて、僕も少しは納得したけれど、興味本位で見つめられ続けられると、やはり辛いものもある。
「あたしからも、絵舞ちゃんには注意しておくわ。あなたもなるべく気にしないで、仕事に集中してちょうだい」
「はい、わかりました」
ちょうど休憩時間が終わった。僕はともみさんと交代するべく、店内へと移動する。
絵舞さんは休憩の間に嶋村さんから注意を受けたはずだが、その後も特に変わった様子は見せなかった。
「絵舞さんから描いてもらった色紙、オレ毎日拝んでるよ~」
「まあ、私の絵には何かご利益があるのでしょうか?」
「あるある! 日々を生き抜く気力が湧いてくるんだ」
常連との会話でも、いつもと同様に応対している。
僕もできるだけ仕事に集中したが、やはりというか絵舞さんの視線を感じてしまった。
仕事を終えて、フェアリーパラダイスのある雑居ビルから外へ出た時、先に帰ったはずの絵舞さんが待ち伏せしていた。
「……良かったら、少しお話しませんか?」
今まで見せたこともない、思いつめた表情だった。そんな顔をされると、こっちとしても断りづらいものがある。
絵舞さんは僕を、近くの繁華街にある、高級そうな喫茶店に案内した。アンティークな店内には個室があって、そこで僕達は向い合せで座る。
ウェイターに絵舞さんはトロピカルフルーツジュースを、僕はアイスオレを注文した。
「私のせいで、あなたに迷惑をかけたことは謝ります」
神妙な顔をした絵舞さんが、深く頭を下げた。
「そんなつもりはなかったのに、私の視線が重荷になっていたとは知らなくて、大変な失礼をしてしまいました」
「TSである僕が、そんなに気になりますか?」
僕の問いかけに、少し間を置いてから絵舞さんは答える。
「私が一番興味を抱いているのは、男の娘のことです。でも、TSに対しても興味を惹かれてしまうのです」
「絵舞さん自身が男の娘じゃないですか。なのに、どうしてそう思うんです?」
「おかしいですよね。男の娘が男の娘に興味を持つなんて」
注文した飲み物が運ばれてきた。ストローでジュースを飲んでから、絵舞さんは寂しげに微笑む。
「実は私、物心ついてから長い間、自分を女だと思いこんでいました」
そこから絵舞さんは自分の過去について、僕に語りだす。
女だと認識していたはずの絵舞さんは、成長するにつれて、自分は男の体であると気づいていった。いったい自分とは何者なのかと悩んでいた時、体は男でも女装して生きている人達……つまり男の娘という存在を知ったのだという。
そこから絵舞さんは、自分以外の男の娘が何を考えて、どのように生きているのかと、強い興味を抱くようになった。男の娘メイド喫茶であるフェアリーパラダイスで働き出したのも、実際の男の娘達と出会ってみたかったからというのが本音であった。
以後、絵舞さんはともみさんや他の男の娘メイドのことを、色々と観察していたらしい。
「そんなところへ、今度はあなたというTSの人が現れました。男の娘とは似ている部分もあれば、違う部分もある。そんなあなたのことが、私には気になって仕方なかったのです」
確かに嶋村さんが言ったとおりで、絵舞さんはともみさんみたいな男の娘と、僕のようなTSを比べていたのだとわかった。
朝おんでTSとなった僕は、矛盾からは逃れられない人生を送る羽目になったが、絵舞さんは絵舞さんで、僕の想像もつかないような矛盾のある人生を送ってきたことは理解した。とはいえ、そんな絵舞さんに対して、僕が何をしてあげられるというのか。自分のことだけで精一杯なのに……アイスオレを口に含んでいた僕に、絵舞さんは真摯な表情で訴えかける。
「元より私は男の娘に、そして今はTSにも興味はあります。ですがそれは、あなたと深い関係になりたいとか、あなたのプライバシーを暴きたいなどと考えているわけではありません。ただ、男の娘やTSのことを知ることで、自分がこれからどうやって生きていけばいいのか、それが知りたいだけなんです」
「わかりました。僕に興味を持ってくれるのは構いません。ただ、何ていうか……」
「どうか、このことで店を辞めるなどと言わないでください。そんなことになったら私、あなたに対して申し訳が立ちません」
「まだ給料もらってないし、他では雇ってもらえないから、そんなつもり無いですけど」
絵舞さんはホッとした顔をすると、改めて僕の目を見つめた。
「これでも私、あなたを頼りにしています」
「まだ僕は新人だし、ともみさんの方が頼りになるんじゃ……?」
「ともみさんにはともみさんなりの、そしてあなたには別の頼りがいがあります。今まで一緒に働いてきて、そう思うようになりました」
褒めてくれたのは嬉しいけど、正直言って実感はない。
「つまり僕が言いたいのは、あまり観察されると、それが気になって仕方ないということなんです」
「……ですよね。私としたことが、自分の興味ばかりに気を取られていました。これからは気をつけます」
しおらしい態度で絵舞さんが謝罪を口にしたので、この問題については何も言うことはなくなった。僕はアイスオレを飲み干す。
でも、一つだけ聞いてみたいことがある。それは昨日寝る前にふと思いついたことだ。
「絵舞さんは、女の体っていうか、僕みたいに朝おんしてTSになりたいと、考えたことはあるんですか?」
ストローでジュースをかき混ぜつつ、絵舞さんはしばらく黙り込んでいた。顔を上げると、少しだけ力のない声で答える。
「私は自分が男の娘であることに、それほど不満はありません。仮に、朝おんしてTSになったとしても、十数年後には元に戻ってしまうこともあるわけですから……やはり今のままでいいと思います」
朝おんでTSになるのは、本当の女になることとは違うものだと、僕だって思っている。だから、これが絵舞さんの本心なのだろう。それが聞けただけで、僕は十分だった。
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