第二十八話

「頼む! 待ってくれっ!」

 後ろ姿に呼びかけても、彼は立ち止まることなく、夜道を駆け続けていた。

 元々足は早い方じゃないけど、ここで彼を逃したくない僕は、ひたすら走るしかない。

「待て……待てったら!」

 なんとか彼の背後にまで追いつく。一気に右手を伸ばすと、肩を押さえつける。振りほどこうとした彼の左手首を、僕は左手で掴む。

「うあぁ……ああぁ」

 肩と手首を抑えたところで、ようやく彼を止められた。うめき声の彼は、僕を怯えたような目で見ている

「はぁはぁ……頼むから、話を聞いてくれ。頼む……はあぁっ」

 仕事の後で疲れが残っていたのに、さらに全速力で走ったものだから、マジで息が切れそうだ。呼吸を整えるのに時間がかかってしまう。

 もはや観念したのか、彼は逃げようとはしなかった。とりあえず僕達は、そばにあったガードレールへ、より掛かるように腰を下ろす。

 ささやかな夜風が吹いて、体の熱を冷ましていく。ネクタイを緩めると、僕はもう一度深呼吸してから、彼の方を見る。

「……君には、本当のことを知ってほしいんだ」

 彼は僕と顔を合わそうともせず、脚元に目線を落としていた。黙りこくっている彼に対し、そのまま話を続ける。

「僕は女じゃない……でも、男の娘でもないんだ」

 こちらを向いた彼の顔には、意外そうな表情があった。

「僕はTSだ。TSってわかるか?」

「……あ、朝おんのこと?」

「そう。男だった僕は二ヶ月前、朝起きたら女になっていたんだ」

 噂だけは知っていた彼に対し、朝おんとは『突発型後天性女性化症候群』というのが正式名称であるというところから、僕は説明を始めた。そこから、女の体になった僕が女子の制服を着て学校に通っていること、偶然の経緯で男の娘メイド喫茶であるフェアリーパラダイスでアルバイトをするようになったことなどを、包み隠さず打ち明けた。その間、彼は黙ったままだ。

「君に僕がTSだって言わなかったのは、騙してたわけじゃない。ただ、言う必要がなかっただけだ」

「で、でも……」

 彼は不満げな目をしていた。そこで僕はこう言い返す。

「逆の立場で考えてくれ。もし君がTSだとして、展覧会で初めて会ったばかりの僕に向かって、いちいち説明しようと思うか?」

 再び彼は口を閉ざしてしまう。

「あの後、何度か会ってる間に話してくれたらって思うかもしれないけど、こっちは君の名前も知らない上に、どういう関係になるのかわからなかったんだから、僕のことをどう説明すればいいかと悩んでたんだ」

 夜も更けてくると気温も下がり、肌寒さを感じるようになった。立ち上がった僕は、まだガードレールに腰掛けたまま、うつむいている彼を見下ろす。

「こんな形で、君に説明することになるとは思わなかった。でもこうなった以上、話すべきことは全部話したつもりだ。君には、本当のことを知ってもらいたかったから」

「……うん」

 力の抜けきった声で彼はうなずいた。

「それじゃ、僕は帰る……さよなら」

 別れの言葉をかけたが、返事はなかった。僕は彼をその場に置いて、駅へと向かって歩き出す。

 こんな状況になってしまった以上、もうあいつと会うことなんて、できないよな……むなしさと寂しさが混ざり合って、胸の中に溜まっていくような気分だった。


 確かに以後は、店との行き帰りにおいて、あいつと会話することはなくなった。

 それでも、繁華街を歩いていた時、不意に視線を感じて振り向いたら、離れた所に立っていた彼と目が合うことがあった。すぐに彼は顔をそらすと、そそくさと去っていく。そういうことが何度もあったりする。

 僕を見ていたくせに、こっちが気づいたら逃げ出してしまう。あいつもうちの学校の男子達と同様、僕と距離を置きつつも、女としてのエロい体には興味があるんだろう。未だに僕自身、自分の体を見て興奮しているのだから、そこは仕方がない。

 けれど視線が繋がった瞬間の、何か言いたげなあいつの表情が、とても気になっていた。何を訴えたいのか、僕にはよくわからないけれど、そこには女の体に対する興味以外のものがあるように思える。

 だからって、僕に何ができるというのか。あんな事があった以上、もうあいつも僕と話をする気にはならないはずだ。逆にこっちからわざわざ会いに行くというのも、やっぱり気が引けてしまう。

 こういった矛盾を目の前にして、僕はモヤモヤした気分を抱えた日々を送っていた。


 放課後に振り始めた雨は、繁華街へ来た頃には土砂降りになっていた。傘を被っていても、雨粒が制服を少しづつ濡らしていく。

 店の近くまで歩いていたら、ある建物の軒先で雨宿りしているあいつを見かけた。傘も持っておらず、制服のブレザーがずぶ濡れになっている。

 これは彼の真意を確かめられる、絶好なチャンスだと思った。近寄った僕は、傘を上げて顔を見せた。目を丸くして驚いていた彼に、もう一歩だけ歩み寄る。

「僕をずっと見てただろう? しかも何度も」

「……」

「言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれ。怒ってるなら、それでも構わないから」

「……お、怒ってなんかいない……た、ただ、その……」

 目線を外した彼が、口ごもっていた。その前髪から、透明な雫がこぼれ落ちている。

「怒ってなくても、不満があるんだろ? 何も言わなかったこととか……」

「そうじゃなくて! 俺だって、どうしていいか……わかんないんだよ」

 初めて彼が声を荒げた。真っ直ぐに僕を見つめる瞳には、悲しげな色が浮かんでいる。

「わからないのに、僕を見てたっていうのか」

「君を嫌いになったとか、憎んでるわけじゃない……ただ君のことが、忘れられなくて」

 彼にとって、僕と出会えたこと自体を、特別なものに感じているようだ。それを失うのが惜しくて、遠くから僕を見ていたということだろうか。

 僕が彼に、自分の正体を告げるべきか悩んでいたのと同様に、彼も僕に対して、どうやって関係を修復すべきか悩んでいたに違いない。

 不意に彼が横を向いてくしゃみをした。ブレザーの下に着ていたワイシャツまで、雨が染み込んでいる。

「そのままだと風邪引くぞ。こっちに来なよ」

 彼の手を引いて相合い傘になると、店のある雑居ビルまで一緒に歩いた。そのまま一緒にフェアリーパラダイスの中に入る。

「おはようございます」

 カウンターの整理をしていた嶋村さんにあいさつすると、彼女は僕の隣りにいた彼の存在に気づく。

「おはよう。そちらの方は?」

「友達です。傘を忘れたみたいだから、雨宿りさせてもらえませんか」

 思わず彼のことを、そう紹介したが、それ以外に言いようもない。嶋村さんは厨房に入ると、タオルを何枚か持って戻ってくる。

「これ使いなさい。それに制服がずぶ濡れだから、乾かした方がいいわ」

 タオルで髪を拭いていた彼を、嶋村さんが店の奥まで連れていく。脱がせたブレザーを手に下げて事務室に入ろうとした彼女に、僕は小声で謝る。

「すみません。お客様でもないのに、しかも開店前の店に入れてしまって」

「いいのよ。それより、早くあなたも準備してね」

 ルール違反なことをしたのに、嶋村さんは咎めもしなかった。言われたとおり、僕も着替えするため、更衣室に入る。


 室内では、すでにともみさんと絵舞さんが着替えをしていた。外の様子に気づいたらしいともみさんがたずねてくる。

「何かあったのかい?」

「友達を雨宿りさせたんです」

 ふーん……とだけ、ともみさんは言ったが、絵舞さんは意味ありげな微笑みを浮かべている。

「お友達、ですか?」

「はい、そうです」

 余計なことをしゃべったら、何かツッコまれそうなので、それだけを言った。僕がどんな奴を連れてきたのか、絵舞さんは興味津々に違いない。

 王子様のコスに着替えて店に入ると、彼の姿がなかった。嶋村さんが僕にささやいてくる。

「彼には事務室でコーヒーを飲ませてるわ。服が乾くまで、休んでてもらいましょう」

「ホントにありがとうございます」

 続いて、店内の掃除とミーティングを終えると、フェアリーパラダイスの開店時間に入った。

 大雨だから、客足は伸びないだろうと思っていたが、それなりに来客はあった。雨宿りのために入ってくる客もいるようだ。

 もちろんというか、こんな日であっても、常連の二人組は訪れてくる。

「いやぁ、ひっどい雨だね~」

「ゲリラ豪雨ってやつ?」

「お二人共、水も滴るいい男になってますわ」

 絵舞さんが差し出したタオルで、二人は濡れた体中を拭っていく。

 いつものように働いていると、やがて僕の休憩時間が来た。賄を取りに厨房へ入ると、二人分のホットコーヒーとサンドウィッチが用意してある。不思議がっていると、フライパンを手にしていた上堂さんがこちらを見る。

「友達の分も出すよう、店長から言われてる」

 礼を述べてから、トレーを持って事務室に入った。ワイシャツ姿で応接用のソファに腰掛けていた彼は、スマホでゲームをしていた。画面を見ると、◇◇である。

 初めて僕のコスチュームを見た彼は、スマホを手にして固まっていた。テーブルにトレーを置くと、僕は対面に座る。

「これは店長さんからのサービスだ。一緒に食べよう」

「……うん」

 僕達は無言で食事を始めた。その間、彼の視線が僕のコス全体を眺め回しているのがわかる。コーヒーを一口飲んでから、僕は上半身を起こす。

「この服が気になるのかい?」

「……カッコイイなって、思って」

「ありがとう」

 ウソつけ、ホントはエロいって思ってるくせに……そう言いたいのをあえて口にせず、別の話題を出す。

「この店じゃ、僕は『王子様』っていうキャラで、だからこんなボーイッシュな服装なんだ」

「そうなんだ」

「TSなのに男の娘メイド喫茶で働いていて、しかも体は女なのに王子様を演じてる……矛盾してるって思うだろ?」

「そうかも知れないけど……」

「でも客は喜んでくれてるし、僕もやりがいは感じてる。ここで働けることになって、店長さんには感謝してる」

「いいことだよね」

「それに先輩とか客の中にゲーム好きな人がいて、◇◇の話で一緒に盛り上がったりしてるんだ」

「そうなのか……皆、◇◇が好きなんだ」

 彼は食べかけのサンドウィッチをコーヒーで流し込む。

「その客からチケットを譲られて、展覧会に行けたから、君と出会うことになったわけさ」

「なるほどね」

 僕はもう一度コーヒーを口にする。

「君も展覧会まで行くくらいだから、◇◇にはずっとハマってたんだろ?」

「うん、でも一緒に話をする相手もいなかったし……俺、オタクで暗い奴って言われてるから」

 つまらなさそうにつぶやくと、彼は顔をうつむけた。

 僕とは違う意味で、彼も学校では誰からも相手にされていないようだ。こんな妙な部分でも、僕達には共通点があったらしい。こうなると、ますます彼を放っておけない。

 休憩時間も終わりが近づいてきた。コーヒーを飲み干すと、僕は彼に誘いをかける。

「今から店の中へ行かないか」

「えっ……いいの?」

 こっちを見て戸惑っている彼に、うなずいてみせる。

「ゲームの得意な先輩を紹介してあげる。その人から◇◇の攻略を教わってるから、君も頼りになるはずだ」

「……わかった」

 遠慮がちにうなずいた彼を連れて、僕は事務室を出た。

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