第五十六話
静まり返った夜の公園で、女装少年が泣きはらした顔をして、呆然として座り込んでいる。
「これで顔を拭きなよ」
僕が差し出したポケットティシュを受け取ると、そいつは何度も目を拭ったり鼻をかんだりしていた。
それにしても……こいつは自分から女装していたくせに、『女になりたくない』と泣き叫んでいた。矛盾した言動には、何か裏があるのではないか、と思わざるを得ない。
今になって思い出したのは、閉店後の更衣室でともみさんや絵舞さんと話し合った内容だ。
確かにこいつは『騙される方が悪い』と言い放ったし、警察が動き出すとか相手が逆ギレするなどの可能性にも思い至らないところから、自暴自棄な面が目立った。絵舞さんが言ったことは、的を得ていたようだ。
「君は、女みたいな自分の顔が嫌いだから、こういうことをしていたんじゃないのか?」
絵舞さんの考えを質問という形で口にすると、そいつはハッとした様子で、こちらを見た。図星を突いたと直感した僕は、さらに切り込む。
「君の泣き叫んだ様子から、男らしさにこだわりを持っているのもわかった。本当は男らしくなりたいのに、顔とかは女ぽくて、それが嫌でしょうがなかった……違うか?」
「……そうさ、皆して俺を『女みたい』って馬鹿にしやがる。俺は男なのに」
そいつの本音が漏れ出してきた。なるほど、ともみさんや絵舞さんみたいな男の娘にとっては褒め言葉でも、こいつとしては『女みたい』と言われ続けたことは苦痛でしかなかったのだ。
「だから、わざわざ女装して人を騙す悪戯をしていたと……だが、それは矛盾した行いだ」
「矛盾?」
意味がわからないでいるそいつに対し、僕は噛んで含めるように説明した。
「そもそも君は『男らしくなりたい』と考えていた。だが自分の顔は女みたいで、そう言われるのが嫌だった。それで人を騙して見返してやりたいと思って、女のふりをした」
「ああ……おっさんどもが驚くのが面白かった」
「君は女みたいな顔が嫌いなくせに、それを悪戯目的で利用していた。つまり悪事に使えるという方向では、自分が女顔であることを認めている……それが矛盾だ」
「それでどうしろって言うんだよ? 俺だって、こんな顔になりたくてなったわけじゃない!」
そいつは悔しさで顔を歪めていた。僕は冷静に言い返す。
「なりたくてなったわけじゃないのは、僕も同じだ。君と違って、心は男で体は女だけど」
「……あんたも悩んでるって言うのか?」
意外そうな顔をしているそいつからは、『自分以外の人間にも、いろんな悩みがあるのかと初めて知った』とでも言いたげな気配が伝わってくる。そういった他人への想像力が足りないからこそ、危険な行為に手を染めていたとも言えよう。
「TSになった直後はショックだったし、これからどうやって生きていけばいいか、今でも悩むことはある。だからといって、この女の体を悪用して援交やパパ活したいとは思わない。そんなことしたって、すぐ男に戻れるわけじゃないからな」
僕の言葉に、そいつはうなだれてしまった。しばらくしてから、力の抜けた声でつぶやくのが聞こえる。
「……俺だって、どうすれば男らしくなれるのか……よくわからないんだ」
「僕も、今の自分が男なのか女なのか、わからないでいる。けどそれは、すぐにわかるものじゃないとも考えている。もしかしたら十年後……それ以上かかるかもしれないけど、体が男に戻る時までわからないかもしれない」
「十年以上……そんなに」
僕にとっても長過ぎる時間だが、中学生らしいそいつからすると、途方も無い年月にしか思えないことだろう。視点の定まらない両目を、夜空に向けている。
「君のやっていたことは、自分で自分を貶めていただけだ。何の解決にもならない以上、二度とそういうことはすべきじゃない。だから今後は、もっと自分を大切にすることだ」
ともみさんが言っていたことを交えて、僕は釘を差した。そいつは考え込むような顔になる
「自分を大切に……ってどうすれば?」
「自分の頭で『男らしいとは何なのか?』を自分で考えるんだ。僕だってそうしている。少なくとも、自分の女顔のせいだけにしていたら、いつまで経っても男らしさがわからないままだろうな」
「自分で考える……か」
「さあ、立つんだ。グズグズしてると、本当に警察が来るぞ」
僕に急かされたそいつは、立ち上がってからスカートの土埃を払った。
こうして間近に見ると、確かにセーラー服の生地は薄っぺらで、ちゃんとした制服でなくコスプレ用の衣装だとわかる。多分、通販で手に入れた物だろう。
「今回だけは見逃す。ただし、また今夜みたいなことをしているのを見かけたら、今度こそ警察に通報する。わかったかい?」
「……はい」
そいつは初めて素直に返事をした。
「早く帰れ。誰かに見つからないうちにな」
無言でうなずいてから、そいつは入口の方へと向かって駆け出していった。
僕は大きく息を吐きだした。後ろへ振り返ると、倉石君の方を見る。
「……」
何故か呆けたような顔をして、倉石君は立ち尽くしていた。ポカンと口を開けたままだし、心ここにあらずと言った感じだ。
「倉石君?」
「……」
呼びかけてみたが、返事どころか反応もない。もう一度、声をかけてみる。
「倉石君、どうした?」
「……き……き……」
「『き』?」
「……キス……君が……あ、あいつ……あいつに!」
「キスって……あっ?」
思わず手で口元を隠した。僕があの女装少年に『TSウィルスを口移して
「いや、あれは演技だ。本気でしたわけじゃない」
「そんな……そんな! 俺は、俺は……あああ~」
よほどのショックだったのか、倉石君はこっちの話も聞こうとせず、体を震えさせている。こんなことになるとは思いもよらなかった僕は、彼への弁明を再度試みる。
「落ち着いてくれ。僕はあいつを説得するために、一芝居うっただけで、それ以外の感情は一切ない。それに、ああでもしないとあいつとは話にならなかったんだし、他に手立てはなかったんだよ」
「で、でも……やっぱり、あいつと……うっ、うううぅ~」
今度は倉石君が泣き出しそうな顔になってしまった。一晩で立て続けに男の泣き顔を見るなんて、あまりにもウザすぎる。『一難去ってまた一難』とは、正にこのことだ。
これほどまでに倉石君がショックを受けるとは、一体どういうことなんだ……しばらく考えてみて、ある考えが浮かんでくる。
「……もしかして君は、僕との初めてのキスを狙っていたのか?」
「ひっ!」
息まで止めたのかと思うくらいに、倉石君が固まっていた。そんな彼に訝しむような目線を送りつつ、冷めた声で問う。
「それほど『初めて』にこだわるということは、要するに僕の『ヴァージン』も狙っている……ということかい?」
突如、倉石君は頭を激しく左右に振ると、今までに見せたこともないほどの激しい勢いで否定してくる。
「俺はそんなんじゃない! 君に対してそんな淫らで邪な思いを抱いちゃいないから! ホントだってば!!」
「僕を『夜のオカズに使わない』って言ってくれたけど、本当は妄想じゃなくて現実の僕を抱きたいって考えてたんじゃ……?」
「違う違う、そうじゃ……そうじゃな~い! ていうか本当に……本当に俺は君を大切に思ってるんだ! 君が望んでいないことをするなんて、俺だってしたくないんだーっ!!」
「……わかってるよ。君がそんな奴じゃないことは」
これ以上鬱陶しくなるのも嫌だから、この辺で許しておくことにした。倉石君が頭を深く下げる。
「ごめん! また俺のせいで、君に余計な心配をかけてしまった……マジで俺は情けない奴だ」
「もういいって。僕も言い過ぎた」
放っておくと倉石君が自虐に走ってしまいそうなので、彼の肩に手を乗せて謝罪を続ける。
「君のことを忘れて、あんなことをしたのは本当にすまなかった。正直やり過ぎたと思ってるし、あいつにしたことは、もう二度とするつもりはない」
「うん……」
顔を上げた倉石君は、表面上はかなり落ち着きを取り戻していた。
それから僕達は無言のまま、電灯の元でずっと立ち続けていた。木立の向こうから、ビルの窓明かりがいくつも見えている。その一つが消えたのを見届けると、倉石君にささやく。
「……帰ろうか」
「ああ……」
僕達は並んで公園の外へと歩きだす。
今夜はいろんな事がありすぎた。それでも明日になったら、またいつものように倉石君とゲームの話ができればいいな……と、僕は心の中で祈った。
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