第四十九話

 午後の車内は、すでに混み合っていた。左手で吊り革をつかんだまま、右手でスマホをいじる。

 途中の駅から、さらに客が乗り込んでくる。朝のラッシュアワーほどじゃないけど、隣の人ともほとんど隙間がなくなるくらいの混雑だ。

 やがて僕は、尻の辺りで妙にうごめくような感触を覚えた。最初は電車の揺れに合わせていたけれど、段々と力が入ってきて、肌に食い込むような動きになっていく。

 なんだこれ……気持ち悪さに、鳥肌が立ってしまう。僕の体を誰かが触ってる? まさか痴漢!?

 自分がそんなものに遭遇するとは思いもよらなかった。衝撃と恐怖で全身が固まってしまいそうだ。

 だけど、このままやられっぱなしなんて嫌だ。無理やり気力を奮い立たせると、振り返って怒声をぶつける。

「どこ触ってんだよっ!」

「お、男!?」

 金属フレームのメガネを掛けた痩せぎすの中年男が、僕の怒り顔を見て驚愕していた。車内にいた人達の視線が集中したところで、誰かが声を上げる。

「この人、痴漢です!」

 怯えた男は周囲を突き飛ばすようにしながら、僕から逃げ出した。流石に追いかけて捕まえる気力はなかったので、その後頭部をにらみつけることしかできない。

 見えなくなったところで、荒々しく息を吐いていると、さっきと同じ声が僕にかけられる。

「大丈夫?」

 ともみさんだった。もちろん出勤途中だからウェイトレス姿ではなく、パーカーとパンツルックだ。


 店の最寄り駅で下車してから、僕がホームのベンチに座り込むと、ともみさんはいたわるようにたずねてくる。

「もう落ち着いた?」

「はい……まさか僕が痴漢されるなんて」

 溜め込んだ息を、深く吐きだす。

 なんでこんな目にあわなきゃならないんだ……あまりの理不尽さに、まだ怒りが収まらない。

 やがて、隣にともみさんも腰掛けてくる。

「こんなこと言うのも何だけど……女の制服着てると、痴漢にあいやすいらしいね」

「僕を女だと思い込んだんでしょうか……ホントはTSなのに」

「痴漢がいちいち、相手がTSや男の娘かなんて確認してから、触るわけないだろう」

 ともみさんの言うことはもっともだ。

「けど僕が怒鳴ったら、男だって気づいたみたいでしたよ」

「それがトラウマになって、二度と痴漢できなくなればいいけどね」

 そう言ってからともみさんが、僕の肩にポンと手を乗せる。

「キミにとっては不本意だろうけど、女の姿をしているからには、痴漢にも気をつけるべきだ。自分の身は自分で守らないと」

 今まではパンチラだけに注意を払っていたけど、そういうことにも警戒しなくてはならないと思い知らされて、本当に面白くない気分だ。


 その後、僕とともみさんはいつもの時間よりも大分遅れて、フェアリーパラダイスに入店した。当然ながら嶋村さんは多少困り顔で、僕達が揃って遅刻した理由を問いただす。

 ともみさんが耳元で理由をささやくと、すぐに嶋村さんは気遣うような表情へと変わる。

「大丈夫だった? そんな目にあうなんて怖かったでしょう!?」

「怖いと言うより、気持ち悪さの方が……でも、もう平気ですから」

「まったく、あなたみたいないたいけな子を痴漢するなんて、絶対に許せないわ!」

 僕以上に怒りを表してくれたのは、まさに嶋村さんらしい姿だと言えた。


 絵舞さんも、心から同情を寄せてくれた。

「私は痴漢をされた経験はないので、想像するしかありませんが、大変苦痛だったはずです。どうか気を強く持ってくださいね」

 店内だけで女装するともみさんと違い、普段からスカートをはいている上に、TSである僕以上に女性的な美貌をしている絵舞さんが、そういう目にあったことがないというのは、少し意外だった。

 もしかすると絵舞さんは、おっとりしているように見えて、痴漢を寄せ付けないような隙のなさを身につけているのかもしれない……そう思い込んだ僕が、コツというか心構えをたずねたら、予想もしなかった答えが返ってくる。

「普段は電車に乗らないので……旅行で新幹線に乗ったことはあるのですが」

 そういうことなら、痴漢にあったことがないというのもうなずけた。同時に別の疑問も浮かぶ。

「自宅と店の間は、どうやって通ってるんですか?」

「車で送り迎えしてもらってるんです」

「タクシーですか?」

「いえ。私の家の自動車を、雇っている運転手さんが運転して、私を送迎してるんです」

 つまり絵舞さんは、運転手付きの自家用車で送迎されているから、通勤のために電車に乗ったことがなく、痴漢にあうはずもないのだとわかった。

 貧乏な団地住まいの僕とは比べ物にならない……絵舞さんの家が金持ちであることは知っていたが、運転手まで雇えるほどの上流家庭だと知って、気が遠くなりそうだった。


 仕事が終わり、倉石君が待っているコンビニまで向かう。

 夜の風は、少し強かった。ようやく彼の前まで来た時、背後から突風が吹き付け、押さえる間もなく、スカートの裾が大きくまくれ上がる。

「……あ!」

 倉石君の表情が固まっていた。

 もちろん、この時だって見せパンをはいていたが、スカートの中を見せてしまったことに変わりはない。気まずさと罪悪感に苛まれた僕は、頭を下げる。

「ごめん」

「な……なんで謝るんだよ?」

 倉石君の声が、当惑した響きを帯びていた。

「君には、こんなことを見せたくなかったから」

「俺だって、見たくて見たわけじゃ……」

「僕が不注意だった。許してほしい」

 しばらくの間、僕達の間には沈黙が流れた。風の吹き抜ける音だけが聞こえてくる。

 倉石君がこめかみの辺りをかきながら、ボソボソとつぶやく。

「……俺もパンチラを見たことあるけど、そういう場合って、見られた女の方が怒るんだけどな」

「僕は、女じゃないから……」

「あ、うん……」

 またしても僕らは無言になってしまう。

 今日は、なんてツイてない日なんだろう……初めて痴漢にあってしまったし、倉石君にはパンチラを見せてしまった。今の自分が女の姿をしていることが、これほど重荷に感じられたことはない。

 それにしても、学校の男子にパンチラを見られそうになった時は怒りしか覚えなかったが、倉石君に対しては申し訳ない気持ちだけが湧き上がる。この違いは、一体何なんだ?

 少し考え、答えを言葉にしてみる。

「君は僕をとして扱ってくれてる。そんな君だから、の部分を見せたくないんだ。信頼を裏切ったような気がして」

「何もそこまで自分を責めなくてもいいだろ。俺だって君のそういう……辛い姿は見たくないから」

 倉石君の懸命な気持ちが、ひしひしと伝わってきた。ちょっとだけ救われた気分になる。

 結局、この夜は大して会話もできずに、倉石君と別れた。


 自宅までの帰り道、僕は倉石君のことだけを考え続けた。

 学校の男子や女子と比べても、僕にとって倉石君は特別というか、貴重な存在になりつつある。これからも彼とは友達でいたいと思っているけど、僕がTSであっても、そういう関係は維持できるものなんだろうか。

 例えば倉石君が、僕のの部分にも興味を持ってしまったなら、どうするべきか……そんな疑問を抱いたのに、何故か彼に対する嫌悪感というか、不快な感情が一切湧いてこないことが不思議だった。

 確かに倉石君はいい奴だけど、まさか僕は友達以上の間柄になってもいいとさえ思っているのか? でも彼と今の関係を続けているのも楽しいわけだし、これ以上何を望むというんだ。

 自分の中で、倉石君に対する矛盾した思いが錯綜して、危うく自宅がある団地の前を素通りしてしまいそうになった。

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