大越凛太朗【牧場編④】

 朝の世話を終えてから、おおよそ山手線半周分くらいの距離は余裕で離れている最寄りのバス停まで、牧場唯一のオンボロ軽トラでちせを送り届ける。

「バス停まで乗ったらそこら辺に置いておきますから、一人で大丈夫ですよ?」

 エンジンをかける時にもこの芋娘はそんなすっとぼけた遠慮をしてみせたが、俺は別段と気を遣ってやった訳でも、ましてや路上に放置するオンボロ軽トラの盗難被害を心配した訳でもない。つまり、ここに来た当初、野犬か鹿くらいしか使わない道で道路交通法を順守するバカバカしさについて淡々と語られた時点で全てを察せざるを得なかったにしても、文明人としては免許が無い事を知りながら運転させる訳にはいかないのである。

「いいから、黙って送られろ」

 いつもの作業服で言われたならともかく、いかにも女子高生らしいスカート姿を見てしまった後では尚更だった。この格好の少女に軽トラを運転させるのは流石に良心が痛む。

「牧場閉めたら教習所に行って原付でも取れ。癖で乗ったら洒落にならんぞ」

「事故なんてしませんけどね」

「そういう問題じゃねえんだよ」

 生活の事を考えればやむを得なかった事情も解るのだが、邪気がまるで無いだけ余計に溜息が出るようなやり取りだ。

「最終のバスに合わせて迎えに来るからな」

「ハイハイ、それじゃ行ってきまーす」

 それでも、停留所でのちせがいつもより少しはしゃいで見えたことは勘違いで無いのだろう。


 戻ってからはレラのトレーニングだ。鞍を付けてコースに出る。

 牧場に来てから一貫して取り組んでいるのは【より安全に走る為のフォームの矯正】だった。一周千メートルのミニコースを駈足で延々周回して、今までとは別の走り方を叩き込む。

『またアレやんのかよ』

 レラはいかにも嫌そうにぼやくが嫌がって暴れるような真似はしない。性格はひねている癖に行動が妙に素直なヤツだから、こうして声が聞こえなかったら、裏を読むような真似をせず素直な馬だと信じ込んでいただろう。

 そうして手綱を繰りながら今までに乗ってきた馬たちのことを思うと、彼らに恨まれていない自信が無かった。より正確には、騎手などという存在自体が馬からすれば傍迷惑な人種に違いないように思えた。

『この走り方窮屈なんだよ』

 そしてその事を自覚すればこそ、こうして憎まれ口を叩かれる位の方が気楽なのだ。

「必要な事だ、我慢しろ」

 手綱に逆らう事はしないのだから敢えて諭す必要も無いのだが、言葉というのは理解すれば返してしまうものなのだろう。俺が言うと、レラは面白くなさそうにブルルと鼻を鳴らして黙ってしまった。

 速度は気にせず、とにかくリズムを意識して走らせる。俺が少しでも“心地よく”感じてしまった場合には左前を鞭で撫でるように触れる。それが合図であることをレラには徹底して教え込んだから、それだけで足運びが普通の馬と変わらないものに変わる。

 レラからすれば思うように走れないのだから苛立つだろうが、脚の事を考えれば絶対にやっておかなければならない事だった。

「お前は馬なんだから、猫の真似なんてしたら駄目なんだよ」

 レラの兄であり二冠馬でもあるカムイエトゥピリカ。その最大の特徴は異常に柔軟な肉体にあった。より厳密に、獣医学的な言い方をすれば、背中の骨が他のサラブレッドの数倍は薄くそして柔らかかった、らしい。

 有名な話だが、とある高名な競馬解説者がエトのパドックを見た際にあの馬は故障していると断言した事があった。実際は故障でも何でもなくエトとしては普通に歩いていただけだったのだが、本職のベテラン解説者が騙される程にエトの歩様は異質だったのである。

 後日誤解が解けた際に、その解説者はこう言った。

【背中に騙された。あれは馬の歩き方ではない、猫の身体の使い方なんだよ】

 馬の背中は走る時も平らなままだ。一方でネコ科の動物は、全力で走ろうとすると、前脚を振り出す時は背中を大きく反る様に沈めてより遠くまで伸ばし、後脚を引き付ける時には逆に天へ向けて背を盛り上げる。その違い。

 ネコのように、いかにも軽やかに大地を蹴っている癖に、後脚の踏み込みは良すぎる程に良いから、他馬より広いストライドを取りながら足の回転も他馬より早く、結果、尋常ならざる速度が生み出されるという仕組みだ。

 だがそれは諸刃の剣でもあった。脚を動かす肉体がいくら柔らかくとも大地を蹴る力は他の馬のそれより軽い訳ではないのだから、単純に考えれば、長いストライドと優れた回転数を両立させるエトの歩様は他の馬よりも常に大きな衝撃を四本の脚に与えていたことになる。いくら柔軟性に優れた肉体とは言え衝撃の受け皿となる骨格は他の競走馬と同じだ。サラブレッドの、ガラスにも喩えられる脚ではそんな負担に耐え切れず、あの時のように砕け散る。

 レラは兄に似過ぎている。出足の良さも、追い始めてからのギアチェンジの滑らかさも、天井知らずに伸びるような最高速度も、トップに入ってからの息の長さも。そして当然、その身体の柔らかさや脚運びまでも。

 絶対にレラを兄と同じ目にあわせてはならない。それは俺の決意だ。

「お前の脚にはちせが大事にしてきたものが全部込められてんだ。大事にしてやらないと、可哀そうだろ?」

 聞かせるように呟くと、レラは静かにハミを取って応えた。


 そうしてぎこちない駈足のリズムで二、三時間もグルグルと回り続けてから、次はレタルとクーの二頭も混ぜて追いかけっこのようなレースをする。馬たちの走りたいように走らせているだけだが、レラの歩様訓練にはその程度の方が丁度良かったし、何より俺も楽しい。この牧場で馬の面倒を見ていると、案外騎手よりも牧童の方が向いていたのかも知れないと本気で思ってしまう。

 コースを数週走ってから水飲み場で休憩していると、一頭だけ水桶から離れているクーがぼんやりと話かけてきた。

『ちせはいつ帰ってくるの?』

 クーはとにかくぼんやりした性格をしている。どれくらいぼんやりかというと、例えば昨日は、おやつをレラに横取りされたのにその事に気付かないまま一日を過ごしていたくらいぼんやりしている。今だって本当は水を飲みたいのに、レラやレタルに押し出されてしまったのだろう。

「最終のバスだから、あと四時間くらいだな」

『迎えに行く?』

「ああ、ちゃんと行くよ。人間が歩くには少し距離があるから」

『なら俺も行くよ。朝は凛太朗が勝手に行っちゃったけど、みんなで行こう』

 恐らく水が飲みたくて仕方ないのだろう、短く息を吐きながら舌を垂らしてそれでも懸命に話しかけてくる様は同情を禁じ得ない。

「取り敢えず水飲めよ、話はそれからだ」

 一番最初に水桶に顔を突っ込んだのにいつまでも水場から離れようとしないレタルの尻を軽く叩いて場所を空けさせると、クーは一目散にその場所に入り込んだ。

『で、迎えに行くの?』

 話を聞いていたらしい、水を飲み終えてすっかり満足した風な表情のレタルが自然と続ける。

「まあ、連れて行ってやっても良いか」

『留守番は?』

「行くなら全員だ」

『解ってるじゃん』

 一人で三頭の馬を連れて行く図は普通なら有り得ないだろうが、ここの三頭はそもそも放し飼いの様なものだから引綱など付けなくても不安が無い。だとすれば、お留守番役を作って後で文句を言われるよりめいめい勝手に歩かせる形で三頭とも連れて行った方が気楽だ。

「今日は荷物もあるだろうから……一頭俺が乗って、一頭ちせが乗って、一頭は荷物持ちだな」

 そんな感じで適当に役割を分担してやると、横からずいと栗毛の首が伸びてきた。

『ちせは俺が乗せるからな』

 朝の検温が尾を引いているのだろうか、レラは有無を言わさない態度だ。

『勝手に決めるのはずるいよレラ』

 と、いつの間にやら水を飲み終えたらしいクーが横槍を入れる。

『私だってちせを乗せたい、レラは凛太朗を乗せなよ』

 これはレタル。

『うるさいな! 俺にばっかり押し付けるなよ』

 言われたレラは俺の厄介者扱いを隠そうともせずに半ギレで返す。

『何だよ!』

『やるか!』

 口でギャンギャンと喚きながらドッタドッタと脚音を鳴らす、ちょっと過激なじゃれ合いが始まった。この後の展開は大抵決まっていて、キリが無いから駆けっこをして速かったヤツの主張を通そう、となるのだ。

 俺は静かに水場から離れ、コースの牧柵に寄りかかって空を見上げた。美浦村の空も悪くはないが、この牧場は次元が違う。何せ周囲に人間がいないから排気ガスもへったくれもない、ひょっとすれば原始時代と全く同じ成分の空気なのではなかろうかと思うような澄んだ空気だ。

 朝方まで降っていた粉雪も止み雲は晴れている。ほとんど白に近い薄水色の空はどこまでも広がり、遥か彼方の山脈まで視界を遮るものは何もない。視界を下ろすと雪を被った大地は陽を浴びてそれ自体が宝石のように煌いている。

 改めて眺めると感嘆するしかないような景色だ。

「怪我だけはすんじゃねーぞ!」

 ドタバタが収まりそうもない馬達に言い残し、事務室へ引っ込んでコーヒーブレイクの支度をすることにした。安物のドリップが落ち切る頃には駆けっこの算段も付いていることだろう。



 午後四時少し手前、まだ陽は出ているがバスは終電になる時間だ。アスファルトの舗装路を避けながら、馬三頭でカルガモの行進よろしくぱっかぱっかと優雅に歩き、停留所に辿り着いてから数十分は待っただろうか、ちせを乗せたバスはようやくその姿を見せた。俺達を見つけたバスの運転手はこんな辺鄙な路線で運転手をしている癖に世にも珍しいものを見たとでも言いたげな表情で目を丸め、その脇をすり抜けるようにして、両手一杯に荷物を抱えながら降りて来たちせもまた驚いたらしい、

「どうしたの?」

それが第一声だった。

 バスが出発すると俺達二人と三頭だけが停留所に残された。よほどに驚いたのだろう、固まったままのちせから荷物を預かり、駆けっこ三着だったクーの背中に積みながら説明する。

「お前を迎えに行きたいって言うからさ、みんなで来たんだよ」

「言うって……誰がですか」

 当たり前のように言ってから気付いたが、考えてみればこいつらは馬なのだ。ちせもちせでエトの遺言だとか何とか言っていたのだから、頭のおかしさではどっこいどっこいなはずなのだが、この状況ではどう考えても俺の方が立場が悪い。

「いや……まあ、たまにはこういうのも良いだろ。さっさと乗れよ」

 適当に話を流して促すと、そこでちせがハッとしたような表情になった。

「私、スカートなんですけど」

「安心しろよ、ちゃんと作業服持ってきてある」

 出掛けにちせの作業着を詰めてきたリュックを投げて渡してやると、ちせもちせで察しが良い、

「おお、ありがとうございます」

気が利くじゃないですかと言わんばかりの表情で受け取って、面倒臭い事など何一つ言わずに手近な藪の中へ入り込み、数分としないうちに着替えを終えて現れた。

「んじゃ、行くか」

 来た道を知っている俺がレタルに跨って先導しその後には荷物を担いだクーが続く、最後方には見事権利を勝ち取ったレラとちせとなっての一団だ。

 振り向いて後方を確認すると、発案者なのに荷物持ちをさせられているクーは少ししょんぼりしているように見えたが、その更に後ろではちせを背にしたレラがあからさまにご機嫌だった。距離にして三馬身程後方で、必死になってちせに話しかけている様子が何となく解る。

『レラは甘えん坊だからね』

 ふと、レタルがそんな風に言った。

『レラはね、生まれてすぐにお母さんが死んじゃって、それからずっとちせが面倒を見てたから、ちせの事をお母さんみたいに思ってるの』

「まあ、解る気はするな」

『ちせはね、レラが鳴くのが可哀そうだからって、お布団を持ってきて馬房で一緒に寝てたんだよ』

 レタルの言葉を聞いてからもう一度振り返ると、上機嫌で首を揺らすレラと馬上のちせは輝き始めた陽に焼けていて、彼女の表情は茜色に染められて見えなかったけれども、そういう関係ならきっと笑顔なのだろう。ありふれた景色だからこそそうであって欲しいと思う。

「羨ましいもんだな、そういうのは」

 何となく漏れた呟きだったが、

『凛太朗もちせに甘えたいの?』

心底不思議そうに問い返されてしまうと、馬鹿みたいに声をあげて大笑いするしかできなかった。

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