大越凛太朗【raison d'tre ②】

 メルヘンな絵本を思わせるデザインで統一された、いかにも女子会向けの店だった。壁一面にアリスのような少女と不思議の国の面々らしき人物が描かれており、恐らくはアリスのお茶会に参加するというコンセプトの店なのだろう。ここで問題になるのは、ちせや宮代有紀はともかく、俺のような坊主頭のオッサンがこのメルヘン空間に足を踏み入れてしまった事だ。個室へ案内してくれた白兎のコスプレ店員が俺の坊主頭に一瞬見せた珍獣でも見つけたかのような視線は若干後を引きそうなレベルだった。

「レイカウントの年度代表馬、おめでとうございました」

 乾杯代わりにちせがそんな事を言ってグラスを合わせる。それまで予定外の坊主頭の乱入者への不満を隠そうともしていなかった宮代有紀だが、祝意には素直に応じてくれるらしい、合わせようとしたグラスを引っ込められるような事は無く、いかにもこの手の店らしい、見た目と雰囲気重視の料理が目の前に並べば、女二人で適当に話をさせておくだけで場が詰まる事は無かった。

 ちせの魂胆は解り切っている。俺と宮代有紀の顔通しをする事で宮代系列の馬に乗る為の足掛かりにしようとしているのだろう。小さな牧場で育った事で身についた営業感覚なのだろうか、この行動力には今更ながら感服させられるが、しかし、今回ばかりは無謀だ。

 俺は大っぴらに反宮代を掲げている臼田厩舎の所属騎手であり、そんな騎手を宮代の馬に乗せようとすれば、当然会員に説明する相応の理由が求められるだろう。その上相手は天下の宮代グループ、乗せてくれと自分から頭を下げに来る一流騎手が吐いて捨てる程いるのだから、わざわざ面倒事を背負いこんでまで俺なんぞに依頼する理由が無いし、何より俺自身に大してその気がない。

 つまりこの席は徒労に終わる事が解り切っている接待なのだが、はじまってみると、だからこそ却って気楽に楽しめた。俺も無理に会話へ入り込もうとはせず、やたらと配色がキツく食べ物なのかオブジェなのか迷ってしまうような料理におっかなびっくり箸を付けると意外とうまくて驚いたり、ともかく普通に飯を食っていた。

 そうして始まってから小一時間もした頃だったろうか、ふとちせが席を外して個室から会話が消えると小さくBGMが流れていた事を知った。

「面白い店ですね。男一人じゃ来られなかったです、今日は有難うございます」

 返事を期待するのではなく、お邪魔させて頂いているせめてもの気遣いで口にすると、宮代有紀はワイングラスを傾けながら、

「私も初めて来ました」

そんな風に言った。もしかしたらちせの為に店を探したのだろうかなどと思い浮かぶと、少しばかり申し訳ない気にもなる。

「ちなみに、感想は?」

「カワイイなあって。こういうの来る機会ないから、良かったかな」

 そう言ってから一息にグラスの中身をあおると、それもまた気遣いのつもりなのか、空になったグラスをずいと突き出してくる。

 苦笑交じりにボトルを取って注いでやると、自然と言葉が続いていた。

「お邪魔して、すみませんでした」

「構いませんよ。こちらこそ無理矢理付き合わせてしまって、趣味に合わないでしょ?」

「いや、別に。料理だって美味しいし、堅苦しい場所で営業するよりよっぽど楽しいですよ」

「営業、しないの?」

 慣れているのだろう。宮代有紀はグラスを遊びながらからかうような視線で俺を見ている。だが、その様子は高圧的なものでは無かった。だから俺も力が抜けた。

「しない。俺を乗せたらきっと貴方達は後悔するだろうし、それが理由で貴方とちせの仲が悪くなったら俺だって寝覚めが悪い」

「何故貴方を乗せたら後悔するの?」

 改めて問い返されると、一呼吸考えて、失礼にならないように言葉を選んで答えた。

「俺は、最後の判断は馬主さんの意見より俺の考えを優先しますから。個人の馬主さんで納得してくれる人ならともかく、クラブだとそういうのって難しいでしょうし、合わないですよ」

 良し悪しの問題では無く性質の違い。個人の道楽として割り切っている個人馬主と、投資に対するリターンを求める層が一定数混在するクラブ、それらの間で求められる騎乗の質が変わるのはむしろ必然の事だろう。そう考えて口にしたのだったが、聞き終えた宮代有紀ははっきりと首を振った。

「少なくともうちは結果さえ出してくれればそれで構わない。結果が出せなければ私が頭を下げる、それだけよ」

 そうして俺に真っ直ぐな視線を向ける。上から見下ろすのではなく、下から見上げるのでもなく、あくまでも対等なホースマンとして俺を見ている。その瞳は外から喧騒を眺める傍観者には決して持てない熱を帯びていた。己の身を熱狂の渦中で焦がしながら真剣勝負に挑む人間の覚悟が込められていた。

「会員を納得させる為の騎手を選んでいるんじゃない、馬を勝たせる為の騎手を選んでいるの。そこは解ってください」

 その瞳の力強さに押されるように、自然と頷いていた。

 誤解していたのかも知れないと、率直にそう思った。【会員を納得させる為の騎手ではなく馬を勝たせる為の騎手を選ぶ】と宮代有紀は言った。それは単純な商売道具として馬を見る人間からは出て来ない発言だと、そう思った。

 意図せず覚えたシンパシーに浮かされるようにしてグラスをあおると、この程度のワインで酔うはずも無いのだが、空気のせいか、妙に頬が熱い。ふと見れば宮代有紀がボトルを差し出しており、無言のままに呑めという。

「なるほど、悪くない」

 注いで貰いながら、笑いを堪え切れなくなって漏らしてしまった。

 宮代有紀はいかにも自然な動作でローストビーフを一枚摘み上げると、その赤い肉を眺めるようにしてからそっと口に運んで噛んだ。

「小さい頃、屠殺場に連れて行かれたわ。馬の屠殺場。

 牧場なんてやってるとね、毎年何頭も走れない子が生まれたり、走らない子しか産めない母親だったり、そういうのってあるのよ。だから、父さんに見せられたの。これを見ないままこの家で生きる事は許さないって、そう言われた。逆さに吊るされた胴体とか、皮を剥がれた馬の首とか、殺される瞬間の叫び声も、その場所だって悟った瞬間の絶望的な瞳の色も、その後の暴れ方も、今でも全部覚えてる」

 静かにグラスを揺らしながら、宮代有紀は語る。

「それでも、私はこの世界で暮らしてる。あの牧場を続けたいから、ラトナやアマスケや他の子たちを見ていたいから。結局、私達はどこまで行っても字に書いた如くの馬喰なのよ」

 感情的になっている風ではなく、ありのままを淡々と語っているようだった。だから俺も、ワインを片手に肉を摘まみながら淡々と聞いた。

「アマスケって、さっきも言ってましたけど、アマツヒのことですか?」

 ふと、気になっていた事を尋ねると、宮代有紀はこれまでで一番の、自然な笑顔をようやく見せた。

「そう、牧場の頃の名前。当歳の頃は私が見てたから、私が付けた。ラトナの産駒で一番の甘ちゃんだったからアマスケ。それこそ育成に送る前のアマスケなんてデビューできるか心配になる位だったから、本当に良かった」

 そうして話していると、はたと何かを思い出したようにゴソゴソと鞄を漁りはじめ、取り出したのはタブレットだった。俺の方を見ながら意地の悪い笑みを浮かべて、ホープフルステークスの口取り写真を見せつけてくる。

「クラシックが楽しみね」

 酔っているのだろうか、高笑いが聞こえそうな調子でそんな事をのたまっている。

「そう簡単にはいきませんよ」

 馬の力では勝っていましたから、とは声に出さずに腹に収める。

 それから宮代有紀はすっかり興が乗ったようにタブレットを弄り始めると、昔の写真を見せ始めた。広大な宮代ファームのほんの一角なのだろう、どこかの厩舎で撮られた何百枚もの仔馬の成長記録。

「アマスケは本当に人懐っこくてね、ラトナが子育てしないタイプだったのもあるんだけど――」

 そうして眺めているうちにちせも戻って来ると、三人でタブレットを囲んで、普段通りに馬の話が始まっていた。


 そうして話しているうちに時計は九時を回っており、いつの間にやらちせがすっかり眠りに落ちていた。近頃は小学生でも珍しい生活リズムだろうが明日も速い事を考えればお開きの頃合だ。

 ちせを背負ってタクシーを待っていると、ふと、隣に立っていた宮代有紀が言う。

「結局トライアルは使うの? 去年は直行って話だったけど」

 ホープフルから皐月賞への直行というローテはあくまでも勝った場合の想定であり、そのレースに負けてしまった以上、本番前に弥生賞で叩く案が本命として浮上している。当初から直行ローテに反対していた俺としては内心複雑な予定変更だ。

「さあ、アマツヒはどうするんです?」

「こちらは直行、トライアルは必要無いって判断」

 とぼけて話を戻すと宮代有紀は堂々としたものだった。だが、ここで情報を漏らしてしまう訳にはいかない。敵はアマツヒだけではない、宮代グループには世代の三番手、四番手が控えているのだ。

 そうしているうちにタクシーが着く。

「ともかく、後日コイツに聞いてください。俺はただ乗るだけですから」

 後部座席にちせを押し込みながら返していると、宮代有紀はその様子を見て苦笑しながら、何かを手渡してきた。

「使って頂戴、経費で落とすから」

 何事かと思いながら確認するとタクシーチケットらしい。

「こんなの経費で落として良いんですか?」

「構わないわよ、歴としたクラブの為の営業活動だもの」

 発言の意味を計りかねていると、宮代有紀は察したように続ける。

「今の調子が続くようなら、もしかしたらお願いする事もあると思いますので、その時はよろしくお願いしますね、大越凛太朗さん」

 突然の話に戸惑って見返すと、その表情は先ほどまでの酒に緩んだものではなかった。今の調子が続くようならばと宮代有紀は言った。つまりはまだ乗せないしこれから次第ではその機会は無いままかも知れない。だがしかし、有り得ない事ではない。この女はそう言っているのだ。

「そういう事なら、有難く」

 焚き付けられたような気になり、チケットを遠慮なく受け取ってタクシーに乗り込んだ。

「お支払いはチケットですか?」

 やり取りを聞いていたらしい運転手が遠慮がちに言った。記載ミスが無いか発車前に確認したいのかもしれない、預かったチケットをそのまま渡してやる。

 ふと外を見ると、見送りのつもりなのか、宮代有紀がまだ立っていた。

 何となく窓を開けると、向こうも近付いてくる。

「どうかした?」

 特に言いたいことがある訳では無かったのだが、そう言われて何も言わない訳にはいかない。頭を空にして、出てきた言葉に任せる事にした。

「さっき、当歳の頃のアマツヒは、レースに出られるのかも解らないような馬だったって」

「ああ、そうね、それくらい甘ちゃんだったけど」

「もし仮に、アマスケがレースに出られないような馬のまま終わったとしたら、その時は、貴方が引き取って面倒を見ていたんでしょうか?」

 何故そのような事を聞いたのか、自分自身でも解らなかったが、とにかく俺はそう尋ねた。そして宮代有紀は一瞬躊躇い、そしてその後ではっきりと首を振って否定した。

「それはやったらいけない事だから、有り得ません」

 やがて動き出した車の中で目を閉じると、その時の彼女の言葉が耳の奥で何度も繰り返されるのだった。悲しい言葉なのに何故だかひどく落ち着く、そういう不思議な優しさに満ちていた。






 二月に入り中山から府中へと変わると新年初G1の気配が漂い始める。とはいえ俺にはまだ縁遠い世界の話であり、誰かがうまい具合に騎乗停止でも食らっておこぼれに預かれやしないだろうか、などと下らない事を考えながら厩舎の戸を開けるとちせとばったり顔を合わせた。

 向こうも俺を探していたらしい、丁度良かったという言葉は声ではなく表情に出ている。

「新しい依頼でも来た?」

「一件、来ました。来週の日曜で……第八レース、芝二〇〇〇の四歳以上下級条件戦です」

「有り難いね、どこの馬?」

「馬主は杉本さんで厩舎は総一郎先生、馬名はスギノホウショウ」

 聞かされた懐かしい名前に思わずちせを見返すと、しかしその表情は決して明るくはない。

「クー、これがラストチャンスみたいです」

 降ってわいたような崖っぷちの再会だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る