大越凛太朗【raison d'tre ③】
日曜府中の第四レースは三歳新馬戦だった。六番人気を二着まで滑り込ませたあと一歩というレースを終えて、上機嫌なオーナーの軽口に付き合ってから、ジョッキールームへと引き上げる。
昼の時間帯でやや人の増えた室内で目的の人物を探すも見当たらず、折よく近場で談笑していた館川君に尋ねてみるとサウナの方で見かけたと言う。
「大越さん、トーマに何か用事でもあるんですか?」
親し気にその名を口にした館川君は俺の探し人である三浦斗真君と競馬学校の同期だった。何なら紹介しましょうかとまで続けてくれそうだったが生憎と人前でする話にはならない予定だ。
「大した用事じゃないよ」
誘いが来る前に会話を切り上げてサウナ室へ向かうと、どうやら三浦君以外に人はいないらしい。人払いの手間が省けた事をこれ幸いと入り込むと、三浦君は俺の姿を見て少し緊張した風に身体を固くした。
「同席しても良いかな?」
「はい、大丈夫です」
そうしてさり気無く声の届く範囲に座り、
「堀口先生のところの三浦斗真君だよね。大越と申します、どうぞよろしく」
初対面の挨拶に併せて軽く手を差し出すと、まだニキビの残っていそうな童顔を深々と下げながらいかにも有難がって受けてくれた。
「光栄です、ありがとうございます」
ここまで丁重に扱って貰うのは少し不気味でもあったが、考えてみれば一応ダービージョッキーだし今年ももう重賞勝ってるし、若手にしてみたら先輩の部類に入る騎手だったりするのだろうか。どうにも臼田厩舎で使い走りをやらされている日常とのギャップを覚えてしまう。
「実はちょっと教えて欲しい事があってさ……ああ、いや、そんなに変な話はしないから固くならないで欲しいんだけど」
見るからに固くなっている三浦君を宥めてどうにか話を聞いて貰う。初対面のオッサンからサウナでいきなり声を掛けられて【ちょっと教えて欲しい事がある】なんて言われた日には戸惑わない方が無理だろうが、栗東所属の三浦君と腰を据えて話す機会など今日この時くらいしかないのだから仕方がない。
「スギノホウショウの事なんだけどさ」
多少強引だったが、その名前を出すと三浦君も要件が怪しいものではない事を理解してくれたらしい。戸惑った風ではあるがようやく応じてくれる素振りが見えてきた。
クーことスギノホウショウ号は戦績は九戦して未勝利であり、二着と三着が三回ずつ、五着一回に着外が二回。着外に終わった二走はいずれも直近の格上挑戦だが、格上でもまるで歯が立たないという訳ではなく未勝利戦終了直後の九月に挑戦した下級条件戦では道中不利を受けたにも関わらず三着まで入っている。元々は三浦君が所属している栗東堀口厩舎の管理馬であり、昨年十二月からは鎬厩舎へと転厩したが、堀口厩舎時代の八戦中六戦は三浦君とコンビを組んでいた。
「来週、小倉の下級条件戦に登録する予定らしいんだ。で、俺に話が来てる」
「大越さんにですか?」
いかにも有り得ない事のように三浦君は表情をこわばらせる。
「そんなに意外?」
「だって四歳で未勝利の馬ですよ。大越さんに話をする位だから最低限レースは選んだんでしょうけど、仮に出走出来ても勝てる見込みだって薄いし、この時期の小倉なんてダービージョッキーを呼ぶ場所じゃないでしょ」
俺を持ち上げてくれているのだろうが、むず痒さで却って居心地が悪くなる。苦笑しながら気怠く手を振って否定した。
「そもそもダービージョッキーなんてガラじゃないから。それに、あの馬エトやレラと同郷なんだ。色々あって俺が面倒見てた時期もあるし、そんなだから乗りに行くつもりなんだけどさ――」
そこで一度言葉を止めて出入口の気配を探る風に振り向いてみせ、俺達の他に誰もいない事を三浦君に承知して貰う間を置いてから、本題を切り出した。
「――で、だ。十一月の福島で使った頃、何があった?」
三浦君は汗を払うような仕草で顔を拭い、そのまま俯き加減になって表情を隠そうとするが、当たりを引いた事はすぐに解った。目元を隠す一瞬、明らかにその視線が泳いでいた。
「九月の、阪神の時と比較して明らかに馬がおかしくなってたし、直後の転厩だったからさ……厩舎で何かあったのかなって」
馬が潰れた原因は堀口厩舎内のトラブルにあるのではないか――こんな質問を人前ですれば三浦君は当然何も答えてくれないし俺だってタダでは済まない。だからこそのサウナだ。
「どうにかして勝たせたいんだ、だから全部知っておきたい」
努めて柔らかい声色で呟くように語り掛けると、三浦君の顔がそっと上がる。
「俺、口は堅いからさ」
小さく頷いてからそんな風に微笑んでみせると、ぽつりぽつりと、三浦君は語り始めた。
曰く、入厩した当初のスギノホウショウはコンスタントに賞金を咥えて来そうな有望株だと考えられており、三歳の春に戻って来た当初も遠からず未勝利は勝てるだろうと語られていたこと。ところがレースになって抜け出すとどうしてもソラを使う癖があり、それが原因で何度も惜敗を繰り返したこと。そうしていくうちに厩舎の中でも諦めたような雰囲気になり、次第に馬房を無駄に埋めているだけのお荷物扱いになってしまったこと。
「ダートを走れるタイプじゃないから地方に出してどうにかなる馬じゃないし、未勝利を勝ち上がれなかった時点で引退を提案したそうなんですが、オーナーは格上挑戦になっても続けさせたい意向だったみたいで……ちょうどその時は宮代さんのクラブから上位厩舎に指名して貰えるかもって話も出ていて、少しでも空馬房を作りたかったから、先生も扱いに困ってて」
自分でも意外なほどに感情は冷めていた。長くこの世界に浸かり過ぎたせいか、三浦君がこの先語るであろう事を察しながらも、それを冷静に聞けてしまった。
「最初は口籠をつけてからかってた程度だったんです。でも担当さんまで一緒にやるようになって、他の馬に嫌な事されたらコイツに当たって良いよなんて言うようになって、歯止めがきかなくなりました」
コイツのせいで馬房を埋められて俺達は迷惑しているんだ。コイツがいなくなればチャンスが貰えるんだ――多分そんな風に、散々虐めたのだろう。
自己条件で出走できるレースが無くなれば格上挑戦せざるを得ず、出馬投票をしても常に除外の危険性が付きまとうし、仮に上位に入っても優先出走権を与えられず安定した出走奨励金を得られない。その上未勝利馬が格上挑戦するとなればローカルへと遠征させなければならないのだから、厩舎サイドにしてみれば儲けは薄く負担だけが増えるようなもの。月々の預託料がオーナーから入ってくることを差し引いても、勝てない馬の馬房は新しい馬に回したいのが本音だ。ましてや宮代からより上位の厩舎として扱われる可能性まで出ていれば言わずもがな、貴重な馬房を埋めている未勝利馬の存在はスタッフの不満を一身に集める格好の的になってしまったのだろう。
「頭の良いヤツだったんです。だから、イジメられるほど人間の言う事を聞かなくなって、そのせいで周りの人間もどんどんエスカレートして、最後はもう別の馬みたいに捻じ曲がってしまった……その状態で福島のレースに無理矢理捻じ込んで、そのあとスギノのマネージャーさんから連絡があって転厩になりました」
三浦君は懺悔する罪人のような雰囲気で語り終えると、俯いたまま、俺に顔を見せる事は無かった。何を今更という気もしたが、罪の意識を覚えているのだとすれば人が良すぎるとも思った。厩舎所属の新人騎手風情が徒党を組んだ厩務員達の行動をどうこうできるはずもないし、何より、そもそもがそういう世界だ。
走れない馬は金がかかるだけの不良債権。この業界の人間なら誰であっても多かれ少なかれ似たような結論に至っている。そして自分の得にならない存在はゴミと大して変わらない。どの業界だって、誰だって、そんなものだろう。
「ありがとう、聞けて良かった」
慰めてやるような真似はせず、短く礼を言って席を立つ。
「すみませんでした……でも、この事は」
怯えきった三浦君の態度にいつか見た父の影が重なる。
「言っただろ、口は堅いよ」
もしも今日のレースで三浦君が落馬したら俺は笑ってしまうのではないだろうか。そんなことを考えていた自分に気付くと、こめかみを垂れた汗はひどく冷たかった。
京都駅に着いたのは夕の五時を回ってすっかり陽も落ちた頃だった。改札を出るなり相手を探す手間もなく向こうの方から駆け寄って来て、押し込まれるように車に乗る。
「――そんな鞍の為にわざわざコッチまで来たんか、真面目なやっちゃな」
「突然悪かったな、助かるよ」
「まま、なんぼでも来たらええわ。お前来たらタケルも喜ぶしそうすりゃカミさんの機嫌も良くなる、何ならお前フリーになって栗東来いや、俺の顔で諸々世話したるで、せやけど嫁さんだけは自分で探さなあかんわ――」
動き出した車中でハンドルを操りながらマシンガントークを繰り広げるサブのことは放置して窓の外を眺めると、見慣れない京都の、夜の街並が広がっている。
「遊べる店連れてってもええけど、明日追い切りやし今日は家呑みにしようや」
「そこまで気使わなくて良いよ。そんなに物欲しそうにしてたか?」
「いや、お前の為のコースはちゃんと組んであんねん。明日の夜、明日の夜は楽しみにしとけや。淀の帝王の名にかけて京都の夜を教え込んだるわ」
「追い切り乗ったらすぐに帰るよ、夕方までには美浦に着いてるつもりだから」
「お前なんやねんホンマ」
「レラの世話があるんだよ。今日だって済ませてからコッチに来てんだぞ」
「そういうこっちゃのうて、昔からやけどノリ悪すぎやろ、おい聞いとんのか凛太朗――」
やかましいサブが妙に懐かしく思えたので考えてみると、こうして外で会うのは本当に久しぶりかも知れなかった。エトの件からまる一年近く雲隠れしていた事もあるが、場外で話すのは数年ぶりになるかも知れない。
「でもまあ、今日は呑むか」
改めて口にすると思わぬところに楽しさが浮かんできたようで、救われた気がした。
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