大越凛太朗【raison d'tre ④】
久方ぶりに顔を合わせるサブの家族との会話は流石にぎこちなくなるだろうと多少は構えていたのだが、サブが三体に分裂したようなマシンガントークが繰り広げられる食卓では気後れしている余裕も早々に消え失せた。
武尊と書いてタケルと読ませる古風なんだか現代的なんだか解り辛い名前のサブの息子は小学校に上がったばかりであり、コッチの記憶に残っている最後の姿は幼稚園のスモック姿だったからやはりそれなりの月日は経っているはずなのだが、会ってもいない間に俺の熱烈なファンになってくれたらしい、俺を見た途端にテンションを振り切ると、テーマパークのマスコットよろしくわざわざ勢いを付けて飛びついてきやがった。
「ぼく将来は凛太朗さんみたいな騎手になりたいねん」
今晩は豪勢にすき焼きとしてくれたようなのだが、タケ坊は豆腐を口に入れたままマシンガンをぶっ放すもので鉛玉の代わりに白い欠片が辺りに飛び散り、その度にサブが説教なんだか漫談なんだかよく解らない言葉をワンワン垂れ流すので二人の言葉があっちゃこっちゃに跳ね返る殴り合いのような会話が出来上がる。
妻であり母である千夏ちゃんは、昔はそれほどやかましかった印象も無いのだが環境に順応したのだろうか、
「そういう時は嘘でもお父さんみたいなって言わなあかんのやで」
取っ散らかった話題から本筋の話題を綺麗に摘み上げるとこれもまた勢い良く合いの手を入れてくる。
「そうだな、俺もそう思うぞ」
環境に引きずられるようにしてどうにか一言捻じ込むと一呼吸の間も置かずにタケ坊からボールが返ってきた。
「父ちゃんはアカン、ダービー勝ってへんのやもの」
何と返そうかと頭で考える一瞬の間に――
「かーッ! 小僧が一丁前にダービーなんぞと口にするんやないわボケ、誰に似たんやこの生意気なんは」
「そらアンタよ、間違いないわ。アンタも白井行く前はこんなんやったもの」
「何言ってんねん、俺が軽々しくダービーなんて口にする訳無いやろ。厩の子がダービーって言葉を軽く使ってはアカンのや。タケルも覚えとけ、ダービーに乗った事がない人間はダービーなんて軽々しく言ったらアカン」
――既に会話は次のステップへと進んでいるのである。正にサバイバル、発言権の争奪戦だ。
「そんなん言うたらファンの人がダービーのこと話せなくなるやないか、父ちゃん頭おかしいで」
「アホ、厩の人間の話や。一般の人と同じ基準で語ってどうする」
「厩の人でも厩務員さんもおれば騎手やらんで調教師になった人かて大勢おるやないか。父ちゃんの言い方やと藤井先生もダービーって言えんことになるで」
「ほんまにコイツは人の揚げ足取る事ばっかり覚えよって。おい凛太朗、お前からもなんか言うたってくれや」
飛び交う白い弾丸をぼんやり眺めながら溶いた卵に白菜をくぐらせていたら意識の外から名前を呼ばれ、我に返ると食卓の視線は俺に集中している。
「いや、まあ、そうだな」
完全に油断しきっていた所へのパス。対応できるはずもなくしどろもどろになっているとタケ坊がこましゃくれた仕草で言った。
「凛太朗さん、ここはボケを重ねて落とすところや」
俺は漫才をしたい訳じゃねえんだよ。と口に出して返せる程には頭が回らず、オッサンらしく「なるほどねえ」なんぞとぼやくだけ。
食事を終えてしばらくはタケ坊の描く将来の輝かしい展望(曰くダービーは序の口で凱旋門とかBCとかドバイとか)を拝聴していたが、眠くなり始めたらしいタケ坊を千夏ちゃんが風呂へ連れて行くと、流石にサブも話疲れていたのだろう、二人で酒を舐めていると風呂場の物音が聞き取れる程度に、静かな食卓だった。
「未来のリーディングか」
「いやホンマ、悪かった」
そう言ったサブは珍しく照れたように頭をかいている。
「楽しかったよ、良い気分転換になった」
小皿に盛った塩を人差し指ですくいながら酒を舐める、十年前に良くやっていたようなダラダラと家で呑む時の作法。時間は経ちお互い立ち位置も変わりはしたが、結局二人で呑むときはこれに落ち着く。
「乗馬とか始めてるのか?」
「いや、何も。別に焦る必要も無いやろ」
「お前が乗馬始めたのってアレくらいじゃないの?」
「まあ、自分からやりたいって言えば止めはせんけどな」
先程までとは打って変わって歯切れの悪い様が、聞き出すまでもなく雄弁に語っていた。
「やらせたくはない?」
「俺は、親父が騎手にしたがっとったからな。厩務員の立場には高々ニ、三分のレースに乗るだけで一番良い所持って行く美味しい仕事に見えてたんやろ」
父親の事を思い浮かべているのだろう、サブは皮肉めいた物言いを隠そうとしていない。
「間違いではないだろ」
そう茶化してやると苦笑していた。
「冗談やないわ。年がら年中体重気にしてレースじゃそれこそ死ぬ気で乗ってるのに観客からは罵倒されふんぞり返ってるだけの調教師やら馬主も言いたい放題、挙句の果てにゃ厩務員連中まで気を回して頭を下げんと嫌がらせされる。この仕事の何が美味しいだけなもんか」
「なるほど、一万理ある」
騎手二人で呑んでいるのだからこれくらいの愚痴は許されるだろう。そう思って同意してやると、しかしサブは続けた。
「でもま、楽しいからな。馬乗って、レースして、楽しい。有り難い仕事や」
サブは競馬が好きだ。厩務員の家庭に生まれて栗東で育ち、脇目も降らずに騎手だけを目指してがむしゃらにやって来た男だ。その根底にあるのは競馬という競技や厩仕事への誇りであり、愛情だ。
「じゃ、なんで?」
酒の肴程度の感覚で更に質問を繋げてみると、サブは少し複雑そうな表情で俺のことを流し見してきたようだった。
「時代が違う。俺の頃はまだ厩の子が厩の仕事を探すのは自然やった。周りもそれを当然として受け入れとったし、よほどの事が無きゃ食いっぱぐれる心配だってなかった。でも、これからはもうそれが無い。内とか外とかそんなもんは関係無くなって、生き残るのは総司みたいな本物だけや」
そうして意味深な視線の理由が解ってしまうと、言ってやらずにはいられなくなる。
「そんなの当たり前だろ」
俺の立場からしてみればサブ達がズルかったのだ。そんな思いを抱えながら言ってやると、サブはご尤もだと頭を下げてから続ける。
「ただな、先を考えればトレセン自体がどうなるか解らんような状況で、そうなりゃ騎手なんて、ただのつぶしがきかない危険職やないか」
言い終えると、サブは塩を一舐めしてから勢いよく酒を呷った。
「まあそんでも、楽しいからな。やりたいって言われたら、止めはせんけど」
サブは、まるでそれが精一杯だとでも言いたげな雰囲気でそう言った。俺にはその理由が解らなかった。
サブの言葉を思い返しながら、その真意を探っていると、サブは付け加えるように言う。
「周りを見れば星の数ほど仕事があるんやから、小さな頃から馬の事ばっかり考えるよりもっと広いところから選ばせたい、その方が幸せになれるんやないか……なんて、親ってもんはそう考えてしまうものなんや」
いつになく穏やかだったサブの言葉を理解出来ないまま、俺は曖昧に頷いた。
翌朝、サブの運転でトレセンに入ると直接小天狗へは入らず、鎬厩舎で降ろして貰った。
早朝の忙しい時間帯に突如現れた見慣れない騎手の存在は作業中の厩務員にしてみればとてつもない厄介者に違いなく当然のように冷たい視線を受ける事となったが、どうにか頭を下げてクーの馬房を教えて貰う。
「アンタ本当にコイツの追い切りの為にわざわざ来たの? まだ除外の可能性だってあるのに」
しぶしぶ案内してくれたのは、年は六十手前といったところだろう、クーの担当だというベテラン風の厩務員だった。薄汚れたブルゾンにキャップを目深に被って無精ひげをぼうぼうにしており、その上ヘビースモーカーなのだろう、口を開く度にヤニでボロボロになった歯が覗けるものだから、ここがトレセンでなければホームレスだと誤解されそうな小汚さだ。
「除外になったらなったで仕方ないですよ。他にも小倉で乗せて頂く鞍の追い切りが幾つかあるはずなので、それも都合が合えば乗らせて貰う予定です」
そして愛想も無かったが、これは本人の性格というよりも歓迎されていないだけかも知れない。ベテラン厩務員の中には自分の知らない騎手が調教に乗る事を嫌がる人種もいる。見ず知らずの他人に任せるより自分の扱い易い助手に任せた方が思い通りに馬を操れるからだろう。
果たして澤田と名乗るその厩務員はスギノホウショウの馬房の前に俺を通すと、いかにも面白くなさそうに当て擦りを吐き捨てた。
「騎手の追い切りなんてマスコミ向けなんだから、こんな下の馬は俺らに任せとけば良いんだよ。コッチは少ない手当で仕事してるんだから、最近じゃ持ち乗りみたいな真似をしたがる騎手が増えてきて困ってるんだ」
言葉面だけ微妙に丁寧なのがまた腹立たしいがあくまで笑顔をキープ、案外俺がレラにしている事が気に食わない事もあるのだろうか、なんて考えながら聞き流す。
「久しぶりだな、クー」
馬房の奥に引っ込んでケツを向けている馬に声を掛けてやると、澤田は鼻で笑った。反応する訳ねえだろなんて嘲りが聞こえてきそうな、不快な笑いだ。
「無理だって。コイツの牧場で暫く見てたって話は聞いてるけど、人の言う事聞く馬じゃねえよ」
「クー、おい、クーってば。覚えてねえのか、俺だよ、凛太朗だ」
無視して声を掛け続けていると、澤田は舌打ちをしてからだった。
「おいホウショウ、コッチ向け。でないと今日はメシ抜きだぞ」
澤田の一言はてきめんだった。俺の言葉にはピクリとも反応しなかったはずの馬はのっそりとこちらに向き直り首だし窓から顔を出す。
額に弓張月のような星がある、間違いなくクーだ。そのはずだった。
「もう出すからな、メシが食いたきゃしっかり走って鍛えて来い」
澤田はクーに触れようとはせず言葉だけかけると、俺の方に向き直って言う。
「アンタの安全の為に忠告してやるけど、今のコイツは超が付く程の取り扱い要注意だ。悪い事は言わないから、昔のイメージは今のうちに捨てておけ」
それは決して嫌味などではなく本当の意味での忠告なのだろう。そう素直に聞き入れてしまうほど、目の前のクーは牧場にいた穏やかな馬とまるで違っていた。
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