大越凛太朗【東京優駿~Derby Week⑥】

 気が付けばサウナルームの人影は消えていた。それほど長居していたつもりも無かったのだが感覚より時間が経っていたのか、それとも気を遣わせたのか。手櫛が出来る程度に伸びた髪をかきあげて汗を弾いてみると、やはりそれほど長くなっている訳ではない。

 下を向いて腕を組み、頬を垂れていく汗を数えるように時を過ごす。重力に引かれて床に落ちた雫を二桁ほども数えた頃にふと外界の音が耳に入り、扉を開けて入ってきた人物はわざわざ、そしてためらうこともなく、俺の隣に腰を下ろしたようだった。

 視線だけ向けると、総司は持ち込んだタオルを軽く絞ってから頭に被せ、俺と同じように下を向く。総司が持ち込んだ僅かな冷気が感じられたのは殆ど一瞬だった。

 あちらから声をかけてくるようなことはなくまた落ちていく雫を数え始めたが、我慢比べをするつもりも無い。

「何かあるから隣来たんじゃねえの。こんだけ広いのに、わざわざ」

「離れて座るのもなんか負けたみたいでイヤじゃないですか」

 恐らく本気で言っているあたりが競馬村の王子たる所以だろう。何を言っても、どう振る舞っても、相手に邪気を感じさせない。そういう何かが鎬総司という人物にはある。

「意識させた時点で俺の勝ちだな」

 掌で額の汗を拭い、指先についた雫を払う。

「熱いなら無理せん方がええですよ」

「誰かさんと違って減量の苦労はないんでね。今回はぶっ倒れても助けてやんねえからな」

「明日はメイン以外乗りませんから」

「そりゃあみんな喜ぶ」

「大越さんも一鞍でしょう」

「俺の場合は断る鞍が無いだけ」

 総司は頭に被っていたタオルで顔を拭った。

「親父に言ったら、止められました。余計なプレッシャーがかかるだけだって」

 不意にそんな話が出て、いつぞやモチ子の打ち上げの席上で絡まれた鎬総一郎の姿が思い浮かんだ。アドバイスなんてしないとかダービーを勝つにはまだ早いとか、そんな風に憎まれ口を言っていた記憶があるが、結局のところ大事にしているらしい。

「有難いアドバイスに何でわざわざ反抗したんだよ」

「有馬の時、親父は毎回一鞍でした。ダービーを勝った時もやってます」

 わざわざ調べたのか、調べるまでも無く知っていたのか、いずれにせよ自然とそういう返事が出てくるあたりにどうしようもなく苦笑してしまいそうになる。

「自分はさておきお前には向いてない。そう思ったんじゃねえの」

 受け流すと総司の言葉が止んだ。

 頬を伝う雫が十六落ちたのを数え、熱くなってきた首の裏を揉みながら、そろそろ出ようかとふと考え、いやもう少しと思い直す。それから二度雫が落ちた時、総司は言った。

「大越さんも勝負所の一鞍騎乗よくやってるじゃないですか」

 俺のことなんぞどうでも良いだろう。今度こそ呆れ笑いが漏れた。

「言っただろ、俺は断る鞍が無いだけだって」

「明さんぼやいてましたよ、目黒の本命回したのに蹴られたって」

 天下の宮代がその手の情報を利害関係者にアッサリ漏らしているのはコンプライアンス的にいかがなものかと思ってしまうが、権力と金を腐るほど持っていても頭の中身が筋金入りの牧場のオッサンだ、言っても無駄だろう。

「逃げられない環境で真正面から乗り越える胆力も騎手の才能、そう言われました」

 しかも相変わらず俺をダシに使っている。

「そういう騎手は乗り越えることでむしろプレッシャーを追い風に出来る、とも」

 自分から相談したのか、向こうが一方的に語ったのかは定かではないが、結局のところまたまんまと乗せられている訳だ。俺よりも付き合いが長いはずなのだから、いい加減宮代明という人物を少しは理解した方が良い。

 あの男は人間のことを強い馬を作る為の道具程度にしか考えていない。

「宮代さんが言う事は解らないけど、お前がそうしたいならそれで良いんじゃないの」

 俺は自分を追い込む為にそれをする。しかし宮代明の発言を表向き肯定も否定もしない。そんなものは個々人の騎手が考えて選ぶべきことだ。

「先に進む為に、全てクリアします」

 そのために総司というまだ若い騎手が試行錯誤することは必要な過程だ。

「良いんじゃねえの」

 俺はもう一度言い、目元の汗を指で拭った。

 目蓋を閉じて下を向き、肌を這う汗を感じる。暗闇の中、こめかみを伝った雫が頬を撫で、顎の輪郭をなぞるようにして先端で留まる。やがて後ろから来た雫が玉突きのように合流すると、糸が切り離されたかのように、ふっと落ちて消えていく。そうしてまた別のところから垂れてきた雫が溜まり、何度も、何度も、繰り返す。

 何度繰り返したのか解らないほど繰り返した時、俺はふと言っていた。

「先ってのは、何だ?」

 俺がそう発したことを熱気で忘れてしまうくらいの間を空けてから、総司は答えた。

「騎手としての理想のことです。大越さん、前にも似たようなことを聞いてくれましたけど、明日のダービーとか、この先の凱旋門とか、まして他の騎手とか、そういうのを目標にするのは、今はそれ自体が違うような気がしてます」

 とてもではないが笑えない。よりにもよってそのダービーの前日に、総司はどこまでも真剣にこれを語っている。そして実際に、彼は馬に乗れなくなるまでそれを求め続けるのだろう。競馬村の王子などという茶化した表現ではなく、騎手としての格がまるで違うのだ。

「立派だな」

「生意気なのは承知してます。でも、本気ですから」

「知ってるよ。だから俺も本音だ。本当に立派だと思う」

 両の掌で汗を払いながら目蓋を開く。久々に感じる光の眩さに細まった視界で総司を見ると、ヤツは頭からタオルを被り、先ほどまで俺がしていたように下に向いている。その仕草を見て、今更、けれどどうしようもなく悔しくなった。

「俺はお前みたいに考えられない」

 明日のダービーを勝てるなら先なんていらない――そう思いが至った時、全て腑に落ちた。

 レラがアマツヒに負ける度に、俺は死んでいたのだ。

 エトには、レラには、最強でいて貰わなければならなかったのだ。

 俺という人生を肯定する為には、レラを頂点に立たせなければならないのだ。

「結局俺は自分のことだけだ」

 先生や宮代明、そして総司のように命をかけて競馬と向き合う訳でもない。ちせや有紀のように純粋に馬を愛することも出来ない。俺が馬に乗ることは、レラを走らせる理由は、俺の為でしかない。

「それでも、明日はレラが勝つ」

 俺は俺の為に、ダービーレイを首にかけ、ちせや先生の人生に歓喜の瞬間を演出し、十数万の観客から祝福を受ける、そういうレラを作り出さなければならない。

 額の汗をぬぐい、腰を上げた。

 先に出ることを伝えようとすると、総司は気遣ったように、何かを言おうとして俺を見ていた。

 だがそれは違う。総司が望むままに生きるように、俺だってそう言っても良いはずなのだ。

「勘違いすんなよ。これで結構納得してるんだ」

 だから口を封じるようにそう言った。

 生きるために、俺はレラに乗る。

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優駿 尾和次郎 @owatarou

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