大越凛太朗【牧場編⑦・終】
月日が流れるのは早いもので、レタルとクーの二頭は年明け早々に牧場を出てそれぞれの調整地へと向かった。残されたレラは少し寂しそうだったがそれも僅かな期間だ。程なくしてテキから連絡が入り入厩日が正式に決まれば、この牧場の終わりも決まる。
美浦で暮らす意思を固めてからのちせはそれまでとは打って変わって活力に満ちていた。牧場を閉めることへのネガティブな感情など欠片も見せずむしろ新しい生活への希望を見出しているかのように、引っ越し業者の手配やライフライン類の解約手続きその他役所への届け出など、俺も知らなかった諸々の段取りまで感心するほど手際よくこなしていった。
引っ越し前日、荷造りを終えた段ボールが一足先に運び出されると、見事にすっからかんになった事務室は僅か半年程度の付き合いだが妙に寂しい。部屋の隅に置かれていたトロフィーケースも使い古して黄色いスポンジが飛び出ていたボロのソファも今は影も無く、夕焼け時の陽射しには床の日焼け跡だけが浮かんでいる。
「何かありましたか?」
ぼんやり眺めていると、作業着姿のちせが事務室の入り口に立っていた。
「別に何も、ぼーっとしてた……水道は?」
「無事終わって、今帰られました。電気もガスも電話も、これで全部完了です」
両手を天に突き上げるガッツポーズをしながらちせは言った。今日は一日中業者の対応をしていたから、やりきった充実感もひとしおだろう。
「引っ越してから処理しても良いんでしょうけど、あんまりすぐに戻って来るのも辛くなりそうだったので……今晩だけちょっと不便ですけどね」
如何せん古い牧場なだけあってライフラインの類を止める為には立ち合いが必須だと言われてしまったらしい。だが、一度美浦まで出た後でわざわざその為に戻って来るのも面倒だ。それならばと、相談して出発前に止めてしまう事に決めたのだ。
「ともかくお疲れ様……暗くなる前に火起こししとくよ」
「なんか優しいですね」
「一日蚊帳の外だったからな、それ位はやらせて貰うさ」
手続きの関係はちせに任せざるを得ないため、今日の俺は本当に何もできていなかった。要するに、がらんどうの牧場をふらついて芽生えた罪悪感の埋め合わせだ。
野焼き用の一斗缶で馬房の木板や余り物の干草を少しずつ燃やす。冷蔵庫に最後まで残っていた食材は、塩コショウだけ軽く振ってバターと一緒にアルミホイルにくるんで火の近くに置いておく。鍋やヤカンは一足早く美浦へと送り出してしまっており湯を沸かす事は出来ないが、水を腹に入れてから火に当たれば身体の中で良い具合に温まってくれるだろう。
その夜はレラもちゃんと解っている風に馬房の中にいて、俺とちせはレラの馬房の前に藁を敷いて陣取った。レラにも残っていた飼料やおやつの類を全部出してやったから、二人と一頭の、ちょっとした最後の晩餐気分だ。
「そういや布団も無いな」
「一晩くらいなら藁で大丈夫ですよ、平気平気」
「試した事あるの?」
「前はよく一緒に寝てたんだよね、レラ」
名を呼ばれると、レラは返事の代わりにちせに近付き彼女を背から抱き包むように膝を畳んだ。一斗缶から漏れる炎の薄明かりに照らされると、さながら美しい栗色の毛並みを専用のソファとして供しているようでもある。
「レラの匂い、すごーく落ち着くんです。だからなかなかやめられなくて」
「やめられなくて、どうした」
「しょっちゅうここで寝泊まりしてたら、同級生にからかわれちゃって」
「学校やめたのはそれが理由か」
炎が弱くなり過ぎないよう干草を一斗缶に放り込みながら、火挟みでアルミホイルの包みを二つ拾い、一つはちせに届ける。
「それはただのきっかけですかね。どっちかと言うとエトが勝ってた方が直接の理由かも」
「エトが?」
「エトが勝つって事は、鎬さんが乗ってる馬が、良く解らない騎手が乗ってるウチの馬に負けるって事でしょ。そういうのでも理由になっちゃうんですよ」
返ってきた答えに呆れながら、ホイルを開くと鹿肉だった。ちせの引っ越しを聞きつけて五キロも離れた隣人がわざわざ届けてくれた、産地直送の餞別だ。
「良く解らない騎手で悪かったな……にしても、総司はそんなに人気なのか」
「競馬を知らない子でも鎬さんの事は知ってますから、アイドルみたいな感じです。いかにも王子様っぽいイメージだし」
「まあ確かにな。そうすると、悪役の俺は世間じゃボロクソに言われてた訳だ」
「……そこは知らない方が幸せだと思います」
ちせが意味ありげに言うと、レラはわざわざ俺の方を向いて小ばかにした風に笑った。その反応も含めて俺からすれば面白くない。
「何にせよクソ面白くもない話だ」
色々と混ざったぼやきが出ると、当事者のちせは却ってあっさりしたもので、
「私からも言いたい事は言えましたから、後悔は無いですよ」
思い出しの微笑みさえ浮かべながら流している。
「この牧場に生まれた事、嫌になったりしないの?」
「そんなの何百回もありますよ。不便だし、同い年の友達とか出来ませんし」
「コンビニ無いし、人より動物の方が多いし」
「ホントそれ……そうなんですけど、でも、ここで生まれなかった自分のことも想像出来ないから」
湯気を立てている鹿肉を指で摘み、吐息で冷ましながら口に運ぶ。アッサリした鹿肉にはバターが合うという事を、俺はここの暮らしで知った。
「もし仮に、どこかのサラリーマンの家庭に生まれて、馬や牧場と何の関係もない暮らしをしていたら、それってもう私じゃない気がするし」
「確かに、そりゃそうだ」
放課後の教室で仲間と気怠く駄弁ったり、部活に全力投球したり、スカートの長さについて小一時間悩んだり、ファッション誌を読んでバイトを始めたり――そういう芋っぽくない暮らし方をしていたら、それはもうちせではないという気がする。
そこいらの爺さん婆さんよりもよほどに早起きで、当たり前のように素手でボロに触れて、自分の髪より馬のたてがみを手入れする事に慣れていて、甘い香水ではなく干草みたいにお日様の匂いがする――そんな芋娘だからこそレラ達からも好かれているのだろう。
ふと、馬房の壁に映し出されていたちせの影が天井の方へ向いた。
「この牧場、明治から続いてたんですよ」
目鼻立ちの整った影は、揺らめく赤橙の炎の中で、じっと空を見つめている。
「それはまた、想像以上に古かったんだな」
「最初は内地から連れてきた軍馬の世話をしていたそうです。レラ達のずっとずっとご先祖様は、その時に預かっていた馬なんですって」
聞いた瞬間に、エトとレラの母系に連なる謎のサラ系の存在がピンと来た。
「サラ系の出所はそれか?」
「そうです。詳細は資料が残ってないので解りませんけど、元は内地から連れてきた在来種だったって聞いてます。
私のご先祖様、冬山で遭難した事があったらしいんですけど、その馬に命を救われたみたいで。よっぽど感動したんでしょうね、馬産の血統主義が入って来た時代というのもあったんでしょうけど、その血を伝える為に牧場を始めたとか……なーんて、百年以上も昔の言い伝えですよ」
ちせが淡々と語った話に全身が泡肌立ち、表情に出てしまわないようそっと唇を噛む。
競馬産業は徹頭徹尾血統主義だ。現存する競走馬の全ての血統がたった三頭の種牡馬に遡れるとまで言われるこの世界で、遥か昔に排された日本在来種の血統が伝えられているなどという事態は、およそ尋常な意志では成し得ない。
言ってしまえば、この牧場そのものがその血統を残す為に仕事をしてきたと表現しても過言ではないだろう。
「大した情熱だ」
俺は素直にそう言った。そう言うしか出来なかった。
「明日で終わっちゃいますけどね。それでも今まで頑張ったんだから、きっとご先祖様も許してくれますよ」
ちせは先程語った内容の重圧など欠片も見せずに、冗談めかして笑う。
その笑い声を聞くと、顔も知らないはずのちせの祖父の事を思わされた。
その馬の血を伝えるという祖先の意志を継ぐことがこの牧場の意義なのだとすれば、それはあまりにも宿命めいたものを帯びてしまっている。そう考えれば、己の死期を悟った老人は天涯孤独になってしまう孫娘を自由にしてやる為にこそ、この牧場を終わらせる決断をしたのだろう。
「レラがいるさ」
ちせの背もたれになるようにして膝を畳んでいるレラは、話の内容に興味が無いらしくあさっての方向を向いている。その瞳が揺れる炎の灯りを反射して輝くと、何かの宝石が宙に浮かんでいるようにも見える。
「言い伝えの事は、実は、本当に、あんまり気にしてない、かな」
ちせは、遠慮がちに言う。
「でも、この牧場がその馬の血を遺す為にあったのだとしたら、その為に沢山のご先祖様が伝えてくれたのだとしたら、繋げてきた糸の先でレラが生まれてくれたから、全部信じても良いくらい、本当に、ありがたい」
一つ一つの言葉の意味を確かめるように、ゆっくりと語られた話を聞き終えてから、俺は立ち上がる。
弱まった炎が消えないように、一斗缶の炎の中へ木板をそっと投げ入れた。
馬運車の到着を待つ間、ちせとレラは静かに風景を眺めており、気軽に立ち入れる雰囲気ではなかった。
生の全てを過ごしてきた風景が終わる瞬間。野犬を狩った山も、読み聞かせをした牧場も、皆で食事をした馬房も、他馬と競って遊んでいた玩具のようなコースも、これで見納めになる。
「最後はやるだけだ」
何気なく漏れた呟きだったが、ちせも、レラも、確かに頷いた。
失うものは一つも無く、取り返せるものも一つとしてありはしない。一族が繋いできた集大成を見せつける為だけに、彼等と俺はターフへ向かう。得るのは勝利の栄光か敗北の屈辱か、不確かな未来へ向けて賽は既に投げられている。
ふと、風が吹き牧場の若葉を揺らした。頬を撫でる心地よい風に“レラ”とちせが呟いた。
「方言なんです。風を、こういう風を、お爺ちゃんはレラって言っていました」
「コイツが生まれた時も?」
「ええ、今日みたいに、とても気持ち良い風でした」
俺へ向くのではなくレラに語り掛けるように。その姿は、この風を、故郷の色彩を、どこかに覚えておいて欲しいと、そう伝えているように見えた。
やがて馬運車が到着すると俺達は手ぶらで乗り込んだ。旅立ちは身軽な方が良いと昔の人は語ったそうだが、そう考えればこれ以上ない旅立ちだろう。
ちせは振り返らずにさようならと別れを告げた。
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