大越凛太朗【Makedebut①】

 厩舎に顔を出すとちせはもう作業を始めていて、おはようございますなんて初々しい挨拶をよこす。事務屋扱いのはずがそこらの厩務員より手際よく作業をこなすのだから、厩舎からすれば優良物件には違いない。

「テキは?」

「天狗山、もう出ました」

「今日何本だって?」

「最低五本、悪ければ六本って言ってましたよ」

 トチ狂ったスパルタメニューを当たり前のように告げたちせに、僅か三か月でも時の流れは無常にして無情にも人を変えてしまうものだと、独身の身空でありながら【大人になった娘】に気が付いた男親のような寂しさを覚える。

 牧場にいた温和な芋娘は、美浦一番の極悪調教師ことアキトシ・ウスタの手によって、丸の内のSM嬢も裸足で逃げ出す鞭の似合うサディストに変えられてしまった。椎名林檎も真っ青だなんて冗談は、ジェネレーションギャップに叩きのめされるだけなのでもう言わない。

 過激派動物愛護団体がこの極悪調教師の存在を聞きつければ即座に彼を抹殺せんが為の暗殺部隊を送り込んでくれるのではなかろうかとも思うが、己が意に沿わない相手は馬主であろうと鉄拳で支配し、競馬会からの制裁も余裕綽々どこ吹く風で十数年間この業界を渡り歩いてきたテキのこと、ベトナム帰りのスタローンよろしく素手で返り討ちにするまであるだろう。

 朝っぱらから主食がピザで副菜ステーキみたいなヘビー級メニューを課せられて胃もたれしそうな心境だったが、遅刻すれば六本が七本に増えるのだから遊んでいる時間も無い。

「レラの引き運動は俺がやるから、そのまま馬場に連れて行く」

 その名を口に出すと、馬房からひょっこり顔を出した相棒の、鮮魚売り場に並べられた魚のような、濁った瞳と目が合った。


 まだ陽も登らない五時前、薄暗いトレセンでレラを引いて歩きながら、すれ違う他厩舎の厩務員は軽く会釈をしてやり過ごす。

 殆ど半年ぶりにトレセンに戻った俺へ向けられる視線は、決して温かいものではなかった。【大騒ぎを起こした挙句にバックレた傍迷惑なヤツ】というのが大多数からの認識であり、まさかそんな人間が騎手を続けるとは思っていないのだろう、一部では【大越は騎手を辞めて調教助手として拾われた】という噂まで流れているらしい。

『ダービージョッキーも落ちぶれたもんだ、だってよ』

 今しがたすれ違った厩務員の独り言だろうか、馬の耳は性能が良く俺が聞き取れない言葉までレラはしっかり聞き取って逐一報告してくれる。有難いようだがすれ違いざまにボヤかれる言葉なんて大抵が人という種の真に迫るが如き罵詈雑言の類であり、要するに聞かされても気分の良くなるものでは無いからメンタルが余計に擦り減るだけだ。

「一々報告すんじゃねえよ、ヘコむから」

『だから言ってんだよ』

「性格悪いな、お前」

『お互い様だろ』

 レラもハードな調教に疲労困憊と言った所だろう、身体は温まってきたはずだがドブ川よりも濁った瞳は虚ろに宙を彷徨っている。

「馬って筋肉痛とかあんのか?」

『キンニクツーが何だか解らねえけど、脚がガクガクしてしょうがねえ。故障じゃねえのか、これ』

「自分で言えるなら大丈夫だな、まあ頑張れ」

『ふざけんな、たまにはお前が走りやがれ』

「他人に嫌な事をしたら返ってくるんだよ、覚えておけ」

 やり合いながら調教馬場へ向かう道中『目が死んでるぞ』とレラに言われたが、相棒とは言えそんなところまでシンクロしたくはない。



 調教を終えると俺達は出汁を取り切った昆布みたいにヘロヘロのくたくたになっており、馬場から引き上げるその足取りはさながら無限に広がる砂漠で水を求めてさまよい歩く死にかけのキャラバン隊だろう。昨今の美浦村で話題になっている新手の坂路難民とは何を隠そう俺達の事であり、悪魔の手先に違いないかのイカレ調教師USUTAのスパルタは遠からずこの命まで奪い去るのではないかと真剣に危惧するこの頃、キャラバン隊はどうにかオアシスならぬ我らが厩舎へ辿り着き、今日も命を繋ぎ止められた事に感謝しつつ地獄を共に乗り越えた事で一層絆を深めた相棒に水を浴びせていると、朝カイバの準備を終えたちせが出てきて客だと言う。

「俺にか?」

「記者さんだそうです、後は私がやっておきますから」

 俺としては作業を途中で放り出すのは後味が悪かったのだが、地獄を共にし強固な絆で結ばれていたはずの相棒はちせが出てきた途端に俺への信頼をゴミ箱送りで抹消したらしい。

『さっさと行って来いよ』

 吐き捨てるが如き元相棒の物言いに感じた不満は隠さずに、ブラシを地面に投げ捨てるようにしてその場を離れた。

 事務室には見た事が無い新顔記者がいた。

 牡、二十歳前半だろうか。いかにも大学出てきましたみたいなクソ真面目さを感じさせるスーツ姿が美浦村では逆に新鮮に映る。七三にして眼鏡でもかければ一昔前のステレオタイプな日本人像そのものだろう、百八十近くありそうな長身だが、スラッとしたと表現するよりヒョロッとした牛蒡みたいな体形だ。

 会釈をするとハートマン軍曹に怯える新人りのように直立し、アル中ばりに手を震わせながら名刺を差し出してきた。

「ああ……広報部の」

 競馬会の広報部はコマーシャルやファンイベントの企画等を一手に担うセクションだが、中核事業は何といっても競馬会公式情報誌の発行である。

 馬のグラビアがメインコンテンツというこの情報誌、一般社会からすると中々にぶっ飛んだ存在に思われるのだろうが、名前も知らない水着アイドルのケツよりも牡牝を問わず競走馬のケツを見たいというマニアックな性癖の持ち主が世間には案外多いのだろうか、いち団体の機関誌という立ち位置であるにも関わらず本誌売上だけで黒字ベースだと言うのだから競馬ファンの変態ぶりには恐れ入る。

「よ、よ、蓬田と申します……よろしくお願いします!」

「今日は取材?」

「はい!」

「俺で良いの?」

「はい!」

「何を聞きたいの?」

「はい!」

「……ふざけてんの?」

「はい!」

 これである。

 ヨモギダ青年が妙に緊張しているせいでイジメ現場のような雰囲気になってしまっており、落ち着いて世間話を出来る状況ではない。今厩舎のドアを開ける人がいたら、間違いなく誤解を解くのに苦労するだろう。

「取り敢えず座んなよ、お茶出すから」

「はい!」

 生真面目過ぎて苦笑してしまうが、ともかく嫌なヤツでない事は確かだろうから、椅子を引いて座るように促す。

「コーヒーで良いか?」

「はい!」

「ブラック?」

「はい!」

「砂糖は?」

「はい! あ、無くて大丈夫です」

 ようやく多少は落ち着いたのだろうか、受け答えが出来るようになったのを見てからカップを持って俺も席に着く。

 対面に座ったヨモギダ青年をもう一度まじまじ観察すると、恐らくトレセンに来たこと自体初めてなのだろう、まだ新しいはずのスーツの裾や革靴が泥にまみれて悲惨な事になっていた。

「情報誌の編集さん?」

「あ、そうです」

 まずは当たり障りない世間話から持ち掛ける。

 世間話は村社会における必須スキル。コミュニケーションが無くとも仕事が出来る業界もあるらしいが、競馬の社会は一にコミュ力二にコミュ力三・四が飲み力五にコミュ力とは大尊師臼田調教師の言であり、臼田厩舎の一員として叩き込まれた無駄知識の中で唯一と言ってもよい有益な情報だった。

 下らない世間話は人間関係の潤滑油であり、朝飯の話題からシモの話題まで手広くカバーする話術を磨く事で強い馬を取ってくるのだ、と。

「競馬はいつから?」

「小学生の頃から」

「好きな逃げ馬は?」

「ターボ師匠でしょうか」

「勝てる馬よりハラハラする方が好き?」

「見てて楽しいので、強い逃げ馬ならスズカですかね」

「二着と言えば?」

「ステゴかドトウ」

「三着と言えば?」

「それは断然ネイチャです」

「親御さんは?」

「普通のサラリーマンでした」

「外から入ると大変でしょ、この世界」

「いや……でも、そうですね」

 会話の流れで笑顔が見え始めると競馬オタクである事が良く解った。好きが高じて外の世界から業界に飛び込んだ人種であり、もしかすると情熱と現実のギャップに悩み始めている頃なのかも知れない。それまで淀みなく答えていた彼に生じた僅かな間こそが内面の煩悶を表しているように聞こえた。

 俺自身、外からこの世界に入った人間だから何となく解る部分もある。

「で、今日はどうしたの?」

 緊張も解けた所で本題を切り出す。俺も調教上がりでヘロヘロだし、午後もレラの運動に付き合ってやらなければならないからさっさと飯を食べて休んでおきたいのだ。

 水を向けると、ヨモギダ青年は慌ててレコーダーを取り出した。録音ボタンを押してから「よろしいでしょうか」と許可を求めるのは順番が違う気もするが、いい加減話を進めたいので細かい事はまあ良しとしよう。

「注目の二歳馬としてレラカムイ号の特集を企画しておりまして、今日はその取材に伺いました」

「そっか、それは有難うございます」

「大越騎手が牧場まで出向いて、騎乗訓練から携わっていたという情報もあるのですが、本当ですか?」

「本当だよ。あの騒動の後で送られて一緒に戻ってきたってこと」

「牧場ではどのような訓練を?」

「普通だよ。簡単な追い運動とか、後は山行ったりとか――」

 その後は暫く当たり障りのない話が続き、ヨモギダ青年は熱心にペンを走らせながら聞いてくれたのだが、血統の話に行き着くと途端に口が重くなった。

 その重さは過失致死をやらかした重罪人に事故の過程を尋ねる事への躊躇いに違いない。言葉の裏で全兄であるエトの存在を、その血統表に記された血筋の重みを、強く意識していることが却って解り易かった。

「絶滅寸前の内国産父系から出た起死回生の化物だ、その意味くらいは解ってるさ」

 エトの死に与えられた意味は一頭の優駿の死というだけには留まらなかった。

 彗星の如く現れた絶滅危惧種の内国産父系を救い得る素材が目の前で潰えたのだ。ホースマンは当然としてファンも怒る。必然、エトを潰した俺やテキはいわば競馬界全体の敵になった。

 俺の言葉に深く頷くヨモギダ青年に、いかにも真剣な声色を装って言う。

「レラの才能はエトに少しも劣らない、ひょっとすればそれ以上だ。今度こそ必ず繋げるよ」

 心中ではハナクソをほじりながら言っているような台詞だが、ヨモギダ青年が感動に目を潤ませているのを見るとこれで正しかったのだろう。

 エトの血統話になると当時から周りの人間は盛り上がったが、俺は速ければロバの子でも良いという考えだから、必要以上に血統を語りたがる彼等を呆れに近い感覚で眺めていたというのが本音だし、それは今でも変わらない。

 ただ――と付け加えたくなるのは、短いながらもあの牧場で過ごした日々があったからだろうか。

「どっちかって言うと母系の方が面白いんだ、アイツらは」

 そんな言葉が口を出た。

「母系ですか」

「そう、母の母の父親がだな――」

 それから俺はカンナカムイの話を、エトやレラがちせと一緒に過ごしたあの小さな牧場の話を、ヨモギダ青年に聞かせてやった。

 今はもう消えてしまった小さな牧場の物語がこの新米記者にどう響いたのか、それは俺にも解らない。ただ一つ言えることは、ヨモギダ青年はペンを走らせる事も忘れて、その話を真剣に聞いてくれたという事だ。


 ひとしきり語り終えるとヨモギダ青年は満足げに頷き、有難うございましたと丁寧に頭を下げた。こういう記者になら時間を割いて話してやる価値もあるというもの、この姿勢を出来るだけ保ち続けて欲しいものだと心から思う。

 最後に一枚レラの写真を撮らせてくれという願いを聞き入れ馬房へ案内すると、ちせがいつものように読み聞かせをしているところだった。

 今日は何を読んでいるのかと聞き耳を立てるより先に、俺とヨモギダ青年の気配に気が付いたのか、読み聞かせが止まってしまう。

「何でやめるんだよ、途中だろ」

 言ってもまごまごするばかりで何も返さず、どうやら初対面のヨモギダ青年に緊張しているようだ。牧場にいた頃は異常なまでの行動力を発揮していたのに、自然から離れた所で文明人に対するとこうなってしまう。対照的に馬房の中のレラが堂々としているのがこの芋娘の情けなさを助長していた。

「臼田厩舎って女性の方いませんでしたよね?」

「レラの生産者兼馬主、さっき話した牧場の娘さん……そうだ、これからレラの写真撮るからお前が引き綱持てよ」

 レラに確認の視線を向けると、ちせを表舞台に出してやりたいというコイツからしてもこの上ない提案だったらしい、首を激しく縦に振って肯定している。

 ちせ本人は戸惑いを隠していなかったが、ヨモギダ青年が便乗して賛同すると表面上の結果は二対一、実質三対一という大差である。流れで押し切り引綱をちせの手に握らせた。

「オーナーブリーダーと一緒に写ってる新馬紹介なんて斬新だぞ」

 カメラを構えるヨモギダ青年に言うと十分意識していたらしい、頼りなさは残っているがそれでもはっきりと頷いた。

「三冠獲ってくださいね。さっき伺った牧場の話とこの写真で、もっと大きい記事を書いてみせますから」

 一心にファインダーを覗き込みながら、ヨモギダ青年は言う。

「獲るさ、獲れないはずが無い」

「私が言う事では無いでしょうけど、簡単じゃありませんよ。特にこの世代はもう一頭ヤバいのがいます」

「初耳だな、宮代の馬か?」

「ええ。宮代明総帥が直々に歴代最高傑作と評して、わざわざ個人所有にした馬です。その馬の処遇を巡ってグループ内でちょっとした内紛まで起きたとか」

「名前は?」

「アマツヒ。天津神のアマツとお日様のヒでアマツヒ、太陽の古い呼び方だとか。基本は外厩でしょうけど名義上は栗東の藤井厩舎、主戦は鎬総司です」

「映像あるか?」

「トレセンでは走らせてない馬ですけど、前に信楽で撮らせて貰ったのがあります。後で送っておきますよ」

「悪いな、頼むよ」

 他愛の無いやり取りをしているうちに十数枚は撮り終えたようだ。長過ぎる撮影に困惑したちせが泣きだしそうだったので、何よりその様子にブチ切れたレラが暴れだしそうになったので、撮影会は早々にお開きとなった。



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