大越凛太朗【Makedebut②】

 ぱっと見て【大したこと無いじゃん】って思ったはずなのに、何故だか妙に気になってもう一度見直してから、気付いた時には三度見していた――なんて経験は誰しもに一度はあるだろうし、そしてそういう感覚を受けるものは大抵が本物だったりする。

 俺の人生で今までに一番強烈に尾を引いた【ぱっと見大したこと無いじゃん体験】は天空の城ラピュタを初めて見た時のそれだったのだが、ヨモギダ青年から送られてきた映像はかのロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ氏が俺に与えたバルスの衝撃よりも遥かに深くそして強烈なものだったと言える。

 厩舎事務室で件の映像を見た第一印象は【何の変哲も無い坂路調教】だった。

 映し出された二頭はどちらも並ではないと一目で解る逸材に違いなく、黒味が強い鹿毛のアマツヒ君は今の段階から翌年クラシックの有力候補と目される事にも頷ける破格の動きをしている。

 だがしかし、正直に言うとどうも迫力を欠いて見えた。

 その違和感がマウスを操作する指先を自然と二度目の視聴に向かわせ、ぼんやりと眺めているうちに、併せ相手になっているアマツヒ君よりも色の明るい鹿毛の方が良すぎる程に素晴らしいから二頭を並べるとどうにも物足りなさを感じてしまうのだと解ると、今度はその併せ相手の存在が気になって当たり前のように三度目を視聴していた。

 その段になってようやく併せ相手の馬が完全に完成された古馬の体格であると気が付き、更にまじまじと眺めるとなんと謎の鹿毛の正体はG1三勝の現役最強筆頭候補レイカウントではないか。

 撮影日はレイカウントが勝利した宝塚記念の二週間前――つまり、アマツヒはデビュー前の二歳馬であるにも関わらず、外厩から厩舎へ戻る直前の、万全な状態にあるG1馬に比肩する走りを見せているということになる。

 映像の持つ意味に気が付いてから暫くは、頭の中から言葉が消えた。

 グランプリレースで勝ち負けが出来る二歳馬なんて、荒唐無稽という言葉が四本脚で走っているようなものであって、仮にかの花京院典明氏にコメントを求めればまず間違いなく『ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから』と一笑に伏すような存在であるはずだ。

 では、実際にグランプリホースと併せて坂を駆け上っている二歳馬の映像を見てしまった俺はこの事実をどう受け止めれば良いのか、教えてくれ花京院。

 しばし呆けたようになりながらアマツヒの情報を探ると、父はかつての日本競馬界を震撼させた三冠馬、母は牝馬でありながらダービーをはじめ牡馬混合G1を幾つも制した女傑、どちらも宮代グループの育成馬でありなるほどこの配合であれば歴代最高傑作という表現も頷ける。

 生後間もない当歳の頃から既に期待の星であったようで、世間がエト一色に染まっていた頃に宮代明が受けたインタビューでは【カムイエトゥピリカよりも遥かに強くなるだろう】と、当時は負け惜しみにしか聞かれなかったはずの応答が残っているものもあった。

 実際に、当事者である俺自身がそうした発言を知らない程度には世間からも相手にされなかったようだが、映像として示された情報を客観的に判断すれば、それは恐らく虚勢のつもりもなかったのだろう。

 しかしだからこそ、俺は、その記事を読んだ時にふつふつと熱いものが込み上げて来るのを抑えきれなかった。

 エトよりも強いと言われて【はいそうですね】と頷ける程度の思い入れではない。何せ俺にとってのエトはうだつの上がらない三流ジョッキーにダービーを勝たせてくれた、神にも等しい存在なのだ。

 勝たなければならない。たとえ相手が日本競馬界の独裁者こと宮代グループの最高傑作であろうとも、エトよりも遥かに強いなどというその思い上がりを叩き潰してやらねばならない。

「天狗鼻へし折ってやるよ、宮代明」

 ふと、厨二病をこじらせたキメ台詞が口から漏れた――正にその瞬間だった。

 言うや否やのタイミングで厩舎の引き戸が豪快に開け放たれ、両の腕を胸の前でバッチリ組んだ臼田御大が現れた。

「よく言った凛太朗、それでこそ俺の弟子だ」

 御大は狼狽える俺の事などまるで視界に入っていない風に事務室に入り込むと、豪快な音を鳴らしてパイプ椅子に座り込んだ。

「チャ!」

 突然の叫びは冗談ではなくましてや気が触れている訳でも無い。御大の日常表現の一つであり【さっさとお茶を用意しろ】という意味だ。なお反応が遅れると、サスペンスドラマで凶器として使われそうな特大の灰皿がフリスビーのように飛んでくる。

「お茶は私が用意しますので、大越さんは座っていてください」

 御大の後ろからちせがひょっこり現れると、そそくさとチャの支度を始める。

「レラカムイだがな、一〇月の府中二〇〇〇でデビューだ。そこから東スポ杯使ってホープフルステークスを目指す」

 負ける事など欠片も想定していない風に、御大は淡々とローテを読み上げる。

 俺とて初戦で躓くとは思っていないが、ここまでストレートな物言いをされては苦笑の一つも漏れるというもの。気合が足りんと怒られないよう、ちせが出してくれた湯飲みを口に運んで表情を隠す。

「朝日杯じゃないんですか?」

 朝日杯とホープフルステークスはどちらも二歳限定のG1だがコースと距離が異なり朝日杯は阪神一六〇〇のマイル戦、ホープフルステークスは中山二〇〇〇の中距離戦となっている。古くから二歳最強馬の決定戦として位置付けられていた朝日杯に対してホープフルステークスは比較的若いレースだ。

「リハのつもりで走れ、年明けは皐月に直行する」

 御大の発言の後、僅かではあったが事務室の中に奇妙な沈黙が生まれた。

 俺はその無茶苦茶な発言に言葉を継げなかったし、ちせはすっかり納得したように何も言わない。

 俺が止めなければマズイのだという現実を察すると同時に、こうなった御大を止められるはずが無い事も理解してしまう。御大が俺の発言でローテを変えるなどお天道様が槍を降らしても有り得ない。

「皐月に直行は……流石に無理があると思いますけど」

「ダービーにピークを持ってくる為だ、春先のレースは出来るだけ減らしたい」

「ダービーをピークってのは解りますけど、ホープフルから皐月賞直行なんてローテは聞いた事もありませんよ」

「不思議な事だ。何故誰も試さないんだろうな、コースも距離も同じなのに」

「そんなもん間隔が空き過ぎるからに決まってるでしょ、直行で勝てる程皐月は甘くない」

「レラカムイなら七分仕上げでも勝てる、ダービーの完調をめざせば丁度良い」

「んな無茶苦茶な」

「多少の無茶も通せない馬が三冠なんぞ獲れる訳が無い。負ければ乗り替わりだからな、覚悟しておけ」

 つまり【無茶苦茶なローテーションではあるけれど馬の力は間違いないから負けたら全部騎手のお前が悪いんだよ、責任は取ってね】と御大は仰っているのだ。

 ガッハッハというオノマトペが似合うような豪快な笑いを見せながら御大は言い、俺は眼前のド腐れ調教師への怒りに頭の血管の二、三本でもぶち切れたんじゃないかって頭痛にコメカミを抑え、そうしているとそれまで無言でお茶をすすっていたちせが静かに口を開いた。

「乗り替わりはしないって条件ですよね?」

 いつもと変わらない芋娘の癖に、声だけ聞いてしまうと金玉ヒュンってなりそうな迫力があった。御大を相手に一歩も引かないどころか完全に上から押え付けるような物言いだ。

 流石の御大も女であり子供でもある相手に鉄拳までは繰り出すまいが相手が他の馬主ならまず間違いなく俺が身体を張って止めなければマズイ場面である。御大への怒りに膨張していた血管が一転して、週刊誌を彩る臼田厩舎傷害事件の小見出しが脳内ビジョンを通り過ぎると、便所の大を流す時みたいな勢いで血の気が引いていき強烈な眩暈に襲われる。とどのつまりは脳細胞がストレスでヤバいのが自覚できてしまう状況だ。

 ところが、意外だったのは御大の反応だった。普段なら相手が誰であれ少なくとも机を蹴り上げるくらいの傍若無人っぷりを見せつけるはずが、何も言わずにむっつりと黙り込んだままなのである。

「もしそんなことになるなら、転厩させますから」

 妙に強気なちせから追い打ちの一言が放たれ今度こそ大噴火するかと思われたが、御大は無言のまま煙草を咥えて事務室を出て行ってしまった。

 ふんぞり返っていたボス猿が一夜にして猿山の頂点から追い出された衝撃とでも言おうか。いや、それ以上に目の前の現実に理解が追い付かないという方が正確だった。

 今までどんな一流騎手も有力馬主すら逆えなかった日本競馬界のジョーカーこと臼田昭俊という男をたった二言で厩舎から叩き出したのは御存じ芋娘ことクソド田舎のチンケな牧場の跡取り娘・茂尻ちせなのである。

 この二人何かあんのかなんて勘繰りが浮かんだ一瞬の間に、ちせは言った。

「乗り替わりはありません。他でもない、エトの遺言ですから」

「はあ……そうですか」

 返す語尾が思わず丁寧語になってしまう程、目の前のちせは普段通りの芋娘なのに、馬主としての威厳に満ちているような気がした。


 その後暫くはちせとぼんやり茶を啜っていたのだが、ちせが作業に戻ると暇になり、何となしにレラの様子でも見てみようかと馬房を覗くと御大がレラに話しかけていた。

 こうして馬の相手をしている事自体は珍しい光景でも無いのだが、その表情の柔らかさは記憶に無かった。調教師として馬の状態を見る時とは違う、純粋にコミュニケーションを楽しんでいる、ただの馬好きのそれだ。

「先生が引き下がるなんて珍しいですね」

 声をかけると視線を向けてきたが、相手が俺だと解った途端に舌打ちを隠さなかった。やっぱこのオッサン糞だわ。

「契約は契約だ、俺はお前なんぞ乗せたくないのが本音だよ」

「いつもなら言い返してたでしょうに」

 適当に笑って流しながら隣に立つと馬房の中のレラも上機嫌なようだ。御大の手には角砂糖の詰まった小袋が握られている。

「厩務員試験受ける前に、あの牧場で世話になってたんだよ、もう二十年以上も昔の話だ」

「へえ、あそこに」

「爺さんにも散々世話になったし、ちせの母親が一人娘で丁度今のちせくらいだった。よく似てるよ」

 芋から芋が生まれた図を想像して一人吹き出しそうになっていると、御大は静かに続ける。

「エトゥピリカは、俺が殺した」

 その言葉は馬房で動き回る馬達の物音に紛れる事も無く、ただ静かに、透明に響いた。

 御大は俺の責任を軽くする為に言ったのだろうかという思いが僅かに巡ったが、直ぐにその傲慢に気が付いて笑う。御大はそれほど出来た人間ではない。

 俺達はカムイエトゥピリカを殺した共犯者だ。

 世間に言われたからではない、その重みを忘れてはならないものだと他でもない自分自身が思うからこそ、そう信じるのだ。

「あの牧場の成り立ち、聞いてるな」

「一応は」

「俺が爺さんへ筋を通せる、最後の機会だ。義理を欠いたままあの牧場の名を消すことは男として絶対に許されん」

 血統表という紙っぺらに残す為などではなく、そこに関わった人々の願いを成就する為にこそ、臼田昭俊という男は決意を固めたのだろう。

「俺はこいつに、レラカムイに、調教師生命を懸ける」

 その言葉は俺にも問うている。

 ――お前にその覚悟はあるか?

「無論です」

 間は空かなかった。間を置くことが出来なかったと表現する方が正しいかも知れない。本当の所は自身でも定かでないが、俺の精神もすっかり臼田イズムに汚染されているようだ。

「俺の全て、コイツに懸けます」

 元よりエトと共に終わったはずの命だ、惜しむものは何も無い。


「でも先生、ローテは考え直してくださいね」

 それとこれとは話が別だから無茶苦茶なローテに念を押す事も忘れなかったのだが、御大も御大で、さっきのちせの言い草にはやっぱりムカついてはいたのだろう。俺相手には遠慮が無くなるらしく、油断していた顔面にしっかり右ストレートが飛んでくると視界に綺麗な星が飛んで、寝藁とボロにまみれた床にキスをする羽目になった。

「ウルセエ馬鹿野郎、乗せてやるだけ感謝しろ!」

 怒鳴り散らしながら馬房を出ていく極悪イカレ調教師にして諸悪の根源こと大魔王USUTA。やっぱこのオッサン糞だわ。

『大丈夫かよ……凄い音したぞ』

 心配そうに声をかけてきたレラが良いヤツっぽく思えてしまうくらいには、あのクソ調教師が俺は憎い。

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