大越凛太朗【Makedebut③】
競馬界の一年はダービーに始まりダービーに終わる。
ダービーを終えた翌週からスタートする新馬や年末の二歳重賞の結果は翌年のダービーへ向けた指標として語られるし、年明けの三歳戦線は言うに及ばずクラシックへと直結している。古馬になってから世代を跨いで能力を比較する時もダービー馬を世代の基準として語るのが常なので、競馬界で何かを語る時には常にダービーの存在が付いて回る。
関係者の脳味噌にダービーという概念が標準装備で住み着いているのだ。
必然、神様方が出雲へ帰省する頃合いになると、レラは来年のダービー有力候補としてすっかり注目の的だった。
調教内容がマトモじゃないと騒がれることは元より、叩き出している時計が既にオープン古馬クラスと比較しても遜色ないのだから実力的にも折り紙付き、更には悲運の二冠馬カムイエトゥピリカの全弟で厩舎メンバーもそっくりそのままとくっつけば、そのドラマ性は数えで役満にも届こうかという手役なのだから注目されない方が妙とも言える。
普段であれば閑古鳥が鳴いている臼田厩舎にも連日記者が詰めかけるようになっており、最初のうちはおだてられて上機嫌だった御大だが、近頃では挨拶より先に手に持っている何かを手あたり次第投げつけるようになってしまった。四六時中衆目に晒され続けた結果ストレスで精神を病んでしまった動物園の猿が取る行動そのものである。
今日も今日とてパチモンのロレックスを全力投球して記者達を追い返す御大を横目で見ながらレラに水を浴びせていると、多少こなれたジーンズ姿のヨモギダ青年が現れた。
彼は今週末の新馬戦に出馬を予定している各馬の情報を持参しているはずであり、本来なら客人としてお茶の一杯でも出して然るべき相手なのだが、錯乱状態にある猿が人間社会の常識を理解出来ようはずもない。
哀れヨモギダ青年は御大渾身のラリアットに刈り取られその場に倒れ伏した。
暫くの沈黙の後で冷静になった御大は、サバンナで周囲を警戒する獣の機敏さで辺りを見渡してから俺の方へ向き直り【さっさと運ぶぞ】と顎で事務室の方をしゃくって指示を出す。死体を隠蔽するヤの字の如き行動に、怯えたレラが身震いすると弾かれた水が豪雨の如く降り注いで見事な濡れ鼠が出来上がる――と言った具合に、余裕で突破できる初戦のはずがレース前から前途多難の様相を呈していた。
三途の手前から無事帰還したヨモギダ青年に米つきバッタと化した俺とちせがひたすら頭を下げる傍らで、御大はいかにも神妙な面持ちでモニターを眺めていた。
「敵になりそうな馬は、いないな」
咥えタバコで渋くキメてあわよくば話題を逸らす心積もりだったのだろうが、やらかした内容が傷害未遂では雰囲気に騙されるお人好しなどいるはずもない。顰蹙の視線に晒されて威厳を保てなくなると、不貞腐れてそっぽを向いたままではあったが、小さくスマンと呟いた。
「もう少し真面目に謝ったらどうですか」
一歩間違えれば警察沙汰だっただけに俺としては意を決して口にしたのだが、当のヨモギダ青年が割って入る。
「大した事無いですから、大丈夫ですよ。先生も大変でしょうし」
被害者自ら笑顔を見せてやるその優しさは人間相手には美徳となるのだろうが、相手は猿であって人情よりもバナナである。甘やかすと後悔するぞと目で伝えてやったが、ヨモギダ青年は却って俺を宥めるように話を続けた。
「それより、当日の作戦は決まっているんですか?」
「そんなもの教えてやる訳が無いだろう」
バツが悪いことは隠しようもないが、レースに直結する内容は話せないという事らしい。
御大が回答を拒否すると、ヨモギダ青年は一呼吸の間を置いてから不意に首をさすり始めた。
「……あ、何か、首、痛いなあ。やっぱりこれ労災申請――」
「――凛太朗、話してやれ」
サーカスの猛獣使いのような鮮やかさだった。ライオン相手に鞭を振るって支配する辣腕に動物園の猿が敵うはずもなく、御大のプライドはオークに捕らえられた姫騎士もかくやという具合にあっさりと陥落した。
してやったりのヨモギダ青年にやはり大卒は伊達では無いなと感心しながら、俺としては隠す必要性を感じていなかったので、御大のかましたラリアット分程度は話してやることにする。
「競馬に慣れさせるのが第一かな。スタート良くても多少抑えて、中段待機でギリギリまで馬群に入れておくつもりだよ」
「そうすると直線勝負ですか」
「理想は坂の手前で先頭、スピードが違うから末で勝負にはならないと思う」
「大越騎手から見て不安要素は?」
「無い。調教も他の馬より数段キツイのこなしてるし、地力が違うよ」
「では、勝つ前提の質問になりますが、本レースの目標を一言でお願いします」
「うーん……欲を言えば、レースは楽しいもんだって思わせてやりたいかな」
「楽しい、ですか? レースを?」
クエスチョンマークを浮かべているヨモギダ青年に、俺はただ頷いて返した。
土曜の夕暮時、調整ルームに入る身支度を整えてから馬房を訪れると、レラは落ち着かない風に左前足で地面を掻いていた。
「緊張してんのか?」
声をかけても一瞥したきり何も返してこない。無言の肯定だろうか。図太い神経だと思っていただけに意外な繊細さだ。
「安心しろって、手綱を取るのはダービージョッキー様だぞ」
『それが一番不安なんだよ、レースに乗るのは一年ぶりじゃねえか』
憎まれ口だけは忘れていないらしい、こういう所はしっかり反応してくるのだから苦笑も漏れる。
「そうだな、確かにそうだ」
緊張を解いてやるつもりが却って説き伏せられているのだから話にならない。案外レラよりも俺の方が緊張しているのかも知れないと自嘲しながらも、言葉は考えるより先に続いていた。
「そんでもまあ、勝たせてやっからよ……最初で最後の経験だ、精々思う存分緊張しておけ」
言葉にしてから腑に落ちた、というのが正しいだろう。腐っても騎手として数千回の数だけはこなしてきたのだから、チェリーボーイの緊張くらいは引き受けてやれなければそれこそただの重りだ。
今までにも数えきれないほどの新馬戦に乗ってきて、デビューを控えた彼らが皆緊張している事は言葉を交わせなくてもどこか伝わってきたから、きっと俺は、彼等にもこの言葉を伝えてやりたかったのだ。
「明日の朝、俺はいないけど、寂しがるなよ」
『気色悪い事言ってんじゃねえよ、さっさと行け』
考えてみると、レラと半日以上離れるのは出会って以来初めてかも知れない。ただ一頭の馬にこれだけ関わるなどとは夢にも思わなかったが、出掛けの挨拶が出来る関係というのは、なかなかどうして、悪くないものだ。
茜色の外へと足を向け、二歩、三歩と進んでから、ふと振り返る。
夕焼けた栗毛で金色に燃える馬房には、黒い瞳が二つほど、水面に浮かんだ月のようにぽっかりと浮かび上がって、じっとこちらに向いていた。
調整ルームでは食堂に向かう数名のジョッキーと顔を合わせたが、こちらが声をかけなければ所謂未遂者を相手に積極的に声をかけてくるような物好きもおらず、すれ違った騎手会長のクニヒコさんからいつも通りの朗らかな笑顔で「ようやっと復帰やな」と簡単な励ましを受けただけだった。
そうして人を避けるようにして引っ込んだ個室のベッドに寝転がり、レースシミュレーションを始めてから小一時間が経とうとした頃のことだった。
いかにも育ちの悪いノックで扉が殴られると、返事をする間も無く懐かしい関西弁が部屋の中へとなだれ込んでくる。
「生きとったんかワレ、この死に損ないが!」
マシンガントークを浴びせながらベッドにダイブしてきたのは競馬学校同期にして現在東西リーディングで六位という人気ジョッキーの沢辺武人(サワベタケト)、苗字と名前の頭一文字を取って通称はサブ。
俺の生存を喜んでくれているのは有難いが、お互い三十を超えたオッサンであるにも関わらずいまだに競馬学校時代のノリで抱き付いてくるのは勘弁して欲しい。
「離せ、ホモかお前この野郎」
「いけず言うなやボケ、どんだけ心配したと思っとんねん」
「どの口が抜かすか、俺のお手馬喜んで漁ってた癖に」
「何言うとんねん、お前が帰ってきた時の為にお馬さんの背中温めといたんや」
「じゃあ返せよ、ゴールデンロード」
ゴールデンロードは札幌での新馬戦から二歳ステークスまでコンビを組んで勝ち上がったお手馬だったが、俺がやらかした後はサブが主戦となって東スポ杯やスプリングステークスを勝つなど今年のクラシック戦線を賑わせている。
その名を口にした途端、サブは胡散臭い口笛を吹きながらそっと手を離した。
「馬主さんの都合もあるしなあ」
悪びれる風でも無く呟かれると力が抜ける。
本気で返せと言っている訳では無いし、当然サブに恨みがある訳でも無い。言うなればこの応答自体が気心の知れた相手に対するじゃれ合いに違いなく、実際サブと話していると肩の力が抜けて自然な笑いが出てくるのだ。
「菊はどうすんだ?」
「長いやろ。先生もオーナーにそれとなくマイル路線勧めとる」
「正解だ、長くて二〇〇〇だよ。ダービー、よく掲示板まで持ってきたな」
「そこは乗り手の腕やがな」
自身の腕を誇らしげに叩くその顔を半ば呆れながら眺めると、何故かサブは視線を宙に彷徨わせていた。
そうして改めて見ると、普段通りの馬鹿話をしていると思い込んでいた彼の表情はひどく強張っており、その肩が落ち着きなく左右に揺れている。
俺はその事を知った時にようやく、サブが地雷原を手探りで進むようにして会話を探してくれていた事に気が付いた。
美浦に戻って来てからこの方、こんな苦労を背負ってまで声を掛けてきたのはサブだけだ。
「悪かったな、心配かけた」
詫びを入れるとサブはようやく俺を見た。
本当に立ち直ったのか探っているような視線だったので、「もう大丈夫だ」と付け加えると、ようやく安堵したように深く息を吐く。
「戻って来てもレースに全く乗っとらんし、ワレがジョッキー続けるか解らんかったからな。みんな、どう声かけて良いか戸惑っとるんや」
「なるほど、一理あるか」
「一万理くらいあるわアホ……食堂行ってみい、お前の話題一色やぞ」
「そらまた寒気がするお話で」
忘れ去られていた訳ではないのだと安堵した照れ臭さを隠すように、口からは憎まれ口が漏れていた。
サブが、どこから取り出したのか、缶ビールを一本投げてよこす。
プルタブを引くとベッドダイブの余波が残っており、復帰祝いの乾杯が大量の泡を零しながらになると、どちらからともなく馬鹿笑いしていた。
喉を叩く炭酸の刺激にオッサン特有の呻き声を漏らしてから、サブは小さな声で言う。
「話題になるのは昔から変わらんな」
「生憎とそんな幸せな記憶はねえよ」
「嫌味かボケ。競馬学校の時も、騎手になってからも、話題の中心は大抵お前だったやないか」
「何だよそれ」
「初騎乗初勝利、挙句の果てにゃデビュー二週目で重賞初勝利。完全に俺らの世代の話題かっさらっとったやんけ」
「まあ、そりゃどっちも運だわ」
競馬学校を卒業したばかりの頃はバカヅキと言っても良いほどに運があった。デビューは三月の中山第二レース三歳未勝利戦、十六頭立て九番人気だったが、逃げ馬が他にいないから程度の気持ちで打った逃げが大当たり、ドンピシャで決まったゲートから一度もハナを奪われること無く逃げまくり、第四コーナーを回った時点で後続に十馬身以上の大差をつけた圧勝だった。最後の直線では真っ白になった頭で追いまくっていた為緩めてやる事が出来ず、手綱を預けてくれたテキから「馬を大事にしろ」と鉄拳を食らったのも良い思い出だ。重賞初勝利に至っては完全に運、三番人気の有力馬に騎乗予定だった先輩騎手が前のレースで落馬負傷した為にジョッキールームで暇をしていた俺にお鉢が回り、普通に乗って普通に勝ったという完全な棚ぼたである。
「競馬学校の時かてそうや。お前、ガースーに喧嘩売ったの覚えとるか?」
「須賀さんに?」
須賀さんは競馬学校で騎乗技術の指導をしてくれた元ジョッキーで、指導があまりにも厳しいから、同期の間ではガースーなんぞと陰口を言い合っていた。
「負けても馬の負担が少ないレースをしろ言われて、お前ひとりだけ言い返したやないか。殺してでも勝たせたるのが騎手の仕事や、って」
発言の苛烈さに思わず面食らってサブを見返すと、サブは真剣な表情で俺を見ていた。嘘ではないぞとその視線は言っている。
「捨てられた惨めな最期より戦いの中で死ねる方が幸せだから、何をしてでも、一つでも多く勝たせるべきだ……大越名言の中でもメジャーな方やな、同期は全員覚えとるで」
「大越名言って何だよ」
「俺が編集した凛太朗の名言集や、一〇八番まであるけど聞きたいか?」
「アホくさ」
他人から聞かされて思い出す過去もある。
呆れた顔を見せながらではあったが、俺は、完全に忘れ去っていたその言葉を、俺が過去にしていただろう発言として受け入れていた。
きっと、過去の俺は大真面目にその言葉を口にしていた。
競馬村の出身では無いし、根からの馬好きでこの世界に入ったという訳でも無いから、競馬という競技の根底に感じた欺瞞をそう表現したのだろうと思う。
競馬は優しいだけの夢じゃない。その本質は残酷な生存闘争だ。
負けてターフを去る馬の行く末を知るにつれて、弱い馬達を競馬に出会う前の自分に重ねて感じるようになった。
この世界には、俺や彼等の命を使い捨てのマッチみたいに気軽に消費出来る神様気取りの悪魔がいて、俺や彼等の命はそんな連中に都合良く使われるだけの消耗品だから、用を足さなくなれば何の感慨も無くゴミとして捨てられる。
媚びる為に、必死になって、パチンコ屋のホールで銀球を拾った事も、ボロの服を着せられて物乞いをしたことも、競艇場で散らばっている舟券を拾わされた事も、負けた時に笑われながら殴られる肉体の痛みも、勝った時に得意気に振る舞われるチンケな焼肉が美味しくて悔しくてたまらなかった事も、その全てを、俺は忘れられないままだから、馬達の屈辱が他人事に思えなかった。
だから、そんな青臭い発言をしたのだろう。
「いずれにせよ、ガキの寝言だ」
缶ビールを呷りながらサブに同意を求めたが、サブは首を振って否定する。
「確かに青臭いが、ジョッキーが忘れたらアカンことや。殺してでもっちゅうのは言い過ぎやが、勝たせてやれんなら俺らが殺すんと同じことや。全部の鞍にその気持ちで乗らんと……俺らは馬に生かして貰っとるんやから」
「慰めてんのか?」
「自惚れんな、矜持の話や」
会話に集中していたせいで手元のビールはすっかり温くなってしまっている。これ以上味が落ちる前に残りを一気に飲み干した。
「明日の鞍、新馬だけか?」
テーブルの上に散らかしていたレース資料を手に取りながらサブが言う。
「そうだけど、お前は?」
「八鞍、メインも乗るで」
「毎日王冠? お前のお手馬出てたっけ」
「テン乗りや。ウチのエージェント、クリスと総司抱えとるさかい、クリスが蹴って総司も蹴ったら自動的に俺のとこ回ってくんねん」
「うわっ、ハイエナ」
「言うな言うな。きっかけは何だってええねん、連中が蹴った馬で勝ちゃ馬主も次からは俺の方に先回すやろ」
東西リーディングでブッチ切りの首位争いをしている天才二人を相手にそう言い切れるサブもまた、俺からすれば別次元の住人だ。
「想像出来ない世界だな」
思わず漏れた率直な感想だったが、サブは突然ムッとした表情になった。
「情けない事言うなや」
「そうは言ってもな、クリスと総司相手に勝つってのは気軽に言えねえよ」
「なら新馬戦も負けるで、二人とも乗り馬あるからな」
「いや、明日は普通に勝てるわ。乗る馬の能力が違うから」
「なんやねんお前ホンマ!」
「俺みたいな三流はお馬さんの力で勝って貰うしかないの、これが現実ね」
「お前な……まあええわ、気が抜けたし帰る」
「おう、帰れ帰れ」
納得のいかなそうな表情のサブを手で追い払いながら、散らかしていた資料を拾い上げてクリスと総司の馬の情報を探る。馬の力は間違いなく抜けているだけに取りこぼしの要因となり得るのはむしろヤネの動き、となれば情報だけは頭に入れておく必要がある。
「そんなに強いんか、レラカムイは」
まだ部屋を出ていなかったらしいサブの声に、視線は向けず首を縦に振って答えた。
「強い。アイツで負けるならそりゃヤネの問題だ」
「……ほなら」
「は?」
意味ありげにボソッと呟いたサブの声が気色悪かったので、眺めていた資料から顔を上げてその表情を伺おうとすると視線がぶつかった。
「じゃかあしゃボケ、さっさと寝え!」
こちらは何も言っていないのに勝手に切れて勝手に叫んで、そうして勝手に出て行った。
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