大越凛太朗【Makedebut④】

 前検量を終えてから鞍とゼッケンを受け取る。

 レースで使用している馴染みの鞍はほぼ一年ぶりの再会となるだけに状態が少し不安だったが、丁寧に管理してくれていたらしい、最後に府中で騎乗した条件戦の時から感触はまるで変わっていない。

 こちらもほぼ一年ぶりの再会だったバレットの女の子に深々と頭を下げると、復帰を歓迎する笑顔を返してくれた。

 懐かしい皮の感触と感慨を一緒に抱えて装鞍所へ向かおうとすると、検量室に関西弁の絶叫が轟いた。

 周囲のジョッキーが驚くような事は無い。常日頃からやかましい事で有名になってしまっている。

「何でや! 待って! ちょお待って! パンツ、パンツ脱ぐから!」

 声の主であるサブは大分錯乱しているようで計量秤の上で勝負服を脱ぎ始めており、先ほどのバレットの女の子などはいたたまれなさそうに視線を外している。騎手仲間は呆れたように眺めるヤツが半数、栗東組でサブと比較的仲が良い連中からは「パンツで足らなきゃ毛ぇ剃れや」などというヤジも聞こえる。

「パンツ脱ぐから! パンツ脱ぐから!」

 鳴り止まないバカの声から逃れるように、俺は検量室を出た。

 騒音から一転、耳鳴りがしそうなほど静かな地下馬道を踏みしめると、だだっ広いトンネルに反響したブーツの靴音が頭の奥深くまで沁み込むように届き、久方ぶりの心地よい緊張を脳髄に呼び覚ます。

 地下馬道を抜けて装鞍所に辿り着くと、見慣れた芋が一人立ち尽くすようにして門の手前から中の様子を覗き込んでいた。

 ちせなりに気を遣ったのだろう、いつものジーンズ姿ではなくまだ初々しさは残るものの一応スーツを着こなして、人に見られても恥ずかしくない格好にはなっている。

 だがしかし、人の気配がない装鞍所の前で中の様子を覗き込もうとする姿は誰が見ても不審者のそれに違いない。

「何してんだよ」

 声をかけると、振り返ったちせは心中の不安を隠しきれない風に目が泳いでおり、中の様子が気になって仕方ないようだった。本人が必死なだけに、俺としてはなおさら滑稽だ。

 遥か昔、授業参観の日に見た、同級生の母親達のような雰囲気だった。廊下に並んだ彼らの母親達がこんな風に教室を覗き込んでいた事をよく覚えている。

「上からも見えるらしいから、大人しく待ってろ」

 ステッキの先端でフジビューの七階を指して言うと、ちせは戸惑ったような表情でこちらを向いた。

「何だよ」

「いや、大越さん騎手だったんだなあって」

 俺の格好への感想らしい、こちらの力が抜けてしまう。

「今更そこかよ」

「だって、そういう格好初めて見たから」

「そんだけ力抜けてりゃいいさ……お前が緊張するとレラにうつる、パドックに顔出すなら平常心で来い」

 一言釘を刺し、促すようにじっと見る。

「馬主には馬主の役回りがある、お前の仕事だ」

 そうまで言ってようやく、ちせは渋々と言った具合に張り付いていた門の前から一歩を踏み出した。俺の横を通り過ぎる間際に、名残惜しそうにもう一度振り返ってから、「レラのこと、お願いします」なんて言い残していく。

 装鞍所に入り、馬房を覗くとかなりイレ込んでいるらしい、落ち着かない風に身体を揺するレラを御大が必死になって宥めていた。

「ようやく来たか」

 俺を見るなり、疲れ切った声で御大は言う。

「今朝からずっとこれだ、敵わん」

「よしよし、緊張してんだよな。それとも俺に会えなくて寂しかったかな」

『うるせえな、ウザいからその喋り方やめろ』

 相変わらず可愛げのない口調だが、身体を揺するのは止まったようだ。

「俺が見てますから、鞍検量お願いしても良いですか?」

 抱えていた鞍を見せながら言うと、御大はその提案を待っていたかのように返事もなく頷いた。

 装鞍所検量室に向かう御大を見送りながらレラの首を撫でてやると、やはり多少汗を掻き過ぎており、それに細かく震えているようだった。緊張するのは仕方がないが、これではレース前に干上がってしまう。

「新馬戦のこと、メイクデビューって呼ぶんだとさ」

『は?』

 緊張を解いてやろうと頭の中で話題を探して、何となく口を出たのはそんな世間話だった。

「見る側にとっては、愛称がある方が特別に感じられるもんらしいよ」

『特別?』

「どんな馬でも絶対に一度は走れる、自分が主役の特別戦ってこと」

 競馬はとても残酷だ。勝ち上がりより敗者の方が多いのだから一勝できれば御の字で、重賞どころか条件戦にも出られないまま消えて行く馬の方が多い。

 だが、新馬戦だけはどんな馬でも主役になってスポットライトを浴びることができる。未勝利のままターフを去る競走馬であっても後のG1ホースと対等な条件で競うことができる晴れ舞台。新馬戦とはそういうレースだ。

『別にどうでもよくねえか、そんなん』

 レラは言う。馬だから当然だ。主役だの脇役だのは舞台に立たずに外野から眺めている人間たちが勝手に決める事であって、ターフの上にいる俺達は全てのレースで必死になって走る事しかできない。G1でも、条件戦でも、未勝利でも、新馬でも、それは同じだ。

「それでも、周りにとっては特別なレースなんだ。だから、そんな舞台で緊張するのも当たり前ってことだ」

『またそれかよ』

「ああそうだ、お前がどんだけヘマしても一着は取らせてやる」

『信用出来るか、お前だって一年ぶりじゃねえか』

「それでも、何千回もレースに乗ってる。下手な鉄砲もナンチャラってな」

 話しているうちにいつもの調子が戻って来たようだ。じっとり汗ばんだ首筋は、もう震えていない。

「ともかく今日は俺を信じろ。経験だけはお前よりある」

 ほんの少し力を込めて、人の肩を抱きすくめるように、両の腕で首を抱く。

『気色悪い、離せよ!』

「言う事聞くか?」

『聞く、聞く! だから離せ!』

「解った、離してやる」

 拘束していた腕を放してやるとレラは虫でも払うかのように身体を揺すった。熱すぎる程に高い体温も、こういう仕草も、本当に子どもだ。


 パドック脇の騎手控室では雑談する数名から距離を取って座り、徐々に姿を見せ始めた馬達の姿を眺めていると、かの天才・鎬総司が現れた。

 デビュー四年目の若手だが、日本人ジョッキーという限定付きなら三年連続、一昨年と去年は外国人も含めた全体リーディングの座をも射止めたこの青年は、伝説の名騎手にして現役調教師である【魔術師・鎬総一郎】の息子として競馬村に生まれ、馬の背中を揺りかご代わりに育ったとも噂される、紛うこと無きジョッキー界のサラブレッドだ。

 一瞬視線が交わったが会釈もなく逸らされる。特段と交流がある訳ではなく、むしろ相性は悪いのかも知れない。競馬村における外様の俺とサークルの中心に立つことを宿命づけられた総司では一から十まで違い過ぎる。

「レラカムイ、一番人気やな」

 背中越しにサブの声がしたと思うと、断りもなく勢いよく隣に腰を下ろしてきた。勢い余って俺に体当たりするように肩を押し付けてきたのは意図的なのだろう。

「毛は剃ったのか?」

「剃っとらんわアホが、見せたろか。ブーツ変えたんがアカンかったみたいや、クリスのヤツにそそのかされてエライ目おうたわホンマ」

「前もって確認しないヤツが悪い」

「いけず言いよって……それより、エトゥピリカの応援幕出とるで」

 サブはその場所を指しながら言うが、応援幕の前に陣取っているハゲ親父の存在を含めてそんなことにはとっくに気付いていた。

「気にせんとけや。あのオッサンにしたら純粋な応援のつもりやねん」

「ご心配どうも、そこまで弱くはないさ」

 応援幕を掲げているハゲ親父は筋金入りのエトのファンで、エトの出走するレースであれば日本全国どこであっても必ずその応援幕と共に表れる男だった。エトがレースに勝つ度に段ボール一杯のリンゴとファンレターを厩舎に届けてくれる熱心なオッサンであり、見た目が綺麗な女性であれば俺も有り難がっていたのだろうが、残念ながらオッサンなのである。

 そんな残念なオッサンも去年の京都で見かけて以来だ。妙な懐かしさを覚えてしまう。

「挨拶くらいはしてやりたいけどな」

 出走前の騎手という立場でなければ気軽に挨拶も出来る距離だが、そういう訳にはいかない。

「挨拶するより勝ったれや」

「確かに、孝行してくれるオッサンには稼がせてやんないとな」

「勝たせたらんけどな」

「お手柔らかに」

 そうして世間話をしている間に整列の呼び出しが掛かった。

 控室のだらけた空気は消え失せ、全てのジョッキーが敵同士となり、サブとの間にもその一瞬で冷たい線が引かれる。

 パドックへ出て一列に並び、号令に合わせて客へ一礼をしてから、それぞれの馬へと向かう。

 ヤネの動きに特に注意すべきなのは三頭。サブの騎乗馬は三番人気、総司は二番人気、クリスは五番人気。新馬戦など情報が無いから大抵は血統と騎手で人気が決まるものであり、サブと総司の馬は現在猛威を振るう種牡馬の産駒であるから人気になるのは当然、母親の差はさして無いから人気の差はそのまま騎手への信頼の差だろう。血統的にやや落ちるはずのクリスの馬が五番人気に押されているのは完全に騎手人気と見ていい。

 そうした中、俺という重りを背に乗せてなお単勝一倍台というダントツ一番人気に押されているのが我が相棒だ。

 新馬戦を買うようなコアなファン達は、血統のことも、生産者と馬主の事も、所属厩舎のことも、そして主戦のことも、それらが意味する全てを知っているのだろう。

 レラはパドックの中心で御大とちせに囲まれて俺を待っている。

 御大は先程のように疲れ切った雰囲気ではなく、ちせも無駄な緊張は溶けたようだ。心配そうにレラを撫でる様は相も変わらず授業参観の母親だが、馬を不安にさせるような表情はしていない。

「作戦、任せて貰います」

 横に並び立ちながら、返事は聞かない。

 御大は面白くなさそうに鼻を鳴らしたが、負ければ降ろすと短く呟いただけだった。そうして、スーツが汚れる事も気にせず俺の脚を抱えると、馬上へと押し上げる。

「勝って来い、凛太朗」

 背を張る一撃よりも重く熱い御大の激励と共に手綱を握る。

「挨拶は済んだか?」

 馬上から尋ねると、ちせは静かな微笑みで頷いた。

「行こうか相棒、勝負の時間だ」

『クセえ台詞決めてんじゃねえよ、ヘボの癖に』

 すっかりいつもの調子が出たレラの首を軽く叩いてから、地下馬道の暗闇へ吸い込まれるように降りて行く。

 馬の背は穏やかに揺れ、床を叩く蹄鉄はどんな楽器より柔らかく鳴る。その音に惹かれるように、馬道で作業をしている関係者達は作業の手を止めて舞台へ上がる馬達を見送る。

 馬主の関係者らしい、おめかしした小さな女の子が母親と一緒に手を振っている。

 ホースプレビューから覗き込む観客は、厳めしい顔をした中年男から動物園気分の家族連れまで多種多様な品揃えだが、それぞれの思いを込めて、馬達の背中を押している。

 頑張れと、彼らは皆祈っている。

 コースへ続く緩やかなスロープに出ると天が開け、降り注ぐ光の眩さに目が細まる。軽快な入場曲に被せるようにスタンドの声援が鳴り響く。

 温かな中秋の陽を浴びたターフは風にそよぎ、その輝きを散らす。彼方まで続く一面の緑が雄大な海のように揺れている。

 帰って来た事への感慨にふけるより先に、ちょっとした違和感を覚えた。

 メインの三時間前だというのに客の入りが多すぎるような気がしたのだ。

 そして、きっとそれらは気のせいではない。

「どうも、レースの前からお前が主役みたいだな」

 まだデビュー戦だと言うのに、スタンドからはレラの名を呼ぶ声が聞こえる。

『お前の名前も聞こえるぞ、すげえガラ悪いけど』

 レラが言う通り、大層ガラの悪い怒鳴り声で俺の名を叫ぶ声もあちこちから響いている。

『でも、歓迎されてるな』

 これもその通りだった。金返せ、死ね、そんな野次くらいは覚悟していたのだが、聞こえてくるのは、お帰りとか、待ってたぞとか、そういう温かい声援だった。

「有難いもんだ」

『ガラ悪いけどな』

「人気騎手でもなし、贅沢は言えないさ」

 いつも通りレラと話しているつもりだったが、引綱を持つ斎藤さんの怪訝な視線に気が付くとバツが悪い。

 馬に話しかける事自体は珍しく無い業界だが、俺の場合は完全に会話をしているから、周りからしてみれば妄想が行き過ぎたヤバいヤツにしか見えないのだろう。

 結局、馬場に入るなり引きを断って逃げるように返し馬に入った。

『絶対ビョーキだと思われてるぞ、あれ』

 レラは性悪な笑みを浮かべて言う。

「誰のせいだと思ってんだよ」

 俺は舌打ちしてそんな風に愚痴るしかできない。

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