大越凛太朗【Makedebut⑤・終】

 府中二〇〇〇は開始直後に第二コーナーを捌くコースであり、外枠スタートではコーナーロスが大きい為内枠が絶対有利とされている。が、生憎と今日の枠は最外の十六番。枠順が決まった時には日頃の行いが余程に悪い関係者(主に調教師)の姿が思い浮かび、悪態をつくより先に笑ってしまった。

『お前って他の連中とは話せねえの?』

 思い立ったようにレラが言う。

「まあ無理だな。お前は俺と話すみたいに他の馬とも話せんの?」

『無理、そもそも馬って話さねえし』

「そりゃそうだ……で、急にどうした?」

『話が出来れば作戦とか聞き出せると思って』

「そりゃ無理だわ。そもそも鞍上の作戦理解してる馬なんていねえだろ」

 かつて無敗の三冠を達成したかの皇帝様はジョッキーにダービーの勝ち方を教えたこともあるそうだが、そんな馬がそうホイホイいる訳がない。

 仮にそんな思考を出来る馬がいるとすれば、それこそレラ位なものだろう。

「お前は何かあるのか、試したい作戦」

『いや、お前が考えてあるんだろ?』

 背に乗った俺を見るように首をわざわざ反らしながら、いかにも当たり前のことのように言う。絶対に口に出してやるまいが、宝石のようにクリクリした目玉と相まってその仕草は妙にかわいらしい。

「そういうこった、任せとけ」

 預かった信頼の大きさに浮かれてしまいそうな己を嗜めるように、レラの肩を軽く叩いてからコーナーポケットでの輪乗りに加わった。

 ファンファーレを待ちながら輪乗りする時間は騎手にとって馬を品定めする時間であり、特にこの時期の新馬戦は来年のクラシック戦線を見据えた合コン会場そのものだ。

 合コンならイイ女が注目されるし、輪乗りではイイ馬が注目されるのも必然。だから今日の輪乗りで一番注目されているのは間違いなくレラであり、それに跨る俺には嫉妬と羨望が入り混じった心地良い視線が向くのである。

 イイ馬を見てあわよくば自分がと考えるのは騎手の本能だが、レラの場合はそもそも馬主がエージェントと縁遠い人種なのでその機会もない。絶世の美女が目の前にいるにも関わらず薬指の魔除けを前にして手を出せない状態とでも言おうか、無論指輪の相手は俺だ。

 美人な嫁をひけらかす男の心地良さとはこういうものだろうかなどと下卑たことを考えているうちにスターターが台に上り、ファンファーレが鳴り響いた。

 ゲート入りが最後なのは最外枠の数少ない特権だろう、余裕を持って他馬の様子を観察しながら、レラにだけ聞こえるように声を絞って言う。

「スタートは多少遅らせるつもりでいろ、タイミングは俺が出す」

『解った』

 隣の十五番は今年デビューの初谷君がヤネ、スタートセンスは良いと聞いているし、馬もしっかり落ち着いている。何より栗東所属の彼は府中のポケットスタートが初めてのようだから、さぞ気持ちよく出て行ってくれることだろう。ほんのワンテンポ遅らせて隣を捌けば一枠分インへ寄せる間に更に内の混雑も多少は解けているはずだ。

 中盤は常に前に壁を作る。馬群に入れた時の反応を試しながら、理想は先頭から十馬身程度をキープだが何なら最後方でも構わない。末脚のキレが違うのだから府中の長い直線なら最後にヨーイドンの競馬をしても勝てる。

 四コーナーからは可能な限り内を突く。先の事を考えれば、外を回す大味な競馬で楽に勝つより馬の間をこじ開ける経験をさせておきたい。

 レースプランを脳内でなぞっているうちに他馬のゲートインは完了していた。

 係員がレラを引き始めてから肺一杯に空気を吸う。

 ゲートに前脚が入ると同時に、肺の中身を全て絞り出すように思い切り吐き出し、そして、先程までなぞっていたプランも全て消す。

 レース前のルーチンワーク。やり直しのきかない一発勝負で机上のプランに引っ張られる訳にはいかない。

 ゲートが閉ざされるコンマ数秒の間に作業は完了し、最後に残っていた係員がゲートをくぐって外に出た――刹那、視界の左隅に映っていた隣枠のピンク帽子が沈むように消える。

 舌打ちする間も無くレラに合図を送った瞬間ゲートが開いた。

 絶好の、しかし外枠としては最悪のスタートだ。

『何でだよ!』

 レラは訳が解らないという風に叫ぶが、その足はしっかり大地を蹴っている。

 どうやら本当に絶好のスタートになってしまったらしい、視界を左に振るとハナを切っており、そしてやはり、そこにいるはずだった十五番の姿も無い。

「隣がヘマした、付き合ったら競馬にならない」

 判断が正しかったことは客席の尋常ではないどよめきからして確実だ。出足が滑った程度であればまだ良いが、下手をすれば落馬まで有り得るだろう。

「多少外回らされるけど、行けるよな」

『ヘボ!』

「うるせえ!」

 ゲートから第二コーナーに入るまでの百メートル少々で可能な限り内へ寄せるも、スタート直後の混雑を縫うように進路を取るのでは当然間に合うはずも無い。

 結局コーナーでは埒から遠く離れた外目を大回りする羽目になり、それだけで内を行く馬に対して数十メートルのロスを背負わされる。府中の改修工事を担当したクソ馬鹿野郎に文句の一つくらい垂れてやってもバチは当たるまい。

 しかし後の展開を考えると結果オーライかも知れなかった。

 絶好のスタートを切ってしまったにも関わらず向こう正面の緩やかな下りに入る頃にはすっかり中段、前に七頭を見据える所まで自然に下がっており、これ幸いと一気に仮柵沿いまで寄せきれば前三頭のケツで自然と壁が出来上がる。

 ようやく辿り着いた位置取りに一息吐く間も無く、前方の馬達が蹴り上げた土埃や芝、蹄底でプレスされた土の塊が降り注ぎ、レラは苦しそうに身をよじった。励ましの声でもかけてやりたいが飛礫を浴びているのは俺も同じであり、息をするにもしんどい状況では口を開くことすらままならない。

 手綱を介したハミの反応からも外に出たがっている事は明白だったが、同時にそれがただの戸惑いであることも承知している。

 外を回しても勝てるレースだが、将来を考えればこそ、こんな所で楽を覚えさせる訳にはいかない。

 指先に力を込めて、手綱は頑として譲らない。

 降り注ぐ飛礫の衝撃は確かに強いが、人間の俺でも耐えられる事を考えれば、体重にして十倍近くの身体を有するサラブレッドが心底から音を上げてしまうものではない。ましてやレラは生まれ故郷のクソ田舎で野生のまま育てられた剛の馬だ、場内の出来事程度で精神が折れてしまうことなど絶対に有り得ない。

 ほんの数秒耐えさせれば落ち着きを取り戻すという確信があった。

「大丈夫か?」

 土埃が落ち着いた頃合で苦い土を噛みながら声をかけると、ハミをカチリと鳴らして応える。上出来だ。

 唇に張り付いた芝を吐き捨てながら前の状況を確認する。先頭までは十馬身、そこから三馬身程離れて二番手が一頭、更に二馬身離れて二頭が並走、その後に並んだ三頭のケツを眺める形の俺達は現在八番手。

 第三コーナー手前の坂を上がり切る寸前で右後方から被せるようにサブの馬が上がってきた。更にその外から併せるようにしてクリスも位置を上げており、示し合わせた訳でもあるまいが二頭で外への進路に蓋をされる形になる。

 コーナー入口の角度を利用して埒沿いの後方を確認すると、四馬身程後ろで俺達を監視するように総司の馬が待機している。

 一〇〇〇メートルの通過は六四秒代後半といった所か。府中の新馬にしてもスローペースだが、にも関わらず有力馬が後方に固まり過ぎている。上位馬がこぞってレラをマークしているのか、或いは来年のクラシック戦線を見据えた鞍上が観察を目的にしているのかも知れない。

 いずれにせよ大欅も間近に迫って残りは八〇〇、そろそろ動き出す頃合いだ。

 外は相変わらずサブとクリスが二重に固めておりこのまま直線まで蓋をして進むつもりだろう。元よりそのつもりも無いが外からかわす道は消されている。

 後方から迫る総司は速度を上げながらも外に持ち出す様子はなく、こちらが仕掛けどころを誤ればコースに先着して進路を塞ぐ魂胆だろう。

 馬の差を騎手の差で埋める――総司の選択はこのレースにおける最適解だ。

 レラの地力の抜け具合からして、他馬がこのレースで勝利を目指すのならば騎手の差を最大限に活かす選択肢しかなかった。彼等が選び得る唯一の勝ち筋は内に潜り込んで俺達のコースを奪い仕掛けを遅らせる事だった。

 外を塞いだサブとクリスの勝ちは消えた、注意すべきはリスクを取った総司のみだ。

「前の隙間を抜く」

『隙間なんて無いぞ!』

「すぐに出来る」

 分厚くひしめき合う前三頭のケツは容易に捌ける壁とも見えないが、馬体をピッタリ併せたまま府中Bコースのコーナーを回り切るなどまずもって不可能な芸当だ。近いうちに必ず綻ぶ。

 一瞬の綻びに躊躇わずに飛び込める度胸こそが重要なのであり、レラの将来に与えるべきはその経験だ。

「合図したら躊躇うな、反応遅れると怪我するぞ」

 レラが自らハミを深く取り走る気を見せる。

 大欅を過ぎて第四コーナーに入った。

 コンマ数秒の間隔で徐々に膨れていく前三頭の様がスローモーションで視界に流れ込んでくる。まだ僅かな隙間だが、このままコーナーを回り切る頃には余裕を持って抜けるスペースが出来ているだろう。

 内から蹄の音が迫る――恐らく総司、仮柵沿い追い越し可能な最内コースを狙っているのか、先に捻じ込まれれば内の馬が外に振られて隙間が潰れる。

「ここッ!」

 声に出して一追いするとレラは一瞬で風を巻いて速度を上げた。

 内と真ん中の馬の間に空いたギリギリ一頭分の隙間へ締まりかけた電車の扉に手を入れてこじ開けるようにクビを捻じ込み、外側の馬を追いやって前へと突き進む。

「大越てめえ!」

 背中越しに追いやられた馬の騎手から怒声が届くが知った事ではない。隙間を空けたお前が悪い。

 彼の馬、正確には壁となっていた三頭の馬達は、怯んでしまってもう競馬にならないだろう。G1クラスの追い込み馬の末脚は周囲に風の音を響かせる。風を裂くような、破裂音に似た何かが確かに聞こえるのだ。

 上がり三十三秒の壁を突き抜ける時の風音。

 その音を聞いてしまうと並の馬は心が折れる。聞かされると「はいどうぞ」と思わず進路を譲ってしまう。

 レラが馬群に突っ込んだ時も彼らは抵抗せずむしろ自分達から進路を開けた。一瞬にして敵わない事を悟ったのだ。

「気持ち良いだろ」

 レラに語りかけながら、四コーナー明けの直線へ向く頃には壁となっていた三頭は遥か後方へ置き去りにしている。

 右手に持っていたステッキを視界に入る様にチラつかせるだけで、叩かずとも火が入った。

 一般道を走る乗用車に一台だけF1カーが混じっているようなものだ。追う必要はまるで無かった。

 視線だけスタンドに向ければ、絶叫と歓声が入り混じった興奮が俺達を祝福していた。場内実況が「エトゥピリカの夢の続きを」と一際大きな声で叫んでから、レラカムイの名を三度呼んだのが聞こえた。

 坂の中腹で先頭を捉えてもなお、レラの勢いは落ちなかった。消耗を避ける意味でも無理に走って欲しくないのだが、一切追っていないのだから馬なりに走ってこれなのだろう。

 上り切る頃にはブッチギリだ。ここまで後続を引き離してしまうと遊んでしまわないかと不安になるが、手応えは依然として力強さを増している。

 真面目なヤツだなあ、なんて呑気に考えているうちにゴール板を過ぎていた。


 検量室前まで降りて行くとちせと御大が出迎えてくれて、他の馬主達からも雨のような拍手が降って来た。

 どうにも普段より騒がしい気がしたのでふとホースプレビューの方を振り返ると、G1でも無いのに満員の観客がガラスに額を付けて手を振っている。

「愛されてるな」

 自分の事のように嬉しくなってレラの首を馬上から撫でると、からかわれたとでも思ったのだろうか、いかにも鬱陶しいと言いたげに鼻を鳴らされた。

 気難しい小僧の反応に苦笑して鐙から足を外した時だった。

『半分はお前だぞ』

 人混みの雑音に紛れ込ませるように、レラがぼそりと言った。

 聞き直すよりも先にちせが駆け寄って来てレラの首を抱き締める。

 芋とは言え女だから、駆け寄ってくる姿を見た時にほんのちょっと期待した自分が情けなくなる。所詮は芋娘であるからと心中言い聞かせながら鞍を外し、今度こそ俺の方に寄って来てくれたバレットの子に道具を預けた。

「騎乗増やしてくださいね、私のお小遣いの為にも」

 コッチはコッチで見た目は綺麗なのに言う事が現実的である。引きつり笑いで考えておくよと返しながら検量室へ、入る間際に差し出された御大の右手をハイタッチする事も忘れない。

 俺以外の六人は全て後検量を終えており雑談しながら待機している。いつものようにやかましいサブと静かな総司が対照的だ。

「お前が捻じ込んだせいで総司の前塞がったみたいやぞ」

 秤に乗っているとサブがからかうように小声で言ってきた。

「仕掛け丸解りだったからな、助かったよ」

「言うねえ」

 ぼそぼそと言い合っている間に検量は無事終了、順位で整列して裁決委員からの宣言を待つ。

 一着が俺とレラ、二着はどうやらサブの馬が来たらしい、四着にはコーナーで吹っ飛ばした強面の園田さんがいたので怒鳴られるかとも思ったが、おめでとうと優しく肩を叩かれた。総司は五着、前を塞がれても掲示板に持ってきたのだからやはり人馬とも流石だ。

 着順の確定が宣言されるや否や、サブが声を張り上げた。

「凛太朗の復帰祝いや、胴上げする奴この指とまれ!」

 冗談だろうと思ったが、栗東では騎手会の宴会部長を自認するこの男はこれで案外人望がある。あっという間に騎手やら関係者が押し寄せてあれよあれよと言う間も無く神輿の如く表に引っ張り出された。

「私もやります!」

 レースの興奮が冷めていないのだろうか、騒ぎに反応したちせが勢いよく手を挙げると他の馬主達も面白がって輪に加わる。

 レース直後だというのに勝ち負けなんて忘れた風に、地下馬道に馬鹿笑いが木霊した。



 復帰祝いを口実にした胴上げで散々玩具にされてから、ターフビジョン前のウィナーズサークルへと上がると、まるで重賞レースの表彰式みたいな勢いで大勢のファンが覗き込んでいた。

 何となく会釈したら、ワッと大きな拍手が沸いて、思わず後退りしてしまうような迫力だ。

「情けない態度を見せるな、馬鹿野郎」

 ドスの効いた声でそう言った御大は、待ち構えていたファンに向けゆったりとした動作で右拳を掲げてみせる。どこからか口笛が鳴ると、さながらロックフェスのようだった。

「人、凄いですね」

 先ほどまでの振り切ったテンションは何だったのか、御大の背に隠れるようにしながらちせが呟く。

「みんなエトの事を知ってるから、レラに期待してんだよ」

 ゼッケンを抱え直しながら地下の方を覗くと、斎藤さんに綱を引かれたレラが丁度上ってきている所だった。

「では、馬とオーナーさんが左端に来るイメージでお願いします」

 スポーツ紙の記者やカメラマンらしい人種が何名か構えており、代表の一人から指示が出る。ヨモギダ青年も当然のように構えており目が合ったので軽く手を振っておくが、これもやはり新馬戦にしては人が多い。

 やがてウィナーズサークルに足を踏み入れたレラは指示するまでもなくちせの隣に立ち、ちせは引綱を預かると労うようにレラの頭を撫でた。ちせの隣にゼッケンを抱えた俺、御大に斎藤さんと続いての口取りだ。

 一斉にシャッターを切る音が鳴ったのはほんの一瞬だった。向けられていたレンズが外れたのを確認してからスタンドの方へ向くと、こちらからも携帯のカメラが向けられている。

「少し、ファンサービスでもしてやるか」

 ロックスターもとい御大はそう言うと、綱を持っているちせを促して客席の方へ向かせた。

「私は映りたくないです」

「女は撮られて美人になる、らしいぞ」

 ちせと御大の良く解らない会話に苦笑を浮かべながらスタンドの方を向くと、誰かが俺の名を叫んだ。涙交じりの、鼻がかった声だった。

「大越! ありがとう!」

 声はもう一度続く。ぐしゃぐしゃな泣き顔が想像できるような鼻水まみれの声だ。カメラを向けていた観客もその声に引きずられるようにして、あちこちから鼻をすする音が鳴り始める。

 声の主は直ぐに見つかった。エトの応援幕のオッサンが、ちょっと遠慮した風に、観客の後ろの方で汚い顔をぐちゃぐちゃに濡らしているのが良く見えた。

 気付いた時にはもう、スタンドに向けて頭を下げていた。顔を上げていると俺の顔までグチャグチャになってしまいそうで、それじゃあまりにも情けないから、頭を下げて顔を隠した。

「お帰り!」

 また誰かが叫ぶ。声はやまびこみたいに連鎖して、男の声も、女の声も、誰が言っているのか解らなくなるくらい沢山の声が、俺の名を優しく呼んでくれている。

 目蓋を擦ったのは、目にゴミが入ったからだ。



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