茂尻ちせ【ふらふら①】
あさ、目がさめる時は、ゆううつだ。
ふかふかで、温かくて、気持ちの良い所から追い出されるように、無理やり目をこじ開けられて、口元のかぴかぴしたよだれをパジャマの袖で拭う、朝。
騒音を撒き散らす携帯電話が、とても恨めしい。
自分で設定した目覚ましなのだから恨むのは筋違いだけれども、疲れを知らない機械にはこの気持ちが解らないのだと、つい画面を睨んでしまう。
睨み付けた画面にはAМ232と表示されている。
私にとってはちょっと早い朝だけど、世間では真夜中と言うのだろう。
半分眠った状態でのっそりのそのそ布団から這い出し、ケトルのコンセントを刺し込んでから台所で顔を洗う。
パジャマのズボンを床に落として、昨日脱いだままのジーンズに左足を入れてから、ケンケンパ。机の上に出しっぱなしの食パンを咥えて、今度は右足を入れてから、ケンケンパ。もっそりもそもそ口を動かし、昨日の夜使ったままのカップにインスタントのカフェラテをあけて、ケトルがコトコト鳴り始めたらお湯を注ぎ、フーフー息を吹きかけながらマドラーでぐるぐる回して、飲み終わるまで五分くらい。
それからカップを洗い、歯を磨いて、大体二時五十分までに家を出る。
厩舎までは自転車で十分もかからないから、三時までには作業を始められる。この時期なら他の厩務員さんが出て来る前に雑用を終えて、少し余裕を作れる。
そうして作った時間で、レラの馬房に入り込んでゆっくりする。レラはまだ寝ている時間だから、時々立っているけれども、私が行くと膝を畳んでくれるから、彼のお腹を枕にして目をつむる。
今日もレラは立っていたけれども、私の顔を見ると、心得たと言わんばかりに膝を畳んで、ぐてんと寝藁に身体を投げ出した。声をかけてくれるわけではないけれど、使っていいよと言ってくれている。
レラのお腹は温かくて、つやつやしていて、とてもうまくさい。くさいのが懐かしい。とても落ち着く、草の匂い。
だからこうして目をつむる時間は、私にとっては何物にも代えがたい価値がある。わざわざ他の人より早起きして厩舎に行く理由は何だと考えたら、このくささが第一に浮かぶ程度には心地よい。
レラも本当は立って眠りたいのだろうけど、私が頭を乗せている時は静かに座ったままでいてくれる。
とても優しい、良い子だ。人の気持ちが解る、賢い子だ。
そうしてレラの匂いを嗅いでいたら、ふとお母さんの隣でシトをこねていた時の事を思い出した。
昔、まだお父さんとお母さんが生きていた頃は、一日かけて準備するようなお祝いごとを時々していた。
お祝いごとがある日は、おじいちゃんがミズキの飾り物を沢山掘って、お母さんが沢山のご馳走を作って、私はその脇でじゃがいもやカボチャのお団子を延々とこねて平たいお皿を山盛りにするのが仕事だったから、馬の世話はお父さんが全部やる事に決まっていた。
やがて準備が整ったら、その子が売れた時に貰っておいた鬣を中心に掲げて、用意したご馳走やお酒を隙間なく並べる。お爺ちゃんがお祈りの言葉を言ってから、私達もその子にお祈りして、みんなでご馳走を食べる。
走れなくなった子へのお別れの儀式。
事故で死んだ子も、用途変更になった子も、沢山いる。
お祝いごとの日のはずなのに、やっぱり少し辛いのだ。
自分では覚えていないけれども、小さい頃はやっぱり大泣きして暴れていたらしい。
競走馬になれなくても、足が遅い子でも、嫌いになれるはずが無い。それは昔も、今でも、変われていない。
そして、私はその子たちのお陰で生きている。
レラのお腹でくさいのを嗅いでいると、とりとめもなくそんな気持ちが浮かんでくるから、きっと、レラのくささには私の家が残っているのだろう。
とてもあたたかくて、とてもくさい、レラのお腹が、私は好きだ。
そうして暫くまどろんでいると、お隣の馬房から朝を告げるニワトリみたいな大きな鳴き声が届くから、私はそれを合図に起き上がって馬房の外に出る。
お隣のスープちゃんを担当している斎藤さんはおんぼろスクーターで出勤してくる。スクーターは私よりも年上で本当におんぼろだから、エンジンを旧式の湯沸かし器みたいにぽんぽんと鳴らしながら走る。私が聞いても解るくらいに個性的な音で、スープちゃんはその音で一日が始まる事を知っているから、とても大きな声で鳴く。もしかしたら、私を起こす為に鳴いてくれているのかも知れない。
いかにも今まで作業をしていた風に取り繕って、現れた斎藤さんに朝の挨拶をする。おはようございますと頭を下げるけれど、斎藤さんは小さく頷くだけで今日も言葉は無い。
斎藤さんは私の事を好きでは無い。私が来なければレラの担当は斎藤さんになるはずだったのだから当然だ。
厩務員さんは担当している馬が稼いでくれた賞金の五パーセントを進上金として貰える。厩舎によっては担当が直接貰うのではなく山分けにするところもあるらしいけれど、臼田厩舎では担当さんが貰う事になっている。けれども私が押しかけて、実質レラの担当に収まっているから、レラの進上金はそっくりそのまま私のお給料に充てられることとなった。
斎藤さんの立場で考えれば、いじめられていないだけ有難いくらいだろう。
無言の圧力を感じることもあるけれど、その程度なら、高校の時に比べればへっちゃらだった。
黙って作業をしていれば、私は馬主だからひどい事はされないし、怖いことなんて何もない。教科書に落書きをされたり、ジャージを切られたり、机に虫を入れられたり、そういうことをされないのだから、全く気楽だ。
そう考えると、思い出したくもない高校生活も少しは役に立っているように思えるから、あんな高校でも少しは学校らしい意義があったのだと思えるから、不思議だ。
考えながら作業をしているとそのうちレラが前足を掻き始めて、間を置かずに大越さんが来る。騎手の癖にすっかり厩務員さんみたいになっていて、本職の厩務員さん達よりも早い時間に出勤してくる。
「おはよ」
お互い慣れているから、私も丁寧な挨拶はしない。向こうも適当に私を通り過ぎると、牧場の頃と同じように、まっすぐレラの馬房に行って遊び始める。
大越さんとレラは、仲が良い。人と馬なのに、ましてや騎手と競走馬なのに仲が良いというのも妙な表現な気がするけれど、本当に仲が良い。
ウマが合う、というヤツなのだろうか。スープちゃん達と違ってレラは大越さんの気配に気付いても出迎えるような素振りは見せないけれども、しっかり待っている事は解る。
たとえば中学の教室、休み時間、一人でぼーっとしている時に友達がやってきたような感じ。大きな声で歓迎はしないけど、よう、みたいな、そんな感じの迎え方。
今日も二人で何かお喋りをしている。大越さんは笑っている、レラも何だか楽しそうにしている。あの二人はもしかしたら本当に会話が出来ているのかも知れないと思う。眺めていると、なんとなく、ちくちく、いらいら、するから、視線を外して作業を続ける。
大越さんは、あれで結構乗れる騎手らしい。エージェント契約していないのに、わざわざ他の厩舎から依頼が来たりする。
特にこの前のレラのデビュー戦で勝ってからは数が増えているけれど、全部臼田先生が断っているから、本人はきっと知らない。
センセイ曰く、大越さんが他の馬に乗るのはまだ早いのだそうだ。
センセイ曰く、大越さんは騎手に向いていないのだそうだ。
センセイ曰く、大越凛太朗は唯一代わりがいない騎手なのだそうだ――これは絶対に言うなと口止めされている。
私には良く解らない。
エトの時、朝日杯を勝ってクラシック有力候補と言われ始めた頃に、鎬さんのエージェントから乗り替わりを考えないかという話があった。
おじいちゃんからそれを聞かされた時に、私は大越凛太朗なんていう名前も知らないパッとしない騎手よりも競馬界の王子様みたいな鎬総司さんに乗って欲しいと思って、迷わずそうした方が良いと言ったけれども、おじいちゃんは静かに首を振るだけだった。その時は理由が解らなかったし、実際の所今でも解らないのが本当で、心の底ではやっぱり鎬さんに乗って欲しい気持ちがあるのかも知れない。
あの日、エトが死んだ菊花賞の夜、エトが夢に出て、レラには大越凛太朗を乗せて欲しいと言った。この上なく流暢な日本語で、はっきりと言った。翌日おじいちゃんに夢の話をしたら、おじいちゃんはまるで同じ夢を見たみたいに、そうだなと頷いた。笑い飛ばしてくれる事を期待して話したのに、ひどく真剣な表情で頷かれてしまったから、私も信じるしかなくなった。
だから、レラには大越さんが乗っている。
そして今、大越さんと遊んでいる時のレラを眺めていると、あの夢は、夢だけれども本当で、私に大越さんの事を伝えたかったエトが頑張って出てきたのかも知れないと思う。そうだとしたら、慣れない日本語を話して、エトは本当に頑張ったのだと思う。
どうしてそんなに頑張ったのかは、やっぱり解らない。
「おい、検温」
ぼーっとしてしまっていたのだろうか、声の方を向くと彼らはすっかり私のことを待っていた。体温計を持って駆けて行き、馬栓棒をくぐって中へ入ると、まだ寝てるんじゃないのかなんてからかわれる。
「起きてます!」
大越さんは何かにつけて私を子ども扱いする、デリカシーの無いおじさんだ。
こういう風にからかわれた時は、レラが大越さんをじっと睨んで威嚇してくれる。大越さんは負けじとレラに言い返すけど、結局最後はレラが勝つ。いい気味だ、と私は思う。
やり合う彼らをよそにレラのお尻に回り込んで、尾に触れると自分から上げてくれるから、とてもかわいいお尻の穴に体温計をぷすりと射し込む。
そうして一度あくびするくらいの時間でピピピと鳴って、今日の体温は三十七度七分。
「絶好調だね、レラ」
体温計を抜きとって首にキスすると、レラは大越さんの事なんて放り出して私に頬ずりしてくれる。ちらっと横目で見るとむくれた風なおじさんが一人でぽつんと立っていて、やっぱりちょっといい気味だ。
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