大越凛太朗【牧場編⑥】
「ご飯だよー!」
拡声器を通したちせの声が青空一杯に響くと、手綱を絞るまでもなく、レラは勝手にトレーニングを切り上げて厩舎の方へと進路を向けた。道中牧草地で遊んでいたレタルとクーも合流すると三頭揃って昼飼の時間になる。
もっしゃもっしゃとせわしなく草を食む馬達を眺めながらの昼食がここでの日常だ。獣臭い馬房で食欲がわくはずも無いのだが、ご飯は一緒に食べた方が美味しいからというちせの理屈に何となく付き合っているうちに俺にとっても当たり前になっていた。
『チセ、今日のカイバも美味しい』
レタルが言うと、
「甘くて美味しいでしょ、今日のはリンゴ増量だからね」
ちせも笑顔で返し、
『チセも食べなよ、美味しいよ』
クーが続いて、
「クーも沢山食べないと駄目だよ。まだまだ大きくなるんだから」
その首を撫でながら、
『チセ、チセ! 俺やっぱコイツ乗せるの嫌だ! ヘボだ! ねえチセ!』
構われている二頭を見たレラが思い付いたように言う。構って欲しい一心なのだろうが俺からすれば青筋ものの暴言である。
「レラは疲れてるのかな、頑張ってるもんね。でもご飯も沢山食べないと駄目だよ」
会話は噛み合っていないようだが、構って欲しいという意図は伝わっているのだからこれも立派な意思の疎通というヤツだろう。ちせに声をかけられるとそれだけでレラは上機嫌になり、フンフン嬉しそうに尾を振りながらカイバ桶に顔を突っ込む。
顔を寄せ合って食事を取る三頭と一人の光景を輪の外から眺めながら、俺もちせが用意してくれた握り飯を頬張る。具は塩昆布、流れた汗の分だけ強めにきかせてくれてある塩の加減が絶妙で旨い。
一口、二口と味わって、ちょうど三口目を口に運ぼうとした時、馬達の輪の中からちせの声が届いた。
「例の、事務員さんの話、臼田先生に相談しました」
「で、何て言われた?」
「金が無いからダメだって」
勧めないと伝えてはいたが、期待を持たせた手前申し訳なくもある。
「貧乏厩舎だ、テキがそう言うなら仕方ない」
「お金なんて要らないって、ちゃんと言いました」
「お前がそう言っても、厩舎としてそれを受け入れる訳にはいかないだろ」
「どうして!」
馬達と突き合わせていた顔を引き上げると、鋭い視線と声色が俺に向いた。
馬達はちせの雰囲気で何かを察したのだろう、突然静かになって、もっしゃもっしゃ、じっと咀嚼している。
「仮にお前が入って来たら、いきなりでもそこら辺の厩務員と遜色ない仕事をこなすと思うよ」
「なら良いじゃないですか、事務だってちゃんとやります」
「他の人間が給料もらってやってる事を、お前はタダでやるのか?」
「厩舎からすれば得じゃないですか」
「そういうもんでもないんだよ、社会って」
自分で答えておきながら随分とチンケな理由だと思うが、テキがちせを雇えないと答えた表向きの理由はそれだろう。給料を貰って仕事をする他の厩務員の手前、同じ仕事をタダで引き受ける人間を置いておく訳にはいかないという判断は会社として当然のものだ――しかし、それは建前であって本質ではない。
恐らくだが、ちせから相談を受けたテキは、俺と同じように、危うさのようなものを覚えたのだと思う。
一頭の馬の為だけにそこにいたい――そんな純粋過ぎる感情は、この業界ではほとんど毒にしかならない劇薬だ。
「意味わかんない!」
ちせは珍しくヒステリックな声で吐き捨てると、逃げるようにして外へ出て行った。馬達に気持ちの乱れた姿を見せたくないから、頭を冷やしに行ったのだろう。
『チセに何言ったんだよ』
ふと見れば、カイバ桶から顔を出したレラが俺の方を睨んでいた。
「お前らには解らない話だよ、黙ってさっさと飯食え」
『チセに嫌な事するなら二度と乗せないからな』
かわいげのある言葉とは裏腹に、耳を伏せて真剣に威嚇している。レラの隣で食事をしていたレタルとクーもじっと俺を見つめており、下手をすれば三頭から一斉に襲われてしまいそうな雰囲気すら漂っている。
「嫌な事だとしてもアイツの為だ、解ってやれ」
『嫌な事なのにチセの為なんておかしい』
「馬には解らないだろうが、その方がアイツにとって幸せだ」
『どうしてお前がチセの幸せを決められるんだよ、ヘボ騎手の癖に』
何を返しても納得しそうにないレラの瞳の色に、俺は無言で背を向けた。
数分後、何事も無かったかのように戻って来たちせを合図に、午後の作業を始める。今日は特別に温かかい日だから、馬の身体を洗ってから日向ぼっこをすることになった。
まるで思春期の女の子でも扱うみたいな丁寧さで専用のシャンプーとトリートメント剤を使って洗い上げ、タオルで十分に水気を切ってから、日当たりの良い牧草地の上に三頭と並んで寝転がる。
こういう時、ちせは大抵馬達の脇で何かの本を音読する。本は大抵が児童書や童話の類で、思春期の女が読むには対象年齢のギャップを感じてしまうものだが、馬達は自然な風に彼女の周囲へ集まって膝を畳んでいる。
最初の頃は謎めいた光景に見えたものだが、慣れてくるとそれが読み聞かせをしているのだと解るようになった。
「――シンデレラは王子様と幸せに暮らしましたとさ……めでたし、めでたし」
どうやら馬達も話の内容をきちんと理解しているようで、話を聞き終えた後は感想を語り合っていたりもする。今日は馬に変えられたネズミがツボだったらしい、ネズミが馬に変わるなら馬がネズミに変わる事も有り得るのではないかなどと言い合っている。
「これ、いつからやってんの?」
「そんなこと、覚えてません」
隠しきれなかった苛立ちが言葉の刺々しさに滲んでいたが、わざととぼけてみせている風でもないから、本当に昔からの習慣なのだろう。例えば朝起きてから顔を洗って歯磨きをしたり、食事の前に手を合わせたり、少なくともちせにとって、この読み聞かせはそういう行為と大して変わらない事のようだった。
案外ここの馬達が人とコミュニケーションを取れているのはこの読み聞かせが効いているのかも知れない。そんな風に考えると妙に納得できてしまう気がして一人で苦笑してしまう。
「何かおかしいですか?」
「そりゃおかしいさ、馬相手に読み聞かせなんて普通じゃない。でもそれ以上に面白いのは、コイツ等がこうしてちゃんと話を聞いてる事だな」
突っかかってくるちせを流しながら、目の前で膝を畳んでいる馬達を指すと、突然話を振られて戸惑っているらしい馬達からぽかんとした馬面が返ってきて、場の毒気を抜くには十分だった。
張り詰めていた空気がふと和らぎ、ちせは大きく息を吐く。
「魂って、信じます?」
「オカルトか?」
「そうだけど、そうじゃなくて、考え方みたいなこと。
馬や他の動物もそうだし、それだけじゃなくて、生き物以外の存在も、この世界にあるものは、ざっくり大体、神様たちが化けて降りてきたものっていう考え方。
そう考えると、その全てに魂みたいなものが宿っていて当たり前だし、当然何一つとして私たちのものにはならない。私たちは、生活の為に沢山のものを神様から借りているけれど、結局は借りているだけなんだから、丁寧に使って最後はきちんと返さないと、その神様は怒って降りてこなくなる」
「生憎と中卒でね、そういう難しい話はパス。神だろうが仏だろうが、その日のメシを食う以上の事を考えられる頭じゃない」
ちせは俺の冗談に付き合うように苦笑して、それから静かに続けた。
「私はお爺ちゃんからそう教わりました。きっと、お爺ちゃんはお爺ちゃんのお爺ちゃんからそう教わって、この牧場はそうして続いてきたんだと思います。馬たちは神様が降りてきたものだから、私たちはそのお陰で生きていけるから、人と同じかそれ以上に感謝して大切にしなさいって。
だから、私がみんなと本を読む事を、おじいちゃんは喜んでくれた。言葉は交わせなくても気持ちは通じるからって」
ふと、語るちせの横顔に心地よさを覚えた。冬の明け方の、透き通った空のような色彩だった。
「でも、もうお爺ちゃんは行ってしまった。私は、きっとお爺ちゃんの言っていたことをきちんと理解できないまま一人になってしまったから、このお話も私でおしまい」
語り終えたちせが本を閉じて立ち上がり背伸びをするように反ると、馬達の首も空へ向けて一緒に伸びた。
「さっきの話」
「え?」
背伸びした拍子にシャツがめくれたらしい、こちらへ振り向いたちせはヘソ出しスタイルだった。妙な色気を感じる事など無い、腹が冷えて風邪をひくんじゃないかなんて心配してしまうような、芋臭いヘソだ。
「丁寧に扱わなかったら神様は降りてこなくなるって話」
「それは、普通の事だと思いますよ。折角貸してあげたものを乱暴に扱われたら私達だって嫌じゃないですか。神様だって同じですよ」
「神様は選べるのか?」
「何を?」
「生まれない事を」
俺は、草を食みながらネズミになった馬の話を続ける馬達を眺めながら、何となくそんなことを聞いた。特に深い意味があった訳ではない。ただ、ちせの話を聞いていて、随分と自分勝手な解釈だとは思った。
ちせは、俺の質問がまるで考えたことも無かった盲点であるかのように一瞬呆けた表情を見せてから、短く、ああ、と何かに納得したように頷いた。
「ようやく解りました」
「何が?」
「大越さんは優しいけど、少しだけ、臆病なんだね」
そうしてふと、小さい子をあやす時のように、レラに向けるものと同じように、俺に微笑む。
「何を言ってる」
その微笑みを向けられた途端、何故だか解らないままに頬が紅潮していくのが解った。何か途方もない恥をかいたかのように、耳たぶが熱い。
「貴方が思っているほどに、私も、神様たちも、弱くない。哀れまれるなんてまっぴらごめんぐらいに、きっと思ってる」
その言葉は、鋭く、けれども不思議と痛みも無く、胸のあたりに突き刺さるようだった。
「みんな、自分に出来る精一杯をやりきれば、それだけで良いんです。だってそれ以上の事なんて出来ないもの。もし仮に、他の誰かの為に何か出来る事があるのだとしたら、それはきっと、やりきる事を応援するだけなんです」
俺は、ちせの方を向くことが、顔をあげる事すらも、出来なかった。一回りも年下の子供に人生について説教されるなんて、誰が聞いてもみっともなくて嫌になる話だろうが、情けない大人らしく逆ギレしてやる事すら出来ない。他でもない俺自身がちせの正しさを認めてしまっている。
「決めた。厩舎に雇ってもらえなくても、アルバイトでも何でも探して美浦で暮らします。それが私の精一杯だって、今決めました」
下を向いたまま何も発せずにいた俺を茶化す風に、ちせは殊更明るく言ってのけた。
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