大越凛太朗【牧場編⑤】

 その夜、引っ越し準備の進捗について確認するつもりでちせの部屋を訪ねると、ちょうど片付けを進めている最中だった。昨日までは使っていない部屋の整理を進めておりそちらがようやく一段落ついたところだったから、ぼちぼち自分の部屋にも手を付け始めたのだろう。本人は学習机に向かって作業をしており、机の反対側に置かれたベッドは整理用のダンボールで占拠されている。

 ノックはしたつもりだったが慌てさせてしまったらしい、バベルの塔を思わせる本の山がド派手な音を立てながら倒壊し、一方ちせは手にしている何かを背に隠そうとしていた――のだが、如何せん目立つ代物であり気付かないはずがない。そして気付いてしまえば、とぼけるのも却って不自然だ。

「隠すなよ、珍しくもない」

 競馬界のプリンスにして俺からすればいけ好かない商売敵、天才・鎬総司のリーディング記念タペストリー。競馬サークルきっての美青年であると同時に血統書付きの天才騎手でもある総司は、業界の外側にいる一般女性からの人気もすこぶる高く、そこに便乗しようとした競馬会が公式に販売した謎グッズだ。

 ジョッキーのタペストリーを買うモノ好きなんているはずないと、サークル内では完全なネタ扱いだったのだが、蓋を開けてみればターフィーショップは即日完売、ネット上の高額転売が横行し、競馬会が直々に増産のアナウンスをするハメになったという珠玉の(?)逸品である。

「ファンなのか?」

 部屋に入り込み、からかうでもなく尋ねながら手近な椅子に腰を下ろす。

「人並みですよ……学校とかでもみんな話してたし」

 ちせは恥ずかしそうに視線を逸らしながら、観念したようにそう答えた。

「まあ、覗きに来た訳じゃなくてよ。これからどうするとか決めたかなって」

 総司のタペストリーについて語り合うつもりも無かったので、さっさと本題に入る。

 ちせは手にしていたタペストリーを丁寧に巻き取ると、段ボールにしまった。

「何も決めてないですけど、中卒じゃどうにもならないので取りあえず高校に入り直そうかなって。定時制とか、通信とか、バイトしながら」

「お前一人なら無理に働かなくても食っていけるだろ、レラだって稼ぐし」

「そうですけど、何もしない訳にはいかないですから」

「まあそこは良いや。ところで、やっぱ中卒って駄目なの?」

「全然駄目っぽいです。私も驚きましたけど、世の中って高卒が前提ですよ」

「マジか……引退した後どうすっかな」

「ダービージョッキーなんだから、そんなこと言わないでくださいよ」

 お互いに中卒だからこそ言い合えるブラックジョークに違いない。考えたところでどうにもならないのだから笑うしかない、というところまでが共通認識なのだ。

「で、住む場所は?」

 脱線しかけた話を戻すと、ちせはため息交じりに首を振った。

「東京の方が良いんですけどね……そもそも地名が解らないから説明聞いてもピンとこなくて。決められませんでした」

「悩むくらいなら近場の方が楽な気がするけどな。釧路とか、もう少し都会が良いなら札幌とか」

 崩れてしまったバベルの塔を適当に再建しながら、俺は言う。

 ちせはまたも首を振る。

「美浦に近い所が良いんです」

「……美浦って茨城だぞ?」

「茨城と東京ってそんなに離れてるんですか?」

 茨城と東京の距離感が解らないというのはなるほど道民の感覚かも知れない。俺だってここに来るまでは道内の距離感なんて怪しいものだった。

「トレセンから東京の端っこまでが、大体ここから釧路くらいの感覚かな」

 両方の感覚を何となく理解している今だからこそ出来る説明で返してやると、ちせは何度か頷いてから、

「もういっそ美浦に住むってのは、ダメですかね?」

至極真面目な声色で、そんな間抜けな質問をしてきた。

「俺に聞いてどうすんだよ」

 ちせが真面目な分だけ脱力してしまい、息を吐くと呆れた風になった。自分の人生なんだからもう少し必死になって考えろよ、なんて台詞を口に出すようなこともしないが、オッサンの説教じみた感性がむくむくと首をもたげかけている。

「だって、解らないし」

 消え入りそうな声につられて改めて見ると、ちせは自信の無い顔つきで下を向いていた。その事に気付いた瞬間、俺は、ちせがまだ十八歳である事を思い出した。

 恐らく、世間一般の物差しで語るなら、ちせの置かれている状況は、十八歳の子供にとってはそれなりに酷なものなのだろう。自分の生き方を自分ひとりの意思だけで決めるのは確かに難しい。自らの意思で選択出来ることを幸福に思うべきだ、などと考えてしまうのは、それこそ俺流のひがみ根性でしかない。

 そうしてふと、中学の担任だった吉田の事を思い出した。親は元より相談所の職員とも折り合えないような中で、吉田もまた誰より自分本位なオッサンではあったが、今俺が馬に乗れているのは吉田と出会ったからに違いない。

「……そもそも、なんで東京に住もうと思ったんだ?」

 ちせは、本当は何も選択したくないのだと思う。状況さえ許せばこの牧場をいつまでも続けていたいのだろう。

 だが、現実はそれを許さない。

 何も選びたくなくても選ばなければいけない時は、一つ一つの理由を丁寧に整理すると多少は楽に選べるものだ。そういうところで人生と馬券は似ている。吉田は俺にそんな風に教えた。

 ちせは少し間を置いてから、ぽつりぽつりと答えた。

「これからの事、全然考えてなかったけど、東京ならやれない事の方が少ない気がしたから、それで」

「今の時代、東京じゃなきゃやれない事なんてないよ。無理して北海道出なくたって、大抵の事はやれるだろ」

「レラに会えないじゃないですか」

 それまでおどおどとしていたちせが、突然ハッキリと自分の意思を口にした。なるほど、どうやら最優先されるべき事項はこれらしい。

「じゃあ、トレセンに通う為に東京の方に出たいんだな?」

「そうです」

「なら次、どうして美浦じゃなくて東京なんだ?」

「とにかく、何するにしても高卒取らないといけないから、通信とか、定時とか、そういう資格を考えると東京の方が良いんだろうなって。調べたら、美浦にはそういうのが無いみたいだから」

「他の理由は?」

「えーと、単純に東京行ってみたいっていうのも無くはないんですけど、あとはバイトのこととか――」

 それから数分の間、段々と頭の整理が動き始めたらしいちせは、真剣に思考しながら、転居先に求める条件を列挙した。挙げられた条件自体は大したものではなく、現代日本であれば恐らくどの地域でも難なく達成できる要求である。

「お前の条件なら、土浦辺りで大体足りると思うんだけど」

 不動産アドバイザーの気分でそんな答えを提示してやると、ちせは豆鉄砲を食らった鳩みたいに目を丸くしながら、

「土浦ってどこですか?」

勢いよく食い付いて来た。

「美浦の隣、の隣。美浦よりはマシって程度の田舎だけど、お前のやりたい事は全部何とかなる」

「トレセンからの距離は?」

「多分ここからバス停よりも近い」

「ウッソ!」

「何とさらに、駅前からトレセン直通のバスまでございます」

「マジで!」

 ちせは口元を押さえて絶句し、アドバイスしてやった俺が軽く引くレベルで感動していた。目の前に山積していた課題が一瞬で解決したような表情を見る限り、引っ越し先の本命は固まったらしい。

 そうして暫く俺が知る限りの土浦話をしてやるうちにちせも徐々に落ち着きを取り戻していき、頭の中では新生活へ向けた具体的な計画を立て始めているようだった。何せ辺境の牧場で育った野生児だ、解り易い方向性さえ定まってしまえば生きる為の行動力は現代のもやしっ子と比較にならない。

「にしても、レラだけ特別扱いだな。レタルとクーがこの話聞いてたら泣くぞ」

 水を向けると、ちせはバツが悪そうに苦笑していたが、否定はしなかった。

 持ち馬では無いこともあるだろうが、レタルとクーは揃って栗東に所属しており数の上ではそちらが勝る。にも関わらずその選択肢が浮かんですらいない辺り、レラという存在はちせにとっても特別なのだろう。

「末っ子ほどカワイイって言うじゃないですか、多分それと同じかと……この牧場の末っ子だから、あの子」

「そうなる事、知ってたのか?」

 ちせは小さく頷いてから、一度間を置くように、大きく伸びをした。

「お父さんとお母さんが死んじゃってからも、どうにかこうにかやって来たんですけどね。レラが生まれるちょっと前に、おじいちゃんがもう続けられないって……でも、レラが生まれたから、この子を送り出すまでってお願いして」

 ちせが語りながらベッドに身体を落とすと、ベッドのスプリングが音を立てて弾み、ちせと段ボールをほんの少し浮かせた。

「もうその時には、身体のことも全部解っていたんだと思います」

「病気かなんかだったのか?」

「ガンだったらしくて。私は全部終わってから、お医者さんに聞きました」

 そう語るちせの声は、一般的な高校生からは考えられないほどに冷静だった。それはきっとこの牧場が育んだ精神に違いない。

「私、身体のことは何も聞いてなかったけど、でも、何となく気付いていたんです。だから、牧場を閉めたら、おじいちゃんもそのまま消えちゃうような気がして……あの子をここで面倒見るって決めたの、私の我儘だったんですよ」

 それまで淡々と語っていたちせが、その時、一瞬だけ、声を詰まらせたようにも聞こえた。

「お祖父ちゃん、エトが皐月賞を勝った時に本当に喜んでいたの。ダービーは絶対に来いって、臼田先生もわざわざ呼んでくれて、だから、本当は、府中に行きたかったはずなんです。でも、私が一人になっちゃうから、行けなかったの……それだけ、残念だったのは、今、本当に申し訳ないのは、それだけ」

 ベッドの上のちせは平然とした風に見える。声も、詰まらせたのは一瞬だけで、もしかすれば勘違いだったのではないかと流してしまうほどに、その言葉は普段と何ら変わりなく耳に届いた。

 それでも、俺は自問した。

 これまでも、エトの口取りでオーナーや生産者が一度も入らなかったことに疑問を抱かなかった訳ではない。

 だが、その背景について真剣に考えた事があっただろうか。

 少しでも真剣になって、その理由を知ろうとしただろうか。

 俺のダービーは彼等に与えられたものだと、感謝出来ていただろうか。

「レラが府中に連れて行く」

「ええ、勿論信じてます」

 罪悪感から目を逸らす為の方便であったかも知れない、俺の戯言めいた言葉にも、ちせは笑顔を作って素直に頷いてくれた。

 その時俺は、ダービー・レイをちせに送ってやりたいと語ったレラの気持ちを多少なりとも理解出来たのだろう。


「私、騎手目指そうかな」

 それから不安な将来についての話を小一時間も聞いていたら、突然、ちせがそんなことを言い出した。

「騎手は馬主やれねーぞ。それとも、レラのこと誰かに売るか?」

「絶対やです」

 ケタケタと笑いながら、気の置けないバカ話のつもりなのだろう。将来の事を考えようにも世間のことを全く知らないから、聞いたことがある職業を挙げている程度の感覚。

 だから、俺も、つい気が緩んでいた。

「厩舎回りの仕事で、競馬会を通さなくてもやれるとすれば、厩舎の専属事務とかかな。あれは調教師会も通してないだろうし」

「そんなの、あるの?」

 突如として、ちせの目の色が変わったのが解った。

「さあな……そういうの雇ってる厩舎もあるって、それだけの話だよ」

「私それやりたい!」

 失敗したと後悔した時には既に遅い、教えてしまった情報を無かった事には出来ない。

「まあ、テキが雇うって言えばの話だけどな」

「臼田先生なら大丈夫、レラの事言えば大抵の条件は呑んでくれますから」

 交渉事には慣れているという事だろうか、サラッと脅し文句のような言葉も聞こえるが、どうも本人は大真面目に言っているらしい。

「高卒を取りたい訳でも、バイトをしたい訳でも無いの。でも、レラを近くで見ていられる私の居場所があるなら、それをやりたい」

 俺は、心のどこかに、ちせを一人にしてしまう事への罪悪感があった。ちせにとって馬達が本当の家族であることを見て来たからこそ、レラを連れて行く事が彼女から家族を奪う事であるように感じているのも事実だ。

 だが、だからこそ教えなければ良かったと思う。

「ぶっちゃけ、テキが雇うって言っても、俺は勧めないけどな」

「どうしてですか、帳簿もカイバも人並み以上につけられますよ?」

 冗談めかした口調でちょっと巧い事を言われたので、笑おうとしたが、どうにも表情が強張って、ぎこちない笑顔になってしまった。

「競馬会の中の仕事は、お前には合わないよ」

「だから、どうして?」

 徐々に怒気を帯び始めた声色に会話の潮時を悟り、俺は椅子を立つ。

 それでも背中に突き刺すような視線を感じてしまうと、無言で立ち去る事は出来なかった。

 嘘偽りの無い言葉でなければ、ちせには通じない。

「馬のことを商売道具として割り切れない奴は、来ても苦労するだけだ」

 この牧場で暮らした中で心底から感じた事をそのまま伝えたが、ちせの視線が柔らかくなることは無かった。

 しかしこれ以上言える事も無い。

「そろそろ寝るわ、おやすみ」

 明日の朝には機嫌を直してくれている事を祈って、俺はちせの部屋を出た。




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