茂尻ちせ【ちゅぷ②】

 抜群のスタートで集団から飛び出したのは六番のスギノポンポコリン一頭で他にハナを取ろうとする馬も出てこない。けれども、逃げ馬にとって多少有り難い程度の、穏やかな立ち上がりと見て気楽に構えていられたのはほんの一瞬のことだった。

 単独で先頭に立つスギノポンポコリンから三馬身程度後方を走っていた四番のアマツヒが追っつけるような事も無くマイペースでポジションを上げようとした、その瞬間。

 馬達が予め定められたポジションを確保するように一斉に動き出すと、作り上げられた馬群は一個の意思を持った巨大な影となって暗闇の中にアマツヒを飲み込んだ。

 あっという声を出す事すら出来ないほど一瞬の出来事。

 観客が目の前の事態の異質さを理解したのだろう、遠くで鳴った雷のように、ワンテンポ遅れてスタンドがどよめく。

 突然の展開への動揺を自覚しながら、卓上モニターと双眼鏡へ交互に視線をやって動き出した集団を確認すると、前で蓋をするように立ち塞がっているのはあの二番の子だ。以下内から五・七・九、続いて一・四、最後方に三・八・十とここまで差は無く詰まっており、捌きようが無い程にびっしりと密集した隊列を作っている。

 前も内も塞がれた状態のアマツヒが外へ持ち出して前三頭の壁を交わそうとすると、今度は外側から八番が被せるようにポジションを上げて外への進路も取らせない。

 全ての馬が、あからさまに、アマツヒの進路を絞りにいっている。

「よしッ」

 杉本さんが小さく、けれども芯を感じる声でそう漏らした。きっと握り拳を作っていることだろう。有力各馬が牽制し合う隙をついての単騎逃げ、スギノポンポコリンにとってはこの上ない展開だ。

 あまりにも露骨過ぎるマークに思わず眉が寄ると、気になったのはレースの展開よりも宮代有紀さんという存在のことだった。

 喉の奥が熱くなるような、モヤモヤした感情が沸いてくる。自分の牧場から出した馬を潰すなんて、生産者として許される発言じゃない。あの発言が自分の牧場で生まれた子へ向けたものだったのだと知ると、今の状況をどんな表情で眺めているのか、見てやらない訳にはいかないと思った――その時は確かにそう感じていたのだった。

 有紀さんは、双眼鏡を覗く事もせず、モニターを見る事もせず、座ることも忘れたようにただ立ち尽くして、コースを眺めていた。彼女の凍り付いたような表情を見ただけで内面に抱え込んでいる何かが伝わってくるようで、抱いていたモヤモヤも散らされてしまった。

 少なくとも馬に愛情を抱いていない人間に出来る表情ではない。

 ならば何故――そんな思考に入り込みかけた私を引き戻したのもやはりスタンドのざわめきだった。今度は何かと双眼鏡を構えるとレースは第三コーナーに入り坂を下り始めている。それにも関わらず、馬群はアマツヒをガッチリと囲い込むようにしたまま乱れない。鈴を付けに行く馬が出てこなかったせいか、先頭を行くポンポコリンは足を残したまま順調に飛ばしており、一足先に坂を下り終えて第四コーナーへ入ろうとしている。

 アマツヒを囲むことに意識を取られて前への仕掛け所を失った、誰が見てもそう受け止める局面だ。

「そのまま、そのまま」

 冷静な杉本さんが身を乗り出してそう呟くほどの好機だった。本来なら一歩劣っているはずの安馬が有力馬同士が潰し合う隙をついて勝ち上がる、馬主にしてみればこれほど痛快な展開は無い。

 双眼鏡から視線を切ってゴール板に近い最上段の席を見上げると、明さんは腕を組んだまま表情を一つも変えていない。ポーカーフェイスなのか、それとも勝利に拘っていないのか、いずれにせよこの局面で焦らないのは尋常な胆力ではない。

 三度スタンドがざわめく。しかしこれまでのように重く低い声では無かった。観客の興奮の度合いを示すような甲高い歓声だった。

「動いた!」

 杉本さんの声を聞きながら双眼鏡を構えると、後方の馬群が下り坂で一斉に速度を上げて津波のように先頭へ押し寄せようとしている。

「内だ、内だ」

 杉本さんは祈る様に呟いている。後続は勢いが付き過ぎているからどうしても外に振られるだろう、その点スギノポンポコリンは速度をコントロールしているから埒沿いの最短コースを無理なく回れる。

 スギノポンポコリンがスムーズに最後の直線へと入った頃に、後続は外埒へ向かって突進するような勢いで第四コーナーを回っていた。

 もう追い付きようがない。大番狂わせだ。

「よしッ!」

 杉本さんは今度こそ遠慮せずに声を出しながら勢いよく立ち上がり、関係者席の視線が集まったのが解った。

 隣に座っていた私も何となくつられて立ち上がり、こちらへ向かって駆けてくる馬達の群れを肉眼で見る。

 アマツヒを囲い込んでいた隊列は既に影も無く崩れ去りそれぞれ鞭を打って追っている。抜け出してきそうな馬を見ると、集団の先頭に位置していた二番の子は地力もあってか最も差を詰めているけれど先頭に届くようには見えない――とその時、二番の馬の外側から、音も無く一頭の馬が抜けて行った。

「あっ」

 鞍上の総司さんが鞭を振るう事も無く、手綱を扱くようなアクションもないまま、当たり前のようにかわして行ったのを見ると、そんな声しか出なかった。

 先頭までおよそ三馬身まで詰め寄って残りは一ハロン。普通なら届かないとしたものだけれども、そのままの勢いで走り抜けると、ゴール板を過ぎる頃にはアマツヒがきっちり半馬身ほど差し切っていた。

「ああ、くそッ……惜しかった」

 本当に悔しそうに杉本さんは言う。それ程に、あと一歩で勝てそうなレースだったように見えた。

 ふと思い出して明さんを見ると、淡々とした表情で立ち上がって、どうやらカンカン場へと降りていくようだ。有紀さんは、先ほどまでの凍り付いたような表情は多少解れたのだろうか、心なしほっとしているようにも見える。そのまま眺めていると、明さんが動き出した事に気付いたらしい、少し慌てた風に動き出した。

「私達も行こう。負けたとはいえ大健闘だ、労ってあげないと」

 杉本さんはまだ興奮が冷めていないのだろう、少し急いた風にそう言った。

 レース直後の検量室前は入着した馬達が湯気を出しながらぐるぐると回っており、その周辺で厩舎関係者がごった返していて騒がしい。杉本さんは人混みの中でもすぐに調教師の先生を見つけると健闘を称えに駆け寄って行った。

 残された私は暇になり、裁決を終えた総司さんが出てこないだろうかなどと検量室の出入り口付近を見ていたら、アマツヒ君を管理している藤井調教師と話している明さんの姿が目に入った。だとすれば有紀さんも近くにいるのではないかと辺りを探してみると、やはり、人混みから少し離れた所で、壁に寄りかかるようにしながら脱鞍所の方へ向いて、どうやらアマツヒ君の事を眺めているようだった。

 アマツヒ君も有紀さんの存在には気付いているようで隙あらばその方へ行きたがるような素振りを見せるけれども、その度に担当の厩務員さんに阻まれてしまっている。

 そうして、ハムレットもかくやという見つめ合いを数分間も繰り広げてから口取りに移ろうかという段になった。けれど、引綱を付けられてもアマツヒ君は動き出そうとしない。有紀さんから引き離される事を嫌がっているかのようにその場で足を踏ん張ってしまっている。

 普段は気性が難しい子という訳でもないらしく、担当厩務員さんらしい引綱を持つ若い男性がこんなことは初めてだとぼやいているのが聞こえた。

 有紀さんは暫く様子を見守っていたけれども、動き出そうとしないアマツヒ君の様子に辺りが騒ぎ始めてしまったのを見てそうもいかなくなったのだろう、困った風な笑みを一人で浮かべてから自然な風に近付いて、歩みを促すように、幾分ぞんざいに、アマツヒ君のお尻を叩いた。

 アマツヒ君が有紀さんの方に向き直って顔を擦り付けるようにすると、綺麗なスーツを着ていたのにそんな事はまるで気にしない風に受け止め、空の掌を差し出してひとしきり舐めさせてから、もう一度お尻に回って手で叩く。

 するとどうした事か、聞かん坊をしていたアマツヒ君が途端に厩務員さんの先導に従って大人しくウィナーズサークルへと上がって行った。

 見事な手際だなあと感心していると、あまりにもじっと見つめ過ぎていたのだろうか、ついさっきの応接室以来二度目の失敗、視線がバッチリぶつかってしまった。

 今度こそ言い逃れをする訳にはいかず、自分から近付いて頭を下げた。

「すみません。馬の扱いがお上手だったので、見惚れてしまいました」

 正直に頭を下げると、有紀さんは口元を抑えて上品に微笑む。

「あの子の、アマツヒの母馬が、私の誕生日プレゼントだったんです。それであの子もずっと、生まれた頃から見てきたので」

 アマツヒ君との事を語る有紀さんの口調は本当に愛おしいものへ向ける時のそれで、女の自分から見てもクラッときてしまいそうなほどだった。

「口取りに入らなくて良いんですか?」

「あくまで馬主は父ですから。それに、私がのうのうと口取りなんかに入ってたらそれこそうちの会員さんにも申し訳が立ちませんし」

 サバサバと語ってみせたそれこそが、レース最中の彼女の凍り付いた表情の理由だったのかも知れない。

「私、茂尻千世っていいます。レラカムイという二歳馬の、一応馬主です」

 そんな風に自己紹介して右手を差し出すと、有紀さんは驚いた風に目を丸くしながらも優しい握手を返してくれた。

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