茂尻ちせ【ちゅぷ③】

 美浦村に戻ってきたのは月曜日のお昼過ぎだった。何をおいてもまずは厩舎へ直行して馬房を覗き、ほんの三日ぶりのレラと再会して顔をぐりぐりに撫で回してあげたり、掌をべろべろに舐め回されたりしてから、ようやくほっと息を吐けた。

 ふと、月曜だから来客も無いだろうと思うと、今日の予定はレラと昼寝することに決まった。そうなれば、まずは持って来た京都土産の八つ橋を冷蔵庫に入れてしまわなければいけない。

 早速厩舎へ向かうと、誰もいないはずの休憩室には大越さんがいた。七、八人は座れる大型のダイニングテーブルに一人ポツンと陣取って、真剣な表情でテレビモニターを睨んでいる。見覚えのあるレース映像はつい昨日のエリザベス女王杯のようだ。

「おお、お帰り。で、京都はどうだった?」

 私に気が付くとリモコンで画面を止めてから顔をこちらに向ける。

「ただいま。お陰様で楽しかったです、ありがとうございました」

「総司とは話せたか?」

「べつに、普通ですけど」

「連絡先とかは聞けたか?」

「まあ、それは……っていうか、何で大越さんにそんな事言わなきゃいけないんですか」

 ついさっきまで携帯でチャットしていたのも事実だったけれど、大越さんに教えるのは何となく恥ずかしい。

 大越さんは身体ごとこちらに向き直ると、腕を組んで言う。

「お前が出て行ってからサブに聞いたんだけど、総司って今まで彼女出来た事が無いらしい。競馬オタクが過ぎてソッチ方面まるで興味無さそうなんだと」

「だから何?」

「お前から押せ押せで行けば案外行けるって話だ。童貞は攻めて来るタイプの女に滅法弱い、男には必ずそういう時期がある」

 あからさまにニヤついていて、ムカッとする顔だった。

「ほんと最低! セクハラ!」

 背中に手加減無しの張り手を叩き付けたら、バチーンと物凄い音がして、私の掌も痛くなった。けれども悶絶している大越さんを見て溜飲が下がったので良しとする。

 さておき、冷蔵庫に八つ橋を入れようとすると、ダイニングテーブルにうずくまったおじさんから呻くような声が聞こえた。

「何買ってきたの」

「八つ橋です、大越さんの分はありませんけどね」

「冷蔵庫入れない方が良いぞ、皮が固くなるから」

「え、そうなんですか?」

 振り向くと、おじさんは顔を歪めながら背中をさすっている。

「おーいてぇ、少しは手加減しろよ……で、八つ橋。これから客来るから出してやってくんない?」

「お客さんって、今日月曜ですよ?」

「今週は記者が張り付いてまともに話出来ないだろうから、今日頼んだんだよ」

「誰ですか?」

「蓬田、あとテキも来る。東スポ杯とかの打ち合わせだ」

「何時から?」

「二時くらいって約束だから、もうじき来るんじゃねえかな」

 壁掛け時計を見上げると、今の時間は一時二十五分。臼田先生はギリギリとしても蓬田さんはもうそろそろ来るかも知れない。

「他の予定あるなら大丈夫だぞ。レースプランの大枠立てるだけだから、内容は後で教える」

 レラとのお昼寝がお預けになりそうだと思うと不満が表情に出ていたらしい。今さっき特大のモミジをお見舞いした相手から気遣われてしまうと、どうにもバツが悪かった。

「べつに、大丈夫です。レラと昼寝でもしようと思ってただけなので」

「してくりゃ良いじゃん」

「大丈夫です。昼寝はまた今度出来るし、私だけ仲間外れになるのヤですもん」

 机の上を見ると大越さんは自分の湯飲みでお茶を飲んでいるらしい。流しに置きっぱなしになっている急須にはすっかり萎びた茶葉が入ったままになっている。

「これ、何回入れました?」

「朝から替えてないから四回位か、もう替えた方が良いぞ……にしても、仲間外れって久々に聞いたわ」

 モミジの事なんて忘れた風に、アハハと呑気に笑いながらまた映像を再生し始めている。

「今日、朝からずっといるんですか?」

「当番引き受けたからな。家にいてもやる事無いし、乗り鞍も無いし、ついでに言うならお前行かせたのも俺だし」

 月曜の当番は交代制だけど、積極的にやりたがる人はいない。何となく押し付け合いみたいな雰囲気があって、やり取りを見ているだけでやるせなくなるから、自然と大部分を私が受け持つようにしてしまった。

 本当は、馬の世話をすることなんてやりたいとかやりたくないとか以前の話だと思っている。でも、トレセンに来て、他のスタッフさん達の生活のことを考えたら、ここは牧場と違う世界なのだと割り切るしかなかった。

「入れ替えるけど、呑みます?」

「あー、頼む」

 大越さんは画面を眺めたままそんな風に言って、私は流しでお茶っ葉を入れ替える。そうしていたら、ふと、大越さんにトレセンで暮らす事を反対された時のことを思い出して、あれはこういう気持ちのことを言っていたのかも知れない、なんて思った。


 蓬田さんが用意してくれた、東スポ杯に登録している各馬の新馬戦と一週前追い切りをまとめた映像を眺めながらみんなで八つ橋をつまむ。

 府中一八〇〇は枠順も気にする必要は無く馬の力で勝負出来るだろう。登録他馬の情報では有力馬数頭が回避したらしくレラの一強と見られているらしい。と、そんな風に言い合っているうちに打ち合わせはとんとん拍子で進み、小一時間程度かけて注意すべき数頭の馬をピックアップした程度で、細かい部分は大越さんにお任せという何とも緩いオーダーで固まった。

「案外早く終わりましたね」

 若干拍子抜けして、隣に座っていた大越さんに正直な感想を漏らすと、

「この後があるからな」

当然のように返される。

「後って、ホープフルの話ですか?」

「ホープフルもそうだし、下手すりゃ引退するまでの付き合いになる」

 モニターに映し出された映像は昨日の京都競馬場。オッズも、展開も、勝ち馬のことも、知りすぎる程に知っているレースだ。

『――続きましては第五レース、芝一八〇〇メートル、一〇頭立ての新馬戦になります。断然の一番人気は、当然とするべきなのでしょうか、四番アマツヒですが、単勝で1・1倍となりました。まずはこの人気について、率直にいかがでしょうか、解説はおなじみ競馬クロニクルの遠山さんです。』

『――そうですねえ、こんなにかぶるものかと驚きましたかね。馬体は四六〇程度で特に目立った所もありませんが、血統的な背景は勿論として、陣営から漏れてくる話でデビュー前から騒がれていますからね、ファンの皆さんが事情に詳しいという事でしょう』

『実際に走りをご覧になった事は』

『調教映像ですが、走る馬です。順当に行けば間違いなく勝つでしょう』

『なるほど、ありがとうございました……さあ、奇数番各馬がゲートに収まりましてこれから偶数番へ進みます。なお、単勝二番人気は二番のグローブタイタスで9・4倍、三番人気は八番のペニージョージで13・7倍です――』

 スタート前の専門チャンネルの解説を聞くと、場内の異様な雰囲気にも納得できるような気がした。テレビ解説の記者が大っぴらにこれだけの評価をするのだから、あの程度の注目はあって当然だったのだろう。

「このレース、どう見た」

「展開は悪くなかったと思います。馬の力で言えば前から行ったクリスと明田さん、後ろからの邦彦さんとサブ辺りですけど、巧いこと挟んでます。全員でアマツヒを負かす乗り方です」

 尋ねた臼田先生も答えた大越さんも視線は画面から外そうとせずに、いつになく真剣な表情だ。

「ササクニとクリスも宮代の馬だったよな?」

 その質問は情報役として同席を許された蓬田さんへ向けられたものだったのだろう。慣れた私でも思わず寒気を覚えるような迫力で、蓬田さんも怒られている訳では無いのに声を向けられた途端に姿勢を正していた。

「ああ、えっと……はい、そうです。両馬宮代ファームの生産で、ダイナースホースクラブの所有です」

「名義なんざどうだっていい、要するに宮代の集金箱って事だろう」

 いかにも面白くなさそうに、臼田先生は吐き捨てた。

 ダイナースは有紀さんが代表をしている宮代グループ直系のホースクラブでありつまりは臼田厩舎と犬猿の仲ということになるから言いたくなる気持ちも解るけど、正直なところ、私は複雑な気持ちだった。

 クラブ馬主とは、馬の所有権を細かく分けて大勢の出資者を募る制度であり、株取引のようなものだ。だから、先生にしてみればクラブ馬主さんは株を買うような感覚で馬に投資している人達という事になるのかも知れない。その様子をいかにも喧嘩腰に表現すると【宮代の集金箱】となるのだろう。

 宮代グループが生産した馬の中でも特に優秀な馬は、セリに出す前に、ダイナースのような直系ホースクラブへと優先的に回される事があるらしい。そうした馬は当然よく走るから大きなレースで沢山勝つし、それによってクラブの評判も上がる。その上、馬一頭を所有する事を考えれば気軽な金額で行える事もあって、様々な方面から、今までは競馬に興味が無かったような人であっても、出資者が幅広く集まってくれる。

 その結果、牧場にお金が生まれる。

 臼田先生は悪し様に言うけれども、ホースクラブという仕組みで流れてきたお金の力は、生産者なら誰だって感謝している類のものなのだ。

「宮代系列のクラブで言うと他にもシュラインホースクラブのゴッドフリートがそうです、鞍上は沢辺騎手。それから宮代ファームの生産馬という事で言えばもう一頭、村山騎手のアンクルサム、こちらは個人所有です」

「だが、レースを見る限りは協調している風でも無いという事だな?」

 臼田先生は大越さんに視線を向けながら、念を押すような問い方だ。

 大越さんは画面を睨んだまま頷いた。

「少なくともこのレースのアマツヒは徹底的にマークされています。宮代系列の馬、クラブや生産者繋がりで何らかの意思が働けばまず有り得ない展開です」

 レースの映像は進み集団が淀の坂を上り始めている。映像は一番人気のアマツヒを中心に据え先頭から最後方がきちんと収まる様に映している。アマツヒは前を行くスギノポンポコリンから大きく引き離された二番手集団を追走している……というよりも、ギチギチに囲まれて身動きが取れなくなってしまっている。こうしてより鮮明な映像を見ると、場内が騒然としていたのも頷ける程のマーク具合だ。

「解せんな」

 臼田先生は小さく呟くと、灰皿を手元に寄せながら煙草に火を点けた。

「宮代本人が個人所有するくらいイレ込んでいる馬なんだろう。重賞ならともかく、新馬戦からこんなにバチバチやらかす理由がどこにある」

「別のレースを使えば良いのに、って事ですよね」

 仮に私が明さんや有紀さんの立場だったら、自分の馬を敢えて同じレースに出そうとはしないはずだ。どちらも良い馬で自信があるならなおさら、別々のレースに出して両方とも勝つ事を期待する。それが普通だ。

「そうだ。尤も、宮代の生産馬が他に一頭も出ないレースを探すなど今の日本競馬ではまず不可能な話ではあるからな。そこはお前さんと違う話だ」

「どうせウチは外様ですよ」

「外様だからウチで預かったんだ、宮代の馬なんざ俺は絶対に受け入れんよ」

 臼田先生は豪快に笑いながら言ってみせるけれども、この話を関係者が聞けば、百人中百人が、干されているのは臼田先生だと言うだろう。今の競馬界で生き残る方法なんて【いかにして宮代の馬と繋がりを作るか】が全て、総一郎先生や杉本さんが話していたことも結局はそれだ。

「その事についてなんですが」

 ふと、蓬田さんは発言を求めるように挙手をした。臼田先生が顎でしゃくるようにして促す。

「このレース展開についてなんですが、どうも宮代さんご本人が意図していたんじゃないかって、そんな噂があります」

 蓬田さんが言うや否やのタイミングで、よどみなく流れていたレースの映像が突如一時停止した。リモコンを手にしているのは大越さんだ。

「話の出所は?」

 よほど気になったのだろうか、蓬田さんの方に身体ごと向いている。

「トラックマンのタナトラさんです」

「タナトラって……確かか?」

「はい、本人が話した場に僕も居合わせましたから、間違いありません」

 大越さんの反応は驚きに満ちていて、答える蓬田さんもスクープを語る記者そのものと言った自信あり気な声色、臼田先生も声には出さないけれども眉根を寄せて思考を巡らせているようだ。

「タナトラさんって、誰ですか?」

 唯一人理解出来ていない私は、おずおずしながら、一番聞き易い蓬田さんに小声で尋ねた。

「鎬騎手やクリストファー騎手のエージェントを務めているトラックマンの人で……要は、宮代グループの内情に一番詳しい関係者ですね」

「おお、それならかなり信用できる情報ですね」

 ようやく話の流れを理解出来た喜びから軽い調子で言うと、

「しかし、そんな迂闊な発言を漏らす人間でも無いはずだが」

無言で考え込んでいた臼田先生が横からバッサリ切り捨てられる。

 提供した情報を疑われた形の蓬田さんは、けれども気後れする事も無かった。

「ですから、ここからが本題ですよ」

 なおも自信満々に言うと、蓬田さんは鞄からタブレットを取り出した。

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