茂尻ちせ【ちゅぷ④】

 タブレットにはエクセルのシートが表示されており、有力と目される二歳馬の所属厩舎や主戦騎手等の情報が一覧になっていた。中でも特に目を引いたのは表のいちばん右端の項目で、今後の出走予定が調べ上げられているようだ。

「先生と大越さんから言われた馬を赤、自分の方で気になっている馬を黄色で色分けしてあります」

 心なしドヤ顔で胸を張る蓬田さんから、臼田先生が無言のままタブレットを毟り取る。

「すまんな、助かったよ」

 いつも通りの臼田先生の行動を詫びるように、大越さんが拝み手をしながら言うと、蓬田さんは却って恐縮した風に勢いよく首を振った。

「色んな人と繋がり作れましたから、お礼を言うのはこちらですよ。僕からもレラカムイの情報を出させて貰えて、そのおかげです」

「構わん、話して良い事しか教えてない」

 臼田先生はその一言だけだったけれど、蓬田さんはようやく得られた反応に安堵したのか、笑顔で返している。

 その様子を見た大越さんは落ち着いた風に息を一つ置き、音を立ててお茶をすすった。

「で……一応聞いておくが、信頼して良いんだな?」

「全て想定班の担当者から直接聞いています」

「この数じゃ大変だったろ、無理させたな」

「それが、そうでも無かったんですよ。レラカムイの情報を知りたいっていう理由であちらから接触してきたケースも多くて」

「レラの?」

「来年のクラシック有力候補、少なくともアマツヒとの二強ムードは全員一致するところで所属は謎多き臼田厩舎ですからね。情報価値が高騰してます」

 謎多き臼田厩舎、と蓬田さんが評した所で私はプッと吹き出して大越さんは頭を抱えた。意図的に情報を隠している訳ではないが、主に臼田先生の性格上の問題から担当記者さんも深入りしてこないような厩舎だから情報が出て行かないというだけなのだ。要するに、競馬サークルから浮いてしまっているが故の謎。

「蓬田さん的には良かったですね、隙間産業」

 茶化すように言うと、大越さんはそれしかできない風な呆れ笑い、蓬田さんは照れた風に頭を掻いて、当の臼田先生は気付かないフリをしてタブレットと延々にらめっこを続けておりこちらの話に入ってくる素振りはない。

「でも、他馬の次走調べてどうするんですか? 確かに参考にはなりますけど、レラのローテを変えるつもりも無いんでしょう?」

「相手の動きが見えれば多少の準備が出来るだろ。宮代の馬が何頭出て来るか、とかな」

「大越さん、騎手っぽい事も言えるんですね」

「……ともかく、周りの動きを見てから当日までの動きや馬の作り方、レースの組み立てを考える。競馬ってのは一日でやるもんじゃねえんだよ」

 さっきまでの冴えないおじさんは影を潜めて、競馬場で見た、ジョッキーの大越さんがそこにいた。レラに乗って貰える事を有難く思えるような説得力を持った言葉だ。

 そうして話をしているうちに、タブレットを睨んでいた臼田先生がようやく顔を上げた。視線はまっすぐに蓬田さんへ向けられている。

「さっきの件、タナトラは何と言ったんだ」

「ここでアマツヒを負かすような事があれば、今後は勝った厩舎をグループの第一選択肢として扱うし、勝利騎手にアマツヒの主戦を任せる。そんなお触れを出していたと」

「つまり、自分の馬に懸賞金をかけて負かしてみせろって煽ったってのか?」

 臼田先生からの問いに蓬田さんはハッキリと頷いた。

 大越さんも、滅多に狼狽えない臼田先生ですらこの時ばかりは戸惑っている様子がありありと解る。今この場で唯一冷静なのは、場内で有紀さんの発言を直接聞いた私だけかも知れなかった。

「ここからは推測ですが、クラブ会員からの雑音を黙らせたかったんじゃないでしょうか」

「自分の牧場の客をか?」

「あれだけの素質馬をクラブへ回さずに個人で所有したんですから、会員からはかなりの不満の声が出ているはずです。これから先も勝ち続ければ声は更に大きくなる」

「集金箱の弊害だな。口出しだけがやたらに増えて馬にとっての得が無い」

「宮代ファームのように巨大な事業体では、金の回りが一度滞るだけで途方も無い損失が出ます。【クラブに出てくる馬は所詮宮代明のお眼鏡に適わなかった馬だ】なんて評判が囁かれる事になれば各所への影響は甚大です」

「だからこそ新馬戦の時点で格の違いを見せつけたかった、と?」

「批判に晒される事は既に前提として、早いうちに対抗意識を萎えさせた方がレースを使い分けるにもやり易いという考えでしょう」

 推測と断りを入れていたけれど、それなりの確証があって話しているのかも知れない。蓬田さんの声からは確固とした自信を感じられる。

 蓬田さんの分析が終わると、それまでじっと考え込んでいた大越さんが口を開いた。

「使い分けの件はさておくとしても、宮代明は自分の牧場が傾くリスクを承知の上で、たかが一頭の馬を個人の所有にした……そういうことになるよな?」

 蓬田さんは大越さんの言葉に深く頷いてから、こう問い返した。

「宮代の育成ファームに新設された屋内コースは御存知ですか?」

「噂程度にはな。屋根付きで、芝のトラックで傾斜もあるとか」

「ただの屋根付きじゃありませんよ、ハウス栽培も真っ青な水準で二十四時間温度管理された巨大な施設です。一周一〇〇〇メートルの楕円形コース、坂の傾斜は最大で三%、芝はペレニアルライグラス」

「ペレ……何だって?」

「要するに洋芝の事です、ロンシャンの芝を分析して作ったと」

 ロンシャンという言葉を聞いて、私の頭に一つのレースが思い浮かぶ。それはきっと大越さんも、臼田先生も同じだったろう。蓬田さんはそんな私たちの様子を見て肯定するようにもう一度頷いた。

「つまり、理由は凱旋門なんですよ」

 誰だろう、小さく息を吐く音がして、それを掻き消すように臼田先生が一際大きく煙草の煙を吐き出してから、

「このマークは覚悟の証明ということか」

呟くように、そう言った。心なし普段より柔らかい声色に聞こえた。

「賞金の事を考えれば国内で走った方が確実に稼げるのだから、わざわざ海外で走らせるというプランは投資家にとってリスクでしかありません。それでも行くなら説得する事になりますが、どうしても行動は遅れます。本気で勝ちに行く為には削るべき労力です」

 蓬田さんは、画面に映る停止したレース映像を指しながら言い、全員の視線がそちらに向くと、

「とはいえ、個人的にはそれほど強いとも思えないんですけどね、正直な話」

敢えてそうしている風な、軽い口調でそう続けた。場を盛り上げようとしたのかも知れない。

 ふと、画面の中でレースが動き出した。リモコンを手にしていた大越さんを見ると険しい表情をしている。

「何故そう思う?」

 大越さんは蓬田さんに尋ねた。画面の中のアマツヒ君は囲まれたまま下りに入ると、徐々に解れ始めた馬混みからするりと抜け出し、四角を出る頃には前を逃げるスギノポンポコリンをはっきり見据える位置につけていた。

 改めて脚色を見るとアマツヒからしてみればキッチリ差し切れる距離だったことが良く解る。

 鞍上の鎬さんは何かする素振りも見せない。

「時計も着差も大したことありませんからね。不利があったとは言えどうにか半馬身差じゃ、どう考えたってレラカムイの方が格上ですよ」

 蓬田さんの感想は、現地で見た時の私とまるで同じものだった。

 けれども今、改めて見て、そうではない事に気付く。

 アマツヒ君は、あまりにも淡々と走っていた。スギノポンポコリンは必死に走っているのに、入れ替わったアマツヒ君との半馬身差は一向に縮まる風ではない。鎬さんは何もしていないのに、まるで相手の速度に合わせて走っているみたいに距離が変わらない。惜しいように見えても、これから先何千メートル走っても変わらない、そんな半馬身差なのだ。

「時計や着差に意味を求めるのは人間だけだ、馬は陸上選手じゃないからな」

 大越さんは冷めた風に言う。

 そうして、何の盛り上がりも無いまま最後の直線は過ぎて行きアマツヒ君はゴール板を駆け抜けた。

 ゴールを過ぎて、必死になって追いすがった後続馬は一様に疲れ切った様子であるのに、アマツヒ君は平然としている。鞍上の鎬さんも、結局最後まで何もしていなかったから、アマツヒ君にとって今のレースはレースでも何でもなかったのかも知れない。

「すみません、どういう意味でしょうか?」

 大越さんのナゾナゾみたいな発言に、蓬田さんははてなマークを浮かべた風な表情で問い返している。

 私は、蓬田さんが解らない事なのに珍しく解ってしまった。

「この程度でも勝てるから、この程度で走った」

 意図せず漏れた言葉に、大越さんがこちらを見た。

「少しは解るようになってきたじゃん」

 バカにした口調はともかく、一応褒めているらしい。

「レラは速いがコイツは強い。どっちが勝つかは、実際にレースしてみないと解らないってのが本音かな」

 大越さんはそんな風に言った。今までの大越さんなら勝つと即座に言い切りそうなものなのに、湿気てしまっている。

「コイツの次走、ホープフルなんだろ」

 蓬田さんのタブレットを触りながら言う。

「まずは今週勝ってからの話ですけど、ローテ変える気は無いんですよね?」

 当然、質問の先は私ではなく臼田先生だ。

「変えん、どうせいずれは当たる」

 臼田先生も強敵だとは認識しているのだろう。普段ならば鉄拳が飛び出しても不思議ではなかった。

「自信、無いですか?」

 私は何となく尋ねた。誰よりもレラの事を信頼している大越さんがここまで弱気になる理由が純粋に気になったのだ。

 大越さんは、私の問いにちょっと言葉に詰まった風になったけれども、お茶を一口含んでから、ゆっくりと答えた。

「俺じゃなくて、レラの話だよ」

「レラの自信が足りない?」

 大越さんは笑いながら首を振る。

「アイツは加減が出来ない、絶対に勝とうとするから、相手が強ければ強い程アイツも速くなっちまう。二歳のG1なんて無理してまで狙うもんじゃないと思ってさ」

 いじくっていたタブレットを蓬田さんに返しながら、

「あんま厳しいレースさせたくねえんだよ」

そんな風に呟いた。

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