茂尻ちせ【ちゅぷ⑤・終】
――来年のクラシックを目指す陣営にとって、東スポ杯の結果は二歳重賞の中でも高く評価される。各地の二歳ステークスに参戦した馬が二歳戦線の締めくくりとして選ぶ場合にも、私達のようにここから二歳G1へ向かう場合にも、どちらの陣営にとっても求められる条件を満たし易く、それだけ素質馬が多く集まる為だろう。過去の結果を見てもこの舞台で善戦した馬が後にG1を獲得するケースは多々あり、正しく日本競馬の登竜門レースに違いない――
パドックをぼんやり眺めていたら突然肩に手を置かれた。
ハッとして振り返ると、私の反応に驚いた風な有紀さんがいた。
「ごめんなさい、驚かせちゃったかしら」
有紀さんは今日もビシッとしたパンツスタイルで、髪はシンプルなアップにまとめているけれど、よく見ると編み込んでいるのを銀色のバレッタで止めていたりして、格好いいお洒落だ。
「どうかした?」
「いえ、お洒落だなあって思って」
「え、何、急に」
「髪、こういうのって難しそう」
言いながら人さし指で触れてみると、スポンジみたいにふわふわしている。
「これ? 寝癖ごまかしてるだけだよ」
「えー、絶対嘘だ」
「本当だって、今度やり方教えてあげる。一回覚えれば髪濡らすより楽だから」
「でも私こういうの持ってないもん」
バレッタをツンツンしながら言うと、有紀さんはちょっと困った風に笑ってから、ふと何かを思いついたような表情になった。そして一呼吸の間を置いてから、
「今度、一緒に買い物行かない?」
そんな提案をしてきた。
「良いんですか?」
「うん。そっちさえ良ければ」
「こういうの、有紀さんはどこで買うんですか?」
「これは、この前鞍を頼みに行った時かな」
「クラって、馬の?」
「そ、鞍。その時はついでに他の道具も見たかったらお店に行ったの」
「馬具のお店で売ってるんですか、こういうの」
「服飾もやってるところだから」
「へえ……そういうお店なら私も行き易いかも――」
「――駄目、あそこじゃ普通の子が使うようなの売ってないもん」
何となく零れた程度の感想だったのに、有紀さんが即座に却下してきたので驚いた。その時の有紀さんは、ちょっと早口で、語尾も何となく可愛くなっていたので、ちらりと表情を窺うと、照れ臭そうに俯き加減になりながら、
「こういう生活だったから、普通の子が行くようなお店を覗く機会がなかなかなくて……この年になって今更一人で行くのも、ちょっとね」
そんな風にぼやく有紀さんは、大手ホースクラブの代表をやっているなんてとても思えないような、そこら辺の女子大生みたいだった。
「だからお願い、今度一緒に付き合って!」
遠慮がちに手を合わせてお願いしてくる有紀さんを見ていると頭がぼんやり火照ってしまい、私の首は壊れた人形みたいにカクカク縦に揺れるのだった。
そんなこんなでぼんやりしたまま出走直前のレラ達の所へ顔を出すと、どうやら控室から見ていたらしい、大越さんからこれみよがしに呆れた風な溜息を吐かれてしまった。
「ダイナースの馬、二番人気だぞ」
ステッキの柄の部分でオッズ板を指すと、そのまま私の頭の上に持ってきてぽこんと落とすように置く。
「イヤミなヤツだな」
「そういう人じゃないですよ」
「お前のことだバカ。同じレースに出る相手と余裕綽々世間話なんざ、イヤミだと思われるぞ」
言われて少し考えたけれども、声を掛けてくれたの有紀さんからだし、私達の間にそういう感覚は少しも無い。
「そういうのと違います、普通の友達です」
頭の上に置かれたままのステッキを払いのけながら言い返すと、
「へえ……人間の友達が出来たのか」
大越さんは目を丸くして、素直に喜んでいる風なのがまた腹立たしい。
ムカッとしたので舌をべーっと出してやっていたら、
「そろそろいい加減にしておけ」
七割くらい怒った時の臼田先生の低い声がしたのでそそくさとおしまいにする。
臼田先生の手を借りて馬上に上がる大越さんを横目で見ながら、レラの鼻に応援のキスをする。
「勝ったら俺にもしてくれよ」
自分のほっぺを指しながら、大越さんはからかうように言う。
「私がチューするのはレラだけだもんね」
額をうりうり撫でながらレラに語り掛けたら、レラも頷いたような気がした。
見送りを終えて観戦席へと戻り、有紀さんと隣に座って発走を待ちながら話をしていたら、当然のように馬の話題になっていた。牧草を取る採草地の話や放牧地の面積の話、光熱水費や人件費といった運転資金についてや種馬が一年で稼ぐ金額にセリの裏話など、うちの牧場とはまるで別世界のような話を聞くのは少し悔しい気もしたけれど、それ以上に興奮する事だった。
「――今はそんなだけど、昔は何回も潰れかけてたんですって」
話の中で、有紀さんがそんな事を言った。
「宮代ファームが?」
「当時はファームなんて横文字で名乗ってなかったらしいけどね……父さんの代になるまでは宮代牧場って名前で、ひいおじいさんと、おじいちゃんとおばあちゃんと、まだ二十歳前の父さんと、身内だけでやってるような牧場だったらしいわ。繁殖も十頭ちょっとで、預託と仔分けばっかりだったって」
意外な話の展開に驚いたけれど、語られた内容はこれまでの話よりも具体的にイメージ出来た。
「うちの牧場みたい」
自然と漏れた声に、有紀さんは小さく頷く。
「今でこそ大袈裟に言って貰えるけど、元々そういう家系なの。父さんなんていまだに絆創膏の事サビオって言うし」
「そんな事言っても、サビオはサビオしょや」
別世界の人であるように思っていた有紀さんから不意打ちのように懐かしい言葉が出てくるとだらしなく頬が緩んでしまった。
「でも意外です、宮代さんの牧場は昔からそういう家なんだと思ってた」
「ひいおじいさんが死んでから、持っていた土地がたまたま高く売れたとかでまとまったお金が入ったらしいんだけど、それを元手に父さんが海外で馬喰の修行をしてきたんですって。人を雇ったのも、種馬や自分の繁殖を持ち始めたのも、その時期から」
「馬喰の修行、ですか」
「向こうの牧場で下働きして馬のことを勉強しながら、セリで馬を買い付ける。買った馬は向こうで走らせて、現役を終えたら日本に連れ帰って種馬にする」
「それ、ひょっとして」
有紀さんはゆっくりと頷いた。
「そう。その中の一頭がラトナの、アマツヒの母のひいおじいさんにあたる馬」
その時、馬の名を呼ぶ有紀さんの優しい横顔を見て、ふと、大越さんや臼田先生の語っていた言葉を思い出した。あの二人は宮代さんがさながら人の心を持たない大悪党であるかのように語るけども、もしかしたらそうではないかも知れない。アマツヒ君を自分の手元に残した事も、有紀さんにプレゼントした母馬の、その祖先に自分が見出した馬の血統を伝えている一頭として、言葉に出来ないような深い想いを抱いているからかも知れない。そんな事を思った。
スターターが台に上がり、ファンファーレが鳴る。
「頑張れ」
何となく私は言った。
「それ、良いね」
有紀さんはそんな風に微笑んで、頑張れ、と真似るように繰り返した。
十二頭というやや少ない出走となったレースは三番人気の馬が果敢な逃げに打って出た。圧倒的一番人気のレラを負かすには前目で行くしかないと踏んでいたのか、他に数頭の追走が出た事もあり前半一〇〇〇を五八秒台というややハイペースの進行となって直線だけで決まる雰囲気ではなくなった。
けれど大越さんとレラは焦る事なく最後方から淡々と進み、第三コーナーを過ぎたあたりから馬なりで外目を回って進出を開始、第四コーナーを回り切る頃には先頭からおよそ六馬身の五番手まで押し上げてきていた。
前方の進路は大きく空いているし、脚色は傍目にも桁違い。
「これは、負けね」
直線を丸々残しているにも関わらず有紀さんが苦笑交じりにぼやく程の勢いでここから伸びるだろうと誰しもが思った――けれども、そうはならなかった。
直線を向いたその時、大越さんのステッキがレラの左前に触れた。少なくとも勢いを付けさせるために打つような鞭ではなく、強いて言うなら手前を替えさせる為に使うような鞭だ。
そして、その鞭が合図だった。それまでは天井知らずの放物線のような勢いで加速するだろうと見えたレラの脚運びが突如として乱れ、後方から来た馬にかわされてしまうような状況にまでなったのだ。
その異様な光景にスタンドがどよめき、私も心臓がどうにかなりそうだった。これまでなら考えられないような、陸の上で溺れているようなフォームの乱れ方だ。
何か大越さんと呼吸が合わない事が起きてしまったのか、それともレースで初めて鞭を打たれたせいで混乱してしまったのだろうか、それとも、もしかしたら――故障
どうして、どうして、どうして、どうして。
真っ白になった頭の中が【どうして】一色で塗り潰されてパニックになっていると、有紀さんから肩を揺すられた。
「落ち着きなさい。ほら、よく見て」
レースは坂の中腹まで進みレラは先頭から八馬身程離されて七番手になっていたけれども、フォームはすっかり元通りに立て直されている。
大きな故障でなかった事はほぼ間違いないだろう。まずはほっと息を吐いてから、気が付けば組んでいた指を解いて、シートに脱力して沈み込む。
「大丈夫?」
心配そうな表情で声を掛けてくれる有紀さんに頷きながら、動悸を落ち着かせるために目を閉じて深く息を吸う。
二度、深く呼吸をしてから目を開き、レラが無事に走っている事を確認してから、もう一度目を閉じた。
そうして深呼吸を繰り返しているうちに一際大きな歓声が上がり、落ち着きかけた心臓がまた嫌な風に跳ねて、慌てて目を開けるとレースが終わったようだった。
レラの事を探すと、もうコーナー付近まで駆け抜けていたけれど、その後の動きも特におかしな所は無いようだった。
大越さんも下馬する様子は無い、大丈夫だ――自分自身に言い聞かせるようにしていたら、今度は観戦席の周囲から拍手が起こった。
次は何だろうと視線を彷徨わせていたら、有紀さんがそっと背中をさすりながら声をかけてくれた。
「落ち着いたら下に降りましょう。レラカムイ、勝ったのよ」
全部解っているような有紀さんの手はとても温かくて、溢れ出るものを堪え切れなくなった私は、情けない声を漏らしながら泣いた。周囲の馬主さん達は嬉し涙だと思ったのかも知れない、拍手が一際大きくなる。
その時私は、一瞬、でも確かに、競馬や他の馬主さん達のことが心の底から怖くなった。
有紀さんはエレベーターに一緒に乗って、その間ずっと背中をさすりながら付き添ってくれた。
「騎手、替えなさい」
涙を袖で拭っていたら、ハンカチを差し出されて、そう言われた。
「大きな事故にはならなかったけど、少なくとも今日のあれは大越さんの騎乗から来たアクシデントだもの。不安に思ったのなら貴方には騎手を替える権利がある」
口から出る言葉は淡々としていたけれども、その手が変わらずに温かいままだったから優しさは伝わる。
「大事な子なんでしょう? レラカムイの事を守れるのは臼田さんや大越さんなんかじゃない、貴方だけよ」
私は言葉を返す事が出来なくて、ただ頷いて返した。
「無理に言うつもりは無いけど、厩舎も騎手も、本当に変えたくなったら相談しにきて。アマツヒの事は別にして、貴方には必ず協力するから」
私はエトの事を思い出していた。エトはどうしてあんな遺言を残したのだろうか。エトの命は幸せなものだったのだろうか。考えても解らない事が頭の中で延々わいてきて、ぐるぐる渦を巻いていた。
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