茂尻ちせ【ちゅぷ①】

 その時、天上へと続く門が開かれたかのように、空を覆っていた鈍色の雨雲が二つに割れ、切れ間から視界が白むほどの陽光が射し込んで来た。漣のようなざわめきが一瞬でパドックを撫であげると、その余韻で生まれた奇妙な静寂は周回する馬蹄のリズムをより明瞭に響かせた。

 ふと、ヨーロッパの古い絵画の一幕が脳裏を過ぎる。

 薄暗い聖堂、祭壇の上で冠を掲げる司祭、一筋の光明が彼の者の未来を暗示するような輝かしい道となってまっすぐに伸び、今正に冠を授けられんとする英雄へと降り注ぐ。そんな、荘厳な戴冠式の風景。

 追い切りを見て十分以上の素質馬である事は知っていたはずが、競馬場ではそれすら比較にならない雰囲気を放っている。自身の抱いた想像を大袈裟だと笑うことも忘れてしまうほどに、その馬が醸し出す圧倒的なまでの風格にただ魅入らされていた。

 私だけではなかった。たかだか昼休み明けの平場レースであるはずが、周囲の空気は異様なまでに変質していた。パドックの内と外、関係者と観客の間にあるはずの境界さえも失われ、場にいる全ての人間が、例外なく、ただ一頭の馬によって支配されていた。

「三冠か」

 誰の声かは解らない。肉厚の男性の、呆けたような呟きだった。一呼吸の間を空けてから言葉の意味が伝わり、私はようやく意識を取り戻した。

 ――相手が誰であっても、レラが勝つ。

 呆けていた自身に言い聞かせるようにしながら、じっとアマツヒ君の様子を観察していると、隣に立っていた杉本さんが余裕を感じさせる声で言った。

「少しは他の馬も見てあげてくれ、彼らにとっても檜舞台だ」

 そうして、前触れなく私の肩に手を置くと軽くもみほぐすようにしてくる。

 突然の事態に何事かと戸惑っていると、

「あ、これセクハラか」

と少し弱弱しい声になって独り言のように呟いたので、笑わされてしまった。

 そうして私を笑わせてから、杉本さんは落ち着いた口調に戻り、言い聞かせるように、ゆっくりと続ける。

「少しで良いから、まずは肩の力を抜きなさい。力が入り過ぎれば見えるものも見えなくなって勝ちの目も見落とす」

 道楽と公言している馬主の立場というより、むしろ一線を知る企業人としての教えであったのかも知れない。百戦錬磨といった雰囲気を帯びた杉本さんのその言葉は聞いているだけで自信が沸いてくるようだった。

「ありがとうございます」

「セクハラの件はチャラで頼むよ」

 変わらない口調でそんな風に言われてしまうと恐縮することもできなかった

「他に目につく馬はいるかい?」

 パドックをざっと見渡して、走りそうな子を見繕って答える。

「パッと見で言うと二番と八番ですかね、三番の子も走りそうな気がします」

「六番はどうだろうか」

「良い子でしょうけど、その三頭と比べると少し見劣りするって感じですかね……予想は素人ですからアテになりませんけど」

「いや、流石の相馬眼だよ。二と八は宮代系列のクラブ馬、三番も宮代さんのセール出身のはずだ、並以上には走るだろう」

「六番は?」

「私の馬だ。六百万弱で買った馬だから、比較すれば妥当な評価だと思う」

 杉本さんから金額の話が出るとついつい牧場の帳簿が浮かんできて、クーは五百万円と少しの金額だった事を思い出し、目線が少し厳しくなる。

「もう一声行けたかも知れませんね」

「付き合いの古い牧場でね、能力よりも安く譲って貰った馬もいる。お互い様の言いっこ無しだよ」

 予想通り、杉本さんは少しも影を感じさせない口調で笑って聞き流していた。

 そんな話をしているうちに余計な力も抜けて、パドックを回っている子達を眺めていると、アマツヒ君に集中し過ぎて見るべきものが見えていなかった事に気が付けた。

 たとえば、さっき目についた宮代さんのクラブ馬だという二番と八番の子の馬柱を手元の競馬新聞で確認すると、両方とも、うちの牧場じゃ付ける事すら出来なかったような、種付けで三千万も取られるリーディングサイアー常連の種牡馬の産駒だった。動きも良く、雰囲気からしても重賞を勝つ事を現実的な目標に据えて良い格であるように見える。どちらも億近い額が動いているはずの子達であり、そんな存在が二頭も出ているのだからこの新馬戦は間違いなくとんでもないレースだったのだ。

 そうしてふと、応接室で見た宮代有紀さんという女性の存在が、彼女の苛烈な発言の内容が引っかかってきた。

 全力で潰しに行けという発言はアマツヒ君を勝たせる為に有力な子を潰せという意味だと思い込んでいたけれど、これだけ素質がある子達を実際に目の前にすると、彼等にラビットのような真似をさせるという判断は到底理解出来るものではない。少なくとも目の前で回っている二頭の子達は勝ちを諦めなければいけないような馬では無いし、実際にオッズを見ても、アマツヒ君が断然の一番人気なのはともかく、この子達もそれぞれ二番人気と三番人気に押されている。

 発言の真意について考え始めると、自然と視界が馬の輪から離れて有紀さんを探し始めていた。

 パドックに一番近い場所で腕を組んで立っている有紀さんの事はすぐに見つかった。競馬場では珍しい雰囲気が良い意味で彼女を周囲から浮き上がらせていた事もあったし、何よりそれ以上に従者のように側に控えている男性の存在が際立って目立っていた。

「須郷さんだな、宮代さんのお抱え調教師だよ」

 私の視線の先に気付いたらしい杉本さんがそんな風に教えてくれた。

「お抱えって?」

 杉本さんはちらと周囲との距離を確認してから、小声で呟く。

「要するに、調教師の名義貸しだ。出馬登録する為の名義と馬房を貸す代わりに、宮代さんの施設とスタッフが作り上げた勝てる馬を入れて貰う」

 身も蓋も無い言い草だったけれど、話の中身は納得できるものだった。それは臼田厩舎に宮代さんの系列馬が入ってこない理由にも繋がる。

「宮代さんにしてみれば、トレセンの調教師より自前のトレーナーの方が信用できる。名義を貸す側からしてみれば“何もしないという約束”を守るだけで賞金を稼げる馬が入ってくる。歪んでいるが、見事なウィン・ウィンでもある」

 杉本さんの言葉には隠しきれなかった侮蔑の色が滲んでいる。

 そして、それはきっと事実なのだろう。そうした厩舎は、本当に何もしない。

 ローテーションや騎手の起用は元より、飼い付けのやり方、調教メニューや時計の中身、蹄鉄の打ち換えすらも、競馬に関するありとあらゆる事柄について宮代ファームからの指示が出され、そこから逸脱する事は許されない。少しでも宮代ファームから疑われるような事があれば即座に転厩されてしまうから、何もしないのではなく、何もさせて貰えないのだ。

 宮代の餌やり係――そうした厩舎はそんな風に揶揄される。馬について一つも考える事なく、ただ指示された事柄をこなすだけで賞金と名誉を与えられる、楽なやり方に飼い慣らされてしまった人種。

 そうしたやり方に反感を覚えて自己流を貫く調教師さんもいるけれど、宮代さんの繋がりはあらゆる所に及んでいるから、敢えて表立って批判するような厩舎は殆どない。宮代さんと縁の深い調教師さんに対して【家畜のような業態】と大っぴらに唾を吐いてみせる臼田先生は存在自体が例外なのだ。

 有紀さんの半歩後ろで両の掌を揉みながらニコニコと――否、率直に言ってしまえばヘラヘラと――情けない媚び笑いを必死に浮かべている調教師の先生の姿は、思わず目を背けたくなるほどに悪趣味だった。

「過渡期にありがちな歪みの縮図さ」

「過渡期……ですか」

「そう、過渡期だ。宮代さんが持ち込んだ新しいやり方と、昔ながらのやり方を根底に据えた総一郎達と、その二つが潰し合って混ざり合う過渡期だ」

 杉本さんの言葉を聞きながら、ふと臼田先生の事が浮かんでくると、絶望的な勝負のはずなのに案外勝ててしまいそうな気がしてくるから不思議だ。

「だが、いずれにしてもああいう人種の席は残らない。どちらの立場であろうとも、変革の先に残るのは意志を貫き通した者だけだ」

「仮に宮代さんの側が一方的に勝ち残っても?」

「その時はトレセンに厩舎を構える必要も無くなる。そうなれば尚更、彼らの価値は無くなると考える方が自然だよ」

 どこか傍観者のような雰囲気すら帯びた杉本さんの分析はひどく冷めていて、けれどきっと、だからこそ正しいのだろう。

 私はぼんやりと有紀さんの事を眺めながら、応接室での発言の真意について考えを巡らせたけれども、結局は何も解らないまま時間だけが過ぎてしまった。


 京都競馬場の一八〇〇は外回りコース。向こう正面のポケットからスタートして暫くは六〇〇メートル少しの長く平坦な直線が続く為にコース取りなどは比較的穏やかな展開になり易いけれど、一方でその先にはコースの代名詞にもなっている二段構えの坂がそびえている。傾斜が急な一段目の坂を一気に上るとやや緩やかな二段目の坂が第三コーナーの中間付近まで続き、そうして上り切ってからは、高低差四メートル近くを一気に下って第四コーナーへと抜けて行く。第四コーナーには若干の下り勾配が付いているから、スピードを保たせながら捌いて、最後は四〇〇メートルくらいの直線を抜けてゴール――と言うのが、大越さんがざっくりと教えてくれたこのコースの概要だ。

 更に曰く、京都の外回りは最後の直線で全ての馬に坂の勢いが付くため直線一気は難しく、差し馬はまくり気味に追い出す方針がベター、らしい。よって穏やかとは言えスタート直後の向こう正面での位置取りも重要になり、ここで先行馬を気持ち良く行かせて縦長の馬群にしてしまうと後続は苦労する、のだそうだ。

 聞かされた時には、ただのおじさんっぽい癖に当然のようにコースの特徴を押さえているあたりはやはり本職の騎手なのだなあ、と妙に感心してしまった――というのはさておき、見るべきはスタート直後の位置取りだ。

 鞍上の総司さんやその後ろにいる宮代さんがどんなレースを志向しているのかが、京都の一八〇〇という穏やかな展開だからこそ、却って透けて見えてくるはずだった。

 雛壇のようになっている関係者席で、ポケットでの輪乗りの様子を双眼鏡で覗き込んでいると、隣に座っていた杉本さんが不意に肘で突いてきた。

 双眼鏡を外して視線を向けると、無言のまま、指で対角の二点を示される。

 一つはゴール板に一番近い列の最上段で堂々と構えている明さん、もう一つはゴール板からやや離れた最前列に立ち難しい表情で自身の腕を抱く有紀さん。

「あのお二人が、何か?」

「妙だ」

「同じレースに出るから、敢えて距離を取ってるとか」

 いかにもありそうな事なのに、杉本さんははっきりと首を振って否定した。

「宮代さんの関係している馬が複数頭出ないレースなんてその方が珍しい……だが、それでもこんなに露骨な事は初めてだ」

「普段は一緒なんですか?」

「そもそも明さん自体が滅多に場内に顔を見せる人じゃないが、それでも来る時は大抵有紀さんが隣にいる。秘書みたいなものだからね、彼女は」

 言われてから改めてそっと二人の様子を窺うと、明さんの方は良く解らないけれど、有紀さんの方は確かに少し固くなっているように見えた。それが緊張なのか、それとも何か別の感情なのかまでは察する事は出来ない。ただ、つい先程見かけた応接室での勇ましさはどこにも感じられなくて、ひどく心細そうだった。

「さておき発走だ、観戦しよう」

 迷い込みかけた思考を杉本さんの言葉に引き戻されると、ターフビジョンには台に上がるスターターが映っていた。

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