茂尻ちせ【ふらふら⑦・終】

 口取りを終えた足でそのまま出馬投票室へ案内して貰い、東スポ杯への特別登録を済ませると、ちょうどお昼休みの時間だった。杉本さんも御用達らしい場内定番のハンバーガーショップで手短な昼食を済ませてから、午後に備えて部屋へ戻ろうとすると、応接室前の廊下で厩舎関係者の人が待ち構えていた。

 杉本さんは、意外な人と顔を合わせた風に、多少の戸惑いを見せながらも私に紹介してくれた。

「奥寺厩舎の助手さんだ、次の新馬戦に出して貰う」

 その言葉に今日の目的を思い出してハッとする。私が京都に来た一番の目的は噂のアマツヒ君の敵情視察の為であり、午後一番の第五レース新馬戦こそがそのレースなのだ。

「外しましょうか?」

「構わないよ。このレースの為に来たんだろう、情報は多く持ち帰りなさい」

 杉本さんは助手の方を連れて赤絨毯の応接室の中へ入ると、扉から一番遠い壁際の椅子に腰を下ろした。私は後からそれに続いて杉本さんの隣に座る。

「最終確認ですか?」

「そうです、今日の作戦について」

「いつも通りお任せするつもりでしたが、何か特別な相談が?」

 質問に答える前に、助手さんは何かを確かめるように私の方をちらりと見た。

「レラカムイの馬主さんですよ。次のレースには直接関係ありませんが、何かまずいですか?」

 浅い前かがみの姿勢で両手の指を軽く組みながら、杉本さんが言うと、助手さんはほっとしたように微笑み、

「それなら大丈夫です、えらい失礼しました」

私に頭を下げてから、本題を話し始めた。

「今日はアマツヒをマークしていきたいと、厩舎としては考えています」

「例の馬ですか、それならそれで構いませんが」

 そうして頷く杉本さんからは、何故わざわざそんな事を確認しに来たのかが解らないという風な、少し怪訝な表情が覗けている。

 助手さんは、杉本さんが言わんとしている事は解っているという風に、両手を遠慮がちに動かして宥めるようなゼスチャーをしてから、ゆっくり、言葉を選びながら言った。

「実は、他の陣営も同じような作戦を取りそうなんです。つまり、一頭の馬に、その……極端にマークが集中するような、特殊な展開になる可能性があります。そうなると、事前にオーナーのお考えを伺っておいた方が良いと、先生が」

 言い終えた助手さんは、背を伸ばし両手を膝の上に固く握った姿勢で、杉本さんの言葉を待つようにして固まった。呼吸を落ち着けるように深い息を吐くと続けて生唾を呑む音がした。

「潰すということですか?」

 声を聞いた私が思わず表情を窺ってしまうほどに、杉本さんの声のトーンは明らかに一段階下がっている。視界に映る表情は至って平然としているのに声だけで怖くなってしまう迫力があった。

「そんなつもりは」

「つもりが無くてもそうなるかも知れない、だから聞きに来たのでしょう」

 聞いているだけの私が背筋を正してしまうような圧力に、助手さんは俯けた顔を上げる事が出来ないようだった。

「どうなんです」

 杉本さんが促すように言うと、言われた訳でも無い私のお尻が柔らかい椅子から何ミリか浮き上がって、もしかしたらちょっと漏れたかも知れない。

 助手さんは意を決したように大きく息を吸ってから、思い切り吐いて、

「そうです」

と杉本さんを正面から見据えた。

「それが最も勝算のある作戦と考えています。しかし結果によってはオーナーの評判に水を差す事になるかも知れません」

 助手さんの言葉でつい今朝ほどに杉本さんと交わした会話を思い出した。馬は名刺のようなものだと杉本さんは言っていたから、自分の評判が落ちるようなレースをさせたくないというのは確かに自然な発想だ。

 杉本さんは顎に手をやると、無い髭を撫でるような仕草を取りながら無言で考え込み、長いとも短いとも言えないような数十秒の間を置いてから、静かに口を開いた。

「その馬に先着出来ても勝てなければ意味が無い。マーク自体は否定しませんが、負けても自分の力を出させる事を最優先にしてください」

 難しい判断を下す時のように、眉間に皺を寄せながら方針を伝えた杉本さんを、今度は物怖じする事なくまっすぐに見返しながら頷くと、助手さんは勢いよく立ち上がって帰って行った。

「どう答えるのが正解だったか。こういうのは、解らないね」

 応接室を出て行く助手さんの背を見送りながら、杉本さんは頭に手をやってそんな風にぼやく。

「少なくとも、あの人は嬉しそうでしたよ」

「ならそれで良いか」

 あまり考え込んでしまわないように言うと、杉本さんも気を取り直して軽い口調だった。

「コーヒーでも飲んでから降りようか、少し待っていてくれ」

「私が行きますよ」

「大したことじゃない、構わないよ」

 肘掛けの部分をポンと軽く叩いてから杉本さんは立ち上がり、出入り口の方へ歩を進めて行く。丁度外へ出ようとするタイミングでガラス扉の向こうから黒いパンツスーツの若い女性が入れ違いに入って来て、杉本さんと目が合うと浅い会釈を交わしていた。

 女性はそのまま奥の方へ入って来て、私が座っている席から三つほど離れた席に腰を下ろすと、モデルのように長くて綺麗な脚をスッと組み、真剣な表情で携帯電話を弄り始めた。

 良い意味で馬主席に合わない人だなと、ふと思う。

 私が言えたことではないけれど、あまり着飾っていない、いかにもビジネス然とした若い女性の馬主関係者は、殆ど見かけた記憶が無い。どこぞの馬主の愛人さんにしては格好良すぎるし、何よりこの人は頭も良さそうだ。

 同性なのに見惚れてしまうようなその人の仕草を眺めていると、また応接室の扉が開き、今度はスーツ姿の中年男性が二人入ってきた。男性たちはその人の前で立ち止まると上司に対するような馬鹿丁寧な礼をして、組んでいた足が解かれたのを見てから席についた。

 聞き耳を立てる事も無く自然と耳に入ってきた範囲の情報ではどうやら男性二人は厩舎の関係者らしい。男性たちが交互にスタートがどうとか馬場状態がこうとか説明をして、それに対して女性が短く返事をするような会話だった。

 やがて一通りの話が済むと男性たちは静かに立ち上がり、また馬鹿丁寧な礼をして、立ち去るのだろうと思ったら、そのうちの一人が足を止めて、敢えてという風に振り返った。

「――本当に、よろしいんですね?」

 そうして、その声はこれまでのどんな会話よりもはっきりと私の耳に届いた。

「構いません、全力で潰しにいってください」

 発言の苛烈さに呆気に取られてしまい、ぽかんと口を開けたまま、まじまじと見つめてしまうと、当然バッチリ目が合ってしまう。

 私があまりに間抜けな顔をしていたせいか、盗み聞きなどとてつもなく失礼な事をしでかしたはずなのに、その人は目を丸くして驚いてから、怒りもせずに、とても可愛らしい微笑みをくれただけだった。

 その人が去ってからコーヒーを手に戻ってきた杉本さんに話を振ると、それは傑作だと穏やかに笑われた。

「宮代有紀さん、明さんの一人娘だよ。系列ホースクラブの代表をやっている」

「宮代さんの、娘さんだったんですか」

「謝る機会なんてこれから幾らでもあるさ。この後の新馬戦にも出しているし、今日のメインも彼女のクラブの馬が本命になるだろう」

 杉本さんは平然と言うけれど、私としてはたった今やらかしたばかりの相手と再会しなければいけないのはバツが悪く、自然と顔が渋くなった。

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