茂尻ちせ【ふらふら⑥】

 競馬新聞をざっと眺めた限りでは、今日の杉本さんは第三レースの未勝利戦に二頭出し、第五レースの新馬戦と第七レースの三歳以上下級条件戦、それと第九レースの二歳条件戦にメインのエリザベス女王杯、それから最終レースの三歳以上中級条件戦にそれぞれ一頭ずつ出馬して合計で七頭という内訳のようだった。

 競馬中継を眺めていると、スギノの冠号を持つ馬が同じ日に何頭も出て来る事なんて珍しくもないのだけれど、杉本さんご本人を目の前にしながら改めてその現実に触れてみると、目の前の人が日本でも有数の、私などとは比べ物にならない、本物の馬主である事に気付かされて、見上げてしまう。

「これだけ多いと、レースを把握するだけでも大変ですね」

 コーヒーカップに口を付けながら率直な感想を口にすると、杉本さんは痛い所を突かれたとでも言いたげな苦笑いを浮かべながら、小さく肩を竦めた。

「実は、まったく把握してないんですよ。基本的に、競馬場に来てから新聞を見て、そこで初めて自分の馬がどのレースで走るのかを知るんです」

「それじゃあ、ローテとかはどうするんですか?」

「素人が職人に口を出すほど愚かな事は無いというのが持論でしてね。どうしてもという時以外は全て調教師さんに任せてあります」

 事も無げに言い切る杉本さんに感嘆するあまり、言葉が出なかった。もしも臼田先生がこの話を聞いていたら、間違いなく上機嫌になって、ひょっとしたら杉本さんの都合なんてお構いなしに熱烈な抱擁をかましていたかも知れない。

 今の時代、馬のローテや乗り替わりに関する事柄ならまだしも、調教内容やカイバの配合まで口を挟んでくる馬主すらいる。杉本さんのように、厩舎を全面的に信頼して任せてくれる馬主さんなんてほとんどいない。

 臼田厩舎の場合、幸か不幸か、そうした馬主は全て先生が叩き返してしまうから――一番口を出している馬主は恐らく私だろう――直接の被害を受けた事は無い。でも私は、そういう、厩舎のスタッフをメンテナンスの作業員程度にしか見ていない馬主の噂を聞く度に、馬の事まで軽く扱われた気持ちになって本気で頭に来るから、せめて馬主要項に【所得云々以前に馬房の掃除が出来る事】という項目を追加して欲しいと、割と本気で思ってしまうのだ。

 じっと杉本さんを見ていると、心の中の感動が態度にも表れていたようで、

「あまり買い被らない方が良い」

と、照れ臭そうに手で払われてしまった。

「ただの、現実の埋め合わせなんですよ」

「埋め合わせって?」

「私の本業は御存知ですか?」

 多少はご存知です、とは口に出さずに、ちょっとだけ頷いて返した。医療用にも使われるような精密部品の製造会社をやっているらしいと、おじいちゃんから聞かされていた。

「今はもう全て息子に譲りましたが、社長なんぞをしていた頃は、現場なんてとうの昔に離れた癖に、何のかんのと口を出してしまっていた。解っていない人間が口を挟むのが現場からは一番嫌われるのだと、解っているのに口を挟んでしまった」

「だから、馬には何も言わない?」

 杉本さんは目線を競馬新聞に落としながら、小さく頷いた。

「ましてや馬は完全な道楽で、本当に素人です。口を出したら絶対に失敗するという戒めも込めてですな」

 自虐のような言葉を連ねながらも、その目は一心に馬柱を追っている。目元の皺の僅かな動きには感情の機微が表れているのだろうか、もしかしたら自分の馬に印が打たれているのを見て喜んでいるのかも知れない。

「そんな風に、素直な社長さんだったんですか?」

 杉本さんは新聞から顔を上げて、意外な風に私を見る。

「随分と楽しそうに見ているので。社長さんなんてやる人は、もっと全部計算で動く人でないとやれないと思っていたから」

「ふむ……なるほど」

 そんな風に呟くと、コーヒーカップに口を付けてからふいに窓の外へ視線をやり、京都場内の池を映しているようだった。

「最初は商売相手に誘われて、仕方なく始めました。続けた理由はステータス。馬主をやっていると言えば社の経営が良いのだろうと思われる。持ち馬が活躍すれば社交の場でも得になる。その上、プロの言う事さえ聞いておけば最低限は自分たちで稼いできてくれるのだから、効率が良い名刺のようなものです」

「とてもそんな風には見えませんけど」

 遠慮せずに言うと、杉本さんは気持ちよく喉を鳴らして笑った。

「最初は打算で始めた事でも、続けていれば人と繋がり、交われば自然と情が沸く。今となっては代え難い人生の一部だよ」

 そうしてすっかり打ち解けると、杉本さんは砕けた言葉になって、今日出走する馬について色々と語ってくれた。普段はまったく忘れているような馬でも名前と生産牧場名を見るとどんな馬か思い出せるのだという。今日走る七頭を購入した経緯やそれぞれの牧場の生産者さんがどんな人かを話す時の表情からは、競馬をとても純粋に楽しんでいることがよく解った。

 話を聞いているうちに第三レースの発走が近付き、エレベーターでパドックへと降りた。庇の下に設けられたベンチに腰掛け、周回している馬たちの方を眺めると、いつの間にやら、空は鈍色の重々しい雲で覆われており、しとしとと雨も降り出している。

「予報じゃ晴れだったのに」

 私が言うと、杉本さんは口元に笑みを湛えながら、

「恵みの雨となるのかどうか、これもまた一興」

そんな風に呟いた。

 そうして馬を眺めていると、スーツ姿の男性が杉本さんに挨拶をしにやって来た。このレースに出走する二頭のうちの一頭を管理している、栗東の小清水調教師だ。

 杉本さんは挨拶に来た小清水先生へ立ち上がって頭を下げ返し、「今日はありがとう、お疲れ様です」と労ってから、

「雨は大丈夫そうですかな」

そう尋ねた。

「濡れた馬場も苦手にはしていませんから、ネガティブな要素にはならんかと」

 まだ四十代、調教師としては若手とされる小清水先生は随分と恐縮しながらもしっかりした声色で答え、杉本さんはそれに短く頷いた。

「今日もお任せします。初谷君にもよろしくお伝えください」

「初谷のこと、乗せて頂いてありがとうございます」

「人が育たない厩舎で馬を育てられるはずがない……と、私は昔の調教師さんから教わりましたのでね。これからも、先生の厩舎にはお世話になります」

 杉本さんがそう返すと、小清水先生は折り目を正して、ほとんど直角に腰を曲げる礼をしてから立ち去った。

 気になったので、小清水先生との距離が出来てから会話に出ていた初谷さんという騎手の事を尋ねた。

「先月に派手なゲートミスをしたらしい。幸い怪我は無かったが乗鞍が減ってしまったようでね、小清水さんから乗せてやって欲しいと頼まれた」

 杉本さんは立ち上がり、騎手の待機所を覗ける位置まで移動すると、ピンクを基調としたスギノの勝負服に身を包んだ、私と同い年くらいの男性をそっと指す。

「それこそレラカムイの新馬戦だ。枠も隣だったはずだが、覚えてないかい?」

 確かに隣枠の馬がゲートをくぐろうとして落馬した事は覚えている。あの時はスタンドの至る所から悲鳴があがったので、中継映像すらおっかなびっくり見ていたような私にとっては生きた心地がしない瞬間だった。

「これもまた縁。縁が縁を呼び、繋がることでまた面白いものと結びつく。私にとって競馬の面白さとはそれだ」

 語っていた杉本さんがふいに何かを見つけたようになり、パドックの中心でじっと馬を眺めていた、白い雨合羽の人を手招きして呼んだ。向こうもこちらに気が付くとゆっくりとした歩調で向かってくる。

「もう一頭は総一郎の所の馬だ」

 それから少しして、合羽に隠されていた表情が私にも解る距離まで近付くと、その人は確かに総一郎先生だった。

 杉本さんは小清水先生の時より大分ざっくばらんな風に、敢えて頭を下げるような事もせずに総一郎先生の前に立つと、

「雨はどうだ」

とやはり同じように聞く。

「こっちには有り難いですよ、牝馬やけど力のいる馬場の方が得意ですし」

「そうか、そりゃ良かった」

 ふと、総一郎先生が私の方に視線をよこした。

「杉本さんの案内はどうです?」

「本当に助かりました、有難うございます」

「そうでしょう、京都の場内案内して貰うのにこの人以上の適役はおらんわ」

 まるで十年来の友人を語る時のような口ぶりだった。そうしてそのまま二人で他愛ない雑談を始める辺りも、ただの馬主と調教師という間柄には見えない。

 世間話を始めた二人を置いてパドックをぐるりと見渡すと、午前中の未勝利戦だけあって馬主関係者の姿はほとんどなく、唯一の人影と言えば、私達から少し離れた所で男性が一人座っているだけだった。

 年は五十歳の手前くらいだろうか、お父さんが生きていたらきっと同じ位の年齢だろう。何の変哲もないスーツ姿で、サッパリしたスポーツ刈りだけれども特に体格が大きいとか運動をしている風では無い。とはいえ背筋をまっすぐに伸ばしてパドックの馬を眺める視線には独特の力強さが宿っており、馬主というよりも生産者のような、言ってしまえば同業の雰囲気を感じる。

「明さんか……珍しいな」

 ぼんやりと眺めていたら杉本さんの声が届いた。振り返ると、総一郎先生は馬の元に戻っていったらしい、一人でベンチに座りながら例の男性の方を向いている。

「お知り合いですか?」

 尋ねながら並んで腰を下ろすと、杉本さんは視線を男性からパドックの方へと戻した。

「知り合いも何も、有名人さ。宮代ファームの代表と言えば解るだろ、それが宮代明さん、あの人だよ」

「あの人が、そうなんですか」

 うちのような弱小牧場とはケタが違う、日本で競馬に関わろうとすれば絶対に一度は触れる名前。私が生まれる前からリーディングブリーダーとして君臨し続けている文字通りの日本競馬界の頂点。それが宮代ファームであり、その当代代表が宮代明さんだ。

「普段は場内に顔を出す人でも無いが、例の馬がそれだけ特別という事だろう」

 含みを持たせた杉本さんの言葉には、すぐに思い当たるものがあった。

「アマツヒ」

 私が漏らしたその名に杉本さんが静かに頷いたのとほとんど同時に、止まれの号令が響いた。


 その後行われた二歳未勝利戦では総一郎先生が管理しているスギノモチモチ号が見事な勝利をおさめ、口取り写真には私も混ぜて頂くことになった。

 生憎の空模様だったけれど、雨合羽を羽織って引き綱を持つ杉野さんは勿論、総一郎先生も、鞍上の笹山騎手も、担当の厩務員さんも、皆濡れる事なんて気にもならないという風な満面の笑顔だった。

「この時期に勝ち上がれたんや、こいつはええとこ狙えるで」

 引き上げる時に漏れた総一郎先生の発言は、聞いていた関係者が皆同意するものだったろう。

「クラシック登録、忘れてないよな?」

 冗談めかした声色の杉本さんが言うと、

「忘れてしまったかも知れませんな……仕方ない、四百万程用立ててください」

上機嫌な総一郎先生が返す。

「連れて行って貰えるのなら、それ位の祝儀は出そうじゃないか」

 冗談の応酬だったはずが、杉本さんが一瞬真剣な声色になったので、総一郎先生からもおふざけの雰囲気が消えた。

「距離的には桜花賞よりもオークスやと思いますが、どうします?」

「全て任せる、必要な金は全て出す」

 聞いているだけで痺れてしまいそうな杉本さんの気風の良さに私が目を丸くしていると、それに気付いたらしい総一郎先生は、

「ええ馬主は人をノセるのが巧いんや」

そんな風に茶化した。

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