茂尻ちせ【ふらふら⑤】

「この度は倅二人がとんだご迷惑をおかけして、申し訳ない。お詫びと言うには足らんでしょうが是非夕飯を、今日は鍋にしますので」

 総太君の事に深々と頭を下げてから気軽に夕飯を誘ってくださった調教師の鎬総一郎先生は、言わずと知れた天才鎬総司の父親であり、本人もまた名人級の騎手だった、らしい。私は現役時代の騎乗を殆ど知らないけれども、おじいちゃんは鎬総司の名を見る度に【総一郎の息子】と読んでいたから、その偉大さについては何となく知ったつもりになっている。

 久々に大勢で囲む夕食はカニのお鍋だった。

 リビングにはふかふかのカーペットが敷かれていて、大きな座卓が置かれていた。座卓を囲むように四枚の座布団が置かれていて、総司さんがどこからか持ってきた五枚目を並べた。総太君は定位置らしい席に座ると五枚目の座布団を自分の近くに引き寄せ、ポンポンと叩きながら「ここだよ」と私を呼んだ。

 総司さんが卓上コンロを持ってくると、その後ろに土鍋を持った由布子夫人が続く。総一郎先生は、総太君が弄っている携帯型ゲーム機の画面を覗き込みながら、お前はホンマにゲーム好きやな、と優しい声で頭を撫でて、もうご飯やからやめなさいと諭す。総太君は生返事をしていたけれど、総司さんがじっと睨むと慌てた風に電源を切った。

 その様子をじっと見守っていた由布子さんが

「総太はみんなの食器持って来なさい、お姉さんの分もやで」

と、そんな風に指示を出すと、総太君は勢いよく駆けだす。

 入れ替わる様に、総司さんは私の対面に座った。そこが指定席なのだろう。

「騒がしくて、すんません」

 私はニコニコが止まらなくなりながら首を振る。

 総太君が持ってきた小皿に由布子さんがお鍋の中身を取り分け、総一郎先生が手を合わせるのを見てから、みんなでいただきますをした。

 総一郎先生と総司さんは、お鍋の野菜をつまみながら、二人とも手酌でお酒を呑んでいる。一つの会話も無かったけれど、見ているだけで親子であることがよく解った。二人の前にはお茶碗が出ておらず、真似しようとする総太君に由布子さんが言い聞かせてご飯を食べさせる。私は白菜をもしゃもしゃとやりながら、幸せな気持ちでそれを眺めた。


 八時を少し回る頃になり、総司さんが総太君を連れてお風呂へ向かい由布子さんがお片付けに席を立つと、私は総一郎先生と二人でテレビを眺めることになった。

「総司から茂尻さんのお話を伺った時は、縁やなあと思った」

 テレビにはレラのひいおじいちゃんにあたるカンナカムイのレースが映っている。配色が妙にキツイ昔のカラー映像は、私も実際に見るのは初めてだった。

「三十年以上前でもまだ覚えてるくらい、不思議な乗り味やったよ」

 猪口を片手にした総一郎先生は、ほんのりと鼻の頭を赤く染めている。

「知りませんでした、乗ってくださっていたんですね」

「主戦が別の競馬場で乗る日でね、調教で乗ってたから鞍を回して貰えたんや」

「先生が調教に乗ってたんですか?」

「普段の調教から乗って、その馬を理解して、本番で乗る。少なくとも当時は、見習でもベテランでも当たり前のことでしたよ」

 大御所とされる方の下積み時代の話というのは、ある意味定番なのだろうか。けれど私からすると、鎬総司の父親が大越さんのようなことをしているというのは、そもそもイメージがわかない。

「総司もそうですが、今のトレセンは馬との距離が離れてしまったような気がする。分業だ効率化だと偉そうな言葉を並べてはいますが、私にはどうにも」

 総一郎先生は少し寂しそうに呟いてから、画面に視線を移した。

「ここです。三角の手前で追い始めてからの反応が段違いでしたね、もうこの時点で勝ちを確信していました」

「やっぱり末で勝負する馬だったんですか?」

「主戦は前目の競馬を好む人やったけど、明らかに切れが違う脚を持っとったから、俺は後方勝負の方が面白いと思ってた。人気も低くて好きに乗れたしね」

 地方の小回りコース、カンナカムイは第四コーナーでまくって先頭に立つと直線で他馬を更に引き離して圧勝した。エトやレラに遺伝したのだろうと自然に感じるような圧倒的な末脚だ。

「切れる脚使うのは調教で知っとったけど、レースはもっととんでもなかった。こっちが不安になるくらい背中が柔らかくて、エンジンがかかると前脚を振り出した時に背中がグッと沈むんや。チーターとか乗ったらこんな感じなんちゃうかなって思いながら、振り落とされない事に必死になって追ったよ」

 もう五十代になるはずなのに、十代の少年のような若々しさを滲ませながら総一郎先生は語る。競馬を、カンナカムイという馬を、本当に好きなのだろう。

「エトゥピリカを初めて見たのはレースの時でしたが、一目見てカンナカムイが思い浮んだ。お陰で自分とこの馬なんかそっちのけや」

「先生みたいな一流の人にそこまで言って頂けるなんて、思ってませんでした」

 有り難いことだと、心から思った。自分の牧場の馬を、それも数十年も昔の馬を、これだけ一生懸命に語ってくれる騎手がいるというのは、本当に幸せなことに違いない。

「重賞を勝たせてもらったという事もありますが……何よりあの馬は私が厩舎に入ってからずっと調教で乗っていましたから」

「ずっと?」

「入厩してから、本当にずっと。騎手として、本当に沢山の事を教えて貰った馬でしたわ」

 そうして、総一郎先生は猪口の中身をぐいと呷った。

「馬への思い入れというのかな、そういう経験をできないんだから、総司たちは可哀そうな世代かもしれん」

「可哀そう、ですか」

「乗り手が馬の力を引き出すという経験を積めない、今のサークルじゃそんな乗り方を許して貰えない……と。いや、しかし、あるんだ」

 総一郎先生はそこで言葉を止めると、じっと私を見つめた。言わんとする事は何となく予想がついた。

「オーナーブリーダーも、厩舎スタッフも、調教師も、素晴らしいチームだと思う。何より大越君は良い騎手だ」

 面と向かって褒められるのはおもはゆかったけれど、総一郎先生はそんな私に気付かない風に続ける。

「総司が乗るアマツヒという馬は、確かに強い。三冠という言葉が夢物語とも聞こえない程度には、現実離れした強さの馬や。

 だが俺は、調教師としても、カンナカムイに乗った騎手としても……総司の親としても、レラカムイと大越には簡単に負けて欲しくない」

 語り終えると空にした事を忘れたように猪口に口を付けたので、私は徳利を構えてにっこり笑った。






 日曜日の京都競馬場、パドック裏にひっそりと佇む馬頭観音へ手を合わせていると、ふいに声を掛けられた。

「エトゥピリカの件があってから、ここもまた花が増えました」

 高齢だけれども張りがある、聞き覚えのある声。

「お久しぶりです、茂尻さん」

 こうして顔を合わせるのは、去年の夏に牧場に来て頂いて以来だった。綺麗に色の落ちた白髪は短くオールバックにまとめてあり、ダークスーツとのコントラストが映えている。七十歳はとうに超えているはずなのに、いつ会っても不思議な色気が出ている方だと思う。

「今日は突然すみませんでした、ありがとうございます」

 私が頭を下げようとすると

「いやいや、結構、結構」

と、杉本さんは手を振って遮る。

「こちらこそこんな爺さんのエスコートですまないが、今日一日お願いするよ」

 私がアマツヒのレースを観戦する予定だと知った総一郎先生が、一人で慣れない場内をうろつくよりも信頼できる人間と一緒にいた方が良いと、スギノの冠号で有名な杉本さんに連絡を取ってくださったのだった。

 杉本さんはうちの牧場の上得意様でもあり、毎年夏の時期になるとその年のとねっこを見に足を運んでくださっていたから、私とも面識がある。最近ではクーを買ってくれたのも杉本さんだ。

「茂尻さんの牧場には沢山お世話になったんだ、出来る事は何でも言ってくれ」

 杉本さんが買ってくれた馬は、大きい所を勝つような事もあまり無かったけれど、どの馬もみんな長く頑張って、十分に元が取れる賞金をきちんと稼いでくれていた。杉本さんは、そういう馬達が引退した後もきちんと生きていけるように、乗馬用の訓練を受ける為のお金を、彼らの賞金から積み立ててくれていて、引退した後の事まで考えてくれる馬主さんだった。おじいちゃんは杉本さんの馬に対するそういう姿勢をとても気に入っていたから、頑丈でへこたれない馬をきちんと見定めて売っていた。

「今日、私の馬は七頭走る。人気にはならないだろうがメインにも一応出る」

 杉本さんは先を行きながら、朗らかな笑顔でそんな風に教えてくれた。

 府中の時と同じように、受付の職員さんから仕組みが良く解らない謎のスタンプを押して貰ってから、エレベーターで上階へとあがる。何も考えずに杉本さんの後について進むと関係者席の一番奥にある役員室までずんずんと入って行き、足を踏み入れた瞬間、場の雰囲気に思わず喉が鳴ってしまった。

 レラの新馬戦の時は出走馬主席から見ていたけれど、役員室はそれともまた世界が違う。高級ホテルでも無いのに大真面目な顔で赤絨毯にシャンデリアをぶら下げている空間というのは人生で初めてだ。

「もうダービーを勝った馬主さんが、今更何に緊張しますか」

「エトの馬主はおじいちゃんですし……ともかくこれは緊張しますよ」

「年を取るとゆっくり見られるに越したことはありませんが、その程度ですよ」

 通された席で緊張したまま競馬新聞を手に取って馬柱をざっと眺めていると、どこからかコーヒーを持ったウェイターさんが現れた。杉本さんが頼んでくれたらしい。

「長い一日だ。まずは一服してから、ゆっくり楽しみましょう」

 私の瞳を覗き込みながら落ち着かせるように言うと、杉本さんはゆったりとした動作で足を組み、慣れた風に競馬新聞を広げた。

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