大越凛太朗【皐月賞前段①】

 総司にしては珍しいくらいの大逃げだった。人気薄の真戸原が一頭追走して、行った二頭が後続を二十馬身近くもぶっちぎるようなレース展開、三月の中山とは言え前一〇〇〇が余裕で一分を切っているような肌感覚ではやはり早い。

 総司からしてみれば、十頭立ての小頭数では多少マークしても勝負の紛れを作りようがないということかも知れない。そうなれば、いっそのことレラへの警戒で他馬が固まる事に期待して積極的に仕掛けてくるのも自然な選択だ。

 いずれにせよこの大逃げで俺達への影響はほとんど無く、むしろ悲惨なのはその他の連中だろう。ド本命の俺達にどうにかついて行きあわよくばおこぼれにありつこう、などと考えていた所で三番人気の有力馬がこの大逃げ。圧倒的な末を持つ俺達を警戒しつつ前の大逃げも捕まえられるシビアなタイミングを見極めなければならなくなった。

 第三コーナーを外目で回りながら、ハミで合図をすると、レラは待ちかねていたような反応の良さでギアを一段階上げた。周囲の馬も明らかに速度を上げているのだが、まるで意に介さず、余裕すら持ってかわして行く。彼等が三速から四速にギアチェンジしたとすればこちらはまだ二速から三速、それ位にはポテンシャルが違っている。

 先頭を行く総司は一足先に直線へ入ったようだった。スタンドから聞こえる派手な絶叫は俺の騎乗が悠長過ぎると言いたいのかも知れない。最外から最終コーナーを回って現状は六番手、先頭まではおおよそ七馬身といった所だろう。それでも焦る必要は無い。確信が揺るぐはずもない。

 直線を向いたその時、レラの背中の動きが僅かに変わる気配がしたので反射で鞭を左手に持ち換える。コーナーを抜けて重心が安定した事で枷が外れてしまったのだろう、無意識のうちに一番速く走れる身体の使い方をしようとしている。どれだけ矯正しても完全には直らない、先天的な肉体の構造に由来する危険な癖だ。それでも持ち換えた鞭で肩に軽く振れれば、教え込んだ走り方を思い出して余計な力を抜いてやれる。レラにとっては八分目の速度しか出ない窮屈な走り方だろうが、それでも十分過ぎる程に十分なのだ。

 一歩で飛ぶ距離も、一歩を蹴る速さも、まるで比較にならない。一完歩で半馬身も差が詰まるような速度差では、遥か前を行っていたはずの逃げ馬も坂の頂上ではすっかり後方へ置き去りにしている。

 ゴール板を過ぎる頃には、ほんの十数秒前までド派手な悲鳴が溢れかえっていたはずのスタンドが不気味なほどに静まり返っていた。

 数万人の絶句。

 振り返れば二着の総司まではおおよそ五馬身、短い中山の直線で差し引き十二馬身をぶっちぎった事になる。そんな上がりを見せつけられれば言葉も出なくて当然なのかも知れない。

 後検量を終えて勝利騎手インタビューへ向かうと、インタビュアーを務める局アナは興奮を隠し切れていない口調で一気にまくしたててきた。囲みの競馬記者達からの視線も強い。彼等の目にもそれだけの勝ち方に映ったということだろう。

「――最後の直線、本当に凄まじい末脚でした。しかし一方で、あまり激しく追っている風にも見えなかったのですが、その点はいかがでしょう?」

「そもそも派手に動けば早くなるってものでもないですからね。特に俺の場合どうしても全力で追うと派手なアクションになってるみたいですけど、それは単純にヘタクソってだけで……まあ、どっちみち今日は本番じゃないですから」

「という事は、本番では今日よりも上のスピードがあると?」

「馬の能力的にはまだまだ、そうですね、相手も変わりますし」

「ではその相手について。前走は大越騎手にとって残念な結果となりましたが、クラシック直前となった現在、改めてアマツヒ号をどう評価していますか?」

「あー、はい」

 その質問に初めて言葉を止めて考える。基本的にインタビューを受ける時は頭を空っぽにして正直に答えるようにしているが、相手がいる質問にはどうしても言葉を選ばざるを得ない。アマツヒの評価を正直に答えるなら【前走は総司の野郎がヨレたせいで負けただけ、能力的にはコッチが上だ】なんて具合になるワケだが、そんな言葉を電波で流してしまえば鎬総司ファンのメス豚共から袋叩きにされる事は想像に難くない。

「そうですね、まあ強いでしょうけど、挑戦者ですから、全力で挑ませて頂きます」

 官僚が用意した答弁みたいにのっぺりした答えを返すと、レース直後の熱に浮かされていた局アナの視線が途端に拍子抜けしたものに変わり、少しばかり心苦しく感じたが、トライアルレースの勝利インタビューでそこまで盛り上げてやる必要など無いのだと自身に言い聞かせる。下手にウケ狙いの答えをして大滑りでもしたらそれこそ見ていられない。

「では最後に、クラシック、三冠への意気込みをお願いいたします」

「そうですね……はい、エトの事があって、またこういう馬に乗れるというのは出来過ぎなくらいに有り難い事だと思うので、本当に感謝して」

 そうして浮かんでくる言葉を一つ一つ話していると、インタビュースペースからほど近い場所でちせに引かれている、優勝レイをかけたレラとばっちり目が合った。――さっさと終わらせろよ、写真撮りに行けないだろ。なんて風に急かすような視線に気が付くと、自然と力が抜けていく。

「勝ちます」

 最後の最後に今日一番の本音を出せた気がした。

「有難うございます。レラカムイ号で弥生賞を制しました、大越凛太朗騎手の勝利騎手インタビューでした」

 そうして中継が終わると囲んでいた記者達に軽く頭を下げてから、小走りでレラ達の元へ向かった。






 火曜日の正午過ぎだった。厩舎の表でのんびり日光浴をしていると臼田厩舎とは縁遠いド派手な赤いスポーツカーが前触れなく来訪し、サングラスをした宮代有紀が降り立ったのだった。パリッとした白いシャツとグレーのパンツで髪はアップにまとめており化粧っ気も薄い、その上春の暖かな陽気にあわせてジャケットを肩から吊るすような仕草をしているものだから、美人というより男前という感想がまず浮かぶ。もしも競馬に疎い人間がトレセンを歩く彼女の姿を見れば、やり手の女性騎手と勘違いするかも知れない。

「ちせなら家で昼寝してるはずですけど、呼びます?」

 欠伸を噛みながら声を掛けると、有紀はそっとサングラスを外した。

「ちせちゃんには後で話すから大丈夫。今日は貴方に用があるんだけど、時間貰える?」

「レラの調整だけですから、別に大丈夫ですよ」

「一昨日走らせたばかりでしょう?」

「ああ、だから調整って言っても軽く歩かせるだけ。あとは、天気も良いから日向ぼっこですかね」

「貴方がやるの?」

「テキからの言いつけですから」

「そう……まあ良いわ」

 外したサングラスを胸ポケットにしまうと、こちらの返事は待たずに大仲の方へズイズイと歩き始めており、むしろ出遅れた俺の方が後からついて行く形だった。

 大仲へ入り、手近な椅子に通してからお茶の用意をしようとすると、

「慣れない気は使わなくても大丈夫」

本当に一切遠慮のない仕草で椅子に座りながら有紀が言う。

「なら缶コーヒーで良いですか?」

 大仲の隅に山積みにされている缶コーヒーの段ボールを指しながら言うと、有紀はその量に圧倒されたような苦笑を浮かべながら頷いた。

「有り難く頂きます。それ、この前の勝ち祝い?」

「ですね。ところで、ダイナースさんからは届いてないんですけど?」

「ウチの馬も出してたんだから送る訳ないでしょ……なんて言うのもこれからはアレだし、私個人でお酒でも送ってあげる」

「気を使わせて申し訳ない」

「貴方への依頼は所属している臼田厩舎への依頼でもあるんだから、付き合いとして考えればむしろ当たり前かもね」

 下らない冗談を言い合いながら缶コーヒーとんまい棒を二人分用意し、対面するように腰を下ろす。

「またこれ?」

「まあそう言わず、食べてみてくださいよ」

 手本を示すようにんまい棒のパッケージを剥いてむしゃむしゃとして見せたが、この女は意地でもんまい棒を食べないつもりなのだろうか、続く素振りは無く、有紀は缶コーヒーに口を付けてから呟くように切り出した。

「アルカンシエルの事なんだけど」

 四歳の牡馬で昨年は青葉賞二着からのダービー八着菊花賞は五着、年明けは先々週の中山記念から始動で惜しくも二着、主な勝ち鞍には菊花賞トライアルのセントライト記念があり、次走は大阪杯を予定……と、これくらいの情報であれば一瞬で浮かんでくる。俺の反応を見て、有紀は俺がアルカンシエル号を知っている事を察したのだろう、一度小さく頷いてから続けた。

「次の大阪杯の乗り役を探してるの」

「中山記念の時はクリスだったでしょ」

「クリスにはニルヴァーナがあるから。元々鞍上を固定した起用はしてないし、今の貴方なら会員からの反対も出ない。何より気性が荒いタイプだから、貴方には合うはずよ」

 気性難の馬を得意にしている訳ではない、とは言えなかった。元から不細工な乗り方をしているだけに、腕力で押さえ込むしかないような馬でも抵抗なく乗れる事は確かだ。

「総司とサブは?」

「総司君はローズクイーン、沢辺さんはゴールデンロード。二人とも売れっ子ですから、そう簡単にウチで独占って訳にはいかないのよ」

「なるほど」

 相槌をうってからからんまい棒をかじる。

「ニルヴァーナやローズクイーンが出て来る以上厳しい勝負になるだろうけど、だからこそ貴方にとっても大きなチャンスになるはずよ」

「へえ、何でですか?」

「もしも今回結果を出してくれたら、アスンシオンの桜花賞もお願いするわ。父さんも了承済みの条件よ」

 有紀から飛び出した発言は、咥えていたんまい棒を落としそうになる程度には衝撃的なものだった。

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