大越凛太朗【raison d'tre ⑩・終】
明太子をつまみに缶ビールをやりながら、キヨスクで適当に買った漫画雑誌をぺらぺらとめくっていると、携帯が震えた。ディスプレイに表示された着信相手を見て一瞬躊躇ったが無視する訳にはいかず、観念した溜息を小さく一つ置いてから、ビールを片手にデッキスペースへと出る。
『お疲れ様、移動中ならかけ直しましょうか?』
受話器の向こうの宮代有紀はその表情が見えない分だけ恐ろしさが増している。
「別にこちらは平気ですけど、音が入っちゃいますか?」
『いえ、そちらが大丈夫なら』
後でかけ直しますと伝えればよかったなどと後悔してももう遅い、すっかり通話は続行してしまう雰囲気だ。
ならいっそ、気が引けている理由を自分から切り出してしまう事にした。
「お説教だったりします?」
『何で?』
「いや、そちらの馬を潰すような真似をしたから、お説教でもあるのかと」
『……もしかして第八レースの事?』
「そうです、北浜が乗ってたアレ。最後の進路閉めたでしょ。それが無ければ多分順当に勝たれていたでしょうから」
『それで、何で私が説教するの?』
「しないんですか?」
素朴なやりとりのつもりだったが、返ってきたのは受話器越しの表情が目に浮かぶような、超が付くほど特大の溜息だった。
『貴方、ウチを何だと思ってるの?』
「日本競馬の首領みたいな」
『マフィアじゃないんだからさ』
「似たようなもんでしょう。ともかく、貴方たちが普通に息を吐くだけでも俺らはひどい風邪をひくんだ」
『何それ、人の家を病原菌扱い?』
「だから物の喩えですってば。大体、そっちだって笑ってるじゃないですか」
どうやら本当にお説教のつもりでは無いらしい、力の抜けた笑い声が聞こえてくるとこちらの肩の力も抜けていく。
『ともかく、そんな仕事はしない。あのレースの話なら、馬を勝たせた貴方の評価は上がったし、判断を間違えた北浜さんの評価は下がった、それだけよ』
ビールをあおりながら窓へ近付いて外を見る。京都と名古屋の間を走っているはずだが、暗闇に浮かぶ灯りだけでは街の見分けがつくはずもない。流れるように過ぎて行く光点を眺めていると、ふとクーの担当の澤田のことが思い浮かんだので、後できっと連絡があるだろうから、その時は、お前の安い酒代くらいは稼げる馬だと、そんな風に言ってやろうと思った。
『大体さ、仮にこれがお説教の電話だったとして、貴方がそのお説教を素直に聞き入れられるような騎手なら今頃はもっと重宝されてもっと勝てているとか、そういう風には考えない?』
冗談とはいえ内心思う所があったのだろう、しっかりやり返されてしまうと口に含んでいたビールを吹き出しそうになった。
『ほら、やっぱり自覚あるんじゃない。私だってそんな無駄な電話をするほど暇じゃないわよ』
「なるほど。じゃ、からかう為だけに電話してきたんですか?」
苦笑しながら尋ねると、それまでの茶化した雰囲気が流れ去るのに十分な間が空いてから、返って来たのは、しおらしさすら感じさせるような、有紀には珍しい声色だった。
『電話した理由は、やっぱりそのレースのこと』
「ヴィントホーゼのことじゃなくて?」
『ああ、そうね。でも、そっちは普通に乗れば勝てる馬だったでしょ』
まるで言われて思い出した風に事も無げに言われてしまうと俺としては肩を竦めるよりない。言う人間の見る目が確かだからこそ、そんな風に評価されるのでは、必死に上を目指している連中が委縮してしまう気持ちも解る。
へえへえお嬢様の言う通りでごぜえますなんて適当な相槌を返してやると、ぽつりと有紀は言った。
『おめでとう』
たったそれだけの短い言葉に、或いはだからこそ、青く深いみずうみのような、どこまでも透明な余韻を湛えていた。
「自分のところの馬が負けたのに?」
『それでも、無性におめでとうって言いたかったのよ』
どこか幼さすら感じさせる物言いに戸惑っていると、言葉は続いた。
『どんなに頑張ったって、慈善で生かせる馬なんていやしないもの。一つでも、二つでも、勝たせてくれるなら、そんなジョッキー、夢みたいなものじゃない』
どうやら、向こうも酒が入っているらしい。
「何を呑んでいるんですか?」
『アイリッシュのロック。知り合いが送ってくれたの。ストレートで呑めって言われたけど、ちょっと無理ね。そっちは?』
「やっすい缶ビール」
『何それ。京都で降りなさい、迎え出すから』
大分楽しくなっているのだろうか、言葉は小気味よく弾んでいる。
「折角ですけど、今しがた通り過ぎました。何より明日もレラの世話があるんでね。もう二日も会ってない」
『何それ、ノロケ?』
「解釈はお好きなように」
小さな窓から外を眺めると、アルコールに浮かされた頭には街の灯りが流星のように見えた。十も、二十も、無数の光点が尾を引いて伸びていく様はどこかレースをしているようで、外から競馬を眺める人間には俺達の事がこんな風に見えているのかも知れないなんて思った。
「もし馬と話が出来たら――なんて、考えた事あります?」
酒の肴だ、特に深い意味なんて無い。そうして何となく口にした言葉だったが、それまで淀みなく言葉を交わしていた有紀が突然黙り込むとひどくいたたまれなくなった。
数秒も空いてしまった長い間、バツの悪さを隠すようにビールを舐めていると、やがて返って来たのは、これまでとは少し違う、どこか控え目な、乾いたような響きすらある笑いだった。
「そんなに変な質問しちゃいましたかね」
『だって、馬って、そんなにメルヘンな存在じゃないでしょう。もっと生臭いっていうか……そりゃあ小さい頃からだから、話せればもっと便利なのにとか、そういう風に考えた事もあるけど』
「大きくなったら、思わなくなった?」
グラスをあおるような間と、喉が小さく鳴った後だった。
『父さんに屠殺場に連れて行かれた話、覚えてる?』
「勿論、覚えてますよ」
『自分と馬の関係って言うのかな、そういうものを、私はその時に理解させられたんだと思う。だから、さっき笑ったのはそのせい。貴方の質問が、あの日の父さんから試されてるみたいで、何となく思い出して、笑っちゃった』
有紀の言葉はひどく距離を感じるものだったが、一方では何故か腑に落ちている自分がいた。馬との関係の中で俺自身がどこに立っているのかは解らないが、彼女の言葉はヒトとして正しい事のように思われた。
あちらは酒が進んでいるらしい、すっかり上機嫌な有紀は受話器に音が入るように氷を鳴らしてからおかわりを作り始めた。呑み過ぎないようになんて月並みな事を言いながら、こちらも胸に籠もった何かを押し込めるように勢いをつけて炭酸をあおる。
空になった缶を手遊びに潰していると、不意に声が届いた。
『大体、言葉が通じても理解し合えない人の方が世の中には多いじゃない』
「突然どうしたんです?」
『だから、馬と話が出来たらってヤツ。そんなの、そもそもからして下らない事だと思うの。だって、私達にとっては、言葉なんかよりも手綱の感触の方がずっと信頼できる、確かなモノなんだから。
貴方だって、そう思わない?』
そんな風に返されたら、騎手として頷かない訳にはいかなかった。
寮でタクシーを降りると、当たり前のように自転車へ乗り換えて厩舎への道をこぎ始めていた。二月の夜中の突き刺さるような寒さに身を震わせて自転車をこいでいると、別に明日でも良かったのになんて当たり前の考えが周回遅れで浮かんできて、己の馬鹿さ加減に気が付くと笑うしかなかった。
単純に顔を見たいのだ。それだけだった。
忍び込むようにして厩舎へ入り込む。
月明かりに照らされた栗毛が淡く仄白い光を帯びると、馬房の中で眠るレラは、まるで彼自身が月となって静かに輝いているかのようだった。眺めているだけで夜が明けてしまうかも知れないと思うほど、思わず嘆息してしまうほど、それは美しい馬だった。
『何見てんだよ』
――喋らなければ、という但し書きが加えられてしまうのが玉に瑕ではある。
『帰ってたなら何か言えよ』
「ああ、ただいま」
返しながら、馬栓棒をくぐって馬房の中へ入り込む。
『何だよ、入って来たって俺は寝るぞ』
「どうぞ寝てくれ、いるだけだ」
『そうかよ、勝手にしろ』
レラはそう言うとどさりと身体を投げ出した。
俺はその脇に腰を下ろして寝藁の上に胡坐をかいた。レラの腹を撫でながら外の窓を見上げると、蒼白い星がきらめいている。もう十年以上もこの厩舎で過ごしてきたのに、こうして馬房から星を見上げるのは初めてだった。
「ここの星も綺麗なもんだな」
『外で見た方が良いだろ。夜の山の方が明るい』
「寝るんじゃないのか」
『お前が声かけてきたんだろ』
「独り言だよ」
『俺だってそうだよ』
レラの滑らかな腹の毛を撫でていたら、クーのボサボサな冬毛を思い出した。澤田は少しくらいはクーに手間をかけてくれるようになるだろうかと考えると不安だったが、そうであるべきだと思った。厩務員の現実を否定するつもりは無いが、それならばクーにもその権利が与えられるべきだ。ちせを使って杉本オーナーを焚き付けてでも、鎬先生を脅してでも、そうなるべきなのだ。
「牧場のこと、覚えてるのか?」
『何?』
「オンボロの厩舎があって、手作りのコースがあって、深い山があって、沢で水が飲めたし、草はそこら辺に良いのが生えてた。野犬がいたけど、お前達はそんなの気にせずに山で夜を過ごして、朝になると帰って来て、出迎えのちせに甘えてた」
ひとしきり語ってみせると、レラは少し考えるような間をおいてから、解らないと答えた。予想していた答えではあったが、実際に聞いてしまうと寂しさはある。
「山の方が明るいって言ってたじゃねえか」
『そりゃあ何となくは覚えてるけど、昔の事だろ』
当たり前のようにレラは言う。馬には当然の事なのだろうか、それともレラの記憶力が極端に悪いのだろうか、それは解らない。だが恐らく、レラはクーの事も忘れてしまっているだろう。確認する勇気は無かったが、レラの答え方を見ていたら、何となく、そう思ってしまった。
ちせの事はどうなのだろうか。一年会わなければちせの事も忘れてしまうのだろうか。いや、もしかしたらちせならば大丈夫かも知れない。何せ生まれた時から一緒にいる存在だ、今更いなくなられても、そう簡単には忘れられまい。
では、俺は。俺の事はどうなのだろう。
『鬱陶しい触り方すんな』
考え事をしていたせいか、腹を撫でる力が少し強くなり過ぎたらしい。レラがそんな風に立ち上がると、栗色の身体についていた寝藁が散って雨のように降り注いだ。
「急に立つなよ」
『自業自得だ』
顔に付いた藁を払いながら下らないやり取りをしていると、有紀に言われた言葉が思い浮かんだ。
「悪い事ではないんだけどな」
そんな風に呟いたらレラがちょっと固まったりする辺りも、やはり面白い。
『前から思ってたけど、お前って割とマジで変な人間だよな』
「こういうのは減点だけど」
ぼやきながら立ち上がり、ケツに付いた寝藁を雑に払っていたら、見慣れたまんまるの瞳がずいと視界に割り込んで来た。
「何だよ」
『こっちのセリフだ』
そうして俺を追い出すように肩口に噛みついてくる。とは言え加減は忘れずに、レラにしてみれば甘噛みですら無いくらいの力で、涎まみれにするだけの嫌がらせなのは一応の優しさなのだろう。
「本当、変な馬だね」
『お前にだけは言われたくねえよ』
言い合ってから馬房を出る。
全く以て、お互い様だ。
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