大越凛太朗【raison d'tre ⑨】

 絶好のスタートとは言えないが、ゲートを出ればそれで良かった。出てさえくれれば放っておいても周りの馬の足音を怖がって行きたがるから必要以上に止めないだけで良い。元々スピードはある馬だし、後先考えられないパニック状態でぶっ飛ばしていれば自然とハナを取る形になる。控室でバカみたいな大声の渡会と話していた内容は騎手全員に筒抜けだし、クーがイレ込んでいた事はゲート前の数分間で誰の目にも明らか、となればわざわざ追ってくる相手はいない。必然の単騎逃げだ。

 三、四馬身ほど抜け出した所で上半身を身体の内側へ絞り込み、他の騎手の目を引いてしまわないように手首は返さず、腕力だけで押さえ込むように気合を入れてじっと堪える。

 スタンド前を通り越し内埒沿いをピッタリと這わせるように第一コーナーへ。コーナーの角度を利用して後方を振り返ると、番手を取ったのは予想通り渡会だった。俺達から十馬身程度離れて渡会のゴールドブレンドがおり、そこから更に三馬身程度離れた所に後続が続いている。

 先頭を行く俺達が【競馬にならないオーバーペース】である事はこのレースにとって揺るぎようがない前提であり、そうなると、俺達の存在は他の連中の思考から完全に消え失せる。そんな風に先頭が消えたレースでは押し出された形の番手が逃げ馬の役割を担う構造になるから、逆に言えば、無駄な行き足を使わず、通常の逃げよりもローコストでペースをコントロール出来る。ましてや先行が絶対的有利の小回りコースとなれば、全てを知っている渡会であれば、主導権を得る為に番手を志向する事もまず必然。

 そしてそれこそが、渡会がペースを握る事こそが、俺達には重要だった。

 このレースで俺達が少しでも長く消えている為には、俺達の事を決して信用しない番手の存在が必要だ。だからこその渡会。ついさっきゲートの中で醜態を晒していた騎手と肉になりかけの馬のコンビなんて、ベテランであればあるほど信用できるはずがない。

 第二コーナーにさしかかる頃になると、力づくではあったが数百メートルも押さえ込んで来た甲斐あってどうにかペースも落ち着いてきた。手綱の感触はお世辞にも折り合いが付いているとは言い難いが口を割っている訳でもない、喧嘩をしながらでも走れているのなら上等だろう。

 一足で飛ぶ距離は変えず、脚運びのリズムを少しずつ穏やかなものへと整えていく事で馬自身にも悟られないように緩やかな速度へとすり替えていくが、そうして苦心して息を入れさせてもまだ前一〇〇〇がハッキリ一分を切ってしまうような感覚だ。

 緩やかな下りに入りながらもペースは少しずつ落ちていく。コーナー出口でもう一度後方を確認すると差は詰まらずに十馬身以上をキープしている。当然と言えば当然だろう、ここまでの四ハロンは間違いなく超ハイペース、恐らくこのまま行けば一〇〇〇地点で五十八秒台。下級条件戦でそんなペースを叩き出せば潰れるに決まっている。

 ならばと、もっと極端に、向こう正面は十三秒台のつもりで走ってやっても良い。なにせ後ろはギリギリまで追ってこられない。

 腹をくくってもう一段階手綱を絞った。

 ペースが極端に落ちている事には遠からず気付かれるだろうが、意識の外に置いていた馬が突然勝負の舞台に上がってきても即座に対応できるはずがない。どれだけ経験を積もうとも思考にはコンマ数秒のラグが生じる。ましてや操る相手はアクセル一つで速度が上がる機械ではなく生身の生き物、こちらの意思の通りに動いて貰う為にはきちんと手順を踏まなければならない。コンマ数秒のラグも雪だるま式に膨れ上がって数秒の間を作る。高々二分程度で終わってしまう勝負のうちの数秒、その重さはとてつもなく大きい。

 これまでの展開は出来過ぎな程だった。最大の不安要素だったゲートを無事に出て単騎逃げに持ち込み、想定通りに渡会に番手を取らせてペースを落とし、どうにか息を入れさせて二〇〇〇を最後まで走らせる。滅多に無いレベルで、全てがこちらの思惑通りに進んでいる。

 だが、ここまで積み上げてようやくスタートラインに立てたようなものだ。これだけのハンデが無ければ現状のクーでは勝負にならない。勝負はここからなのだ。

 恐らく、俺達のペースが極端に落ちている事は既に後方集団も勘付いているだろう。振り返るような真似は疑念に回答を与えてやるようなものだからするはずもないが、迷彩は解けてしまったと考えなければならない頃合いだ。

 このまま逃げ切れるはずも無い。もう一度、勝負をしなければならない場面が必ずある。

 残り八〇〇を超えて第三コーナーに入る直前から合図を送って少しずつ速度を上げ直す。コーナー入口で確認した後方集団先頭の渡会・ゴールドブレンドとの距離はやや詰まって七、八馬身か。

 苦し気に荒くなってきたクーの鼻息を聞きながら、手綱を持つ手が震えないようしっかりと握り直して、最期のつもりで肺の中の空気を全て吐き出した。

 心臓が止まろうが、脚が砕けようが、絶対に最期まで走らせる。

 最終コーナー入口。それまでは埒沿いにピッタリと走らせていたコース取りを遠心力に逆らわず外へ振られながら最後の後方確認に振り返る。

 隊列は外に膨らんでいるが番手は変わらず渡会が五馬身後方、先頭の特権である最内の経済コースをしっかり押さえて追い上げてきており、その外へ貼り付くように一番人気の北浜・シャイニーメイガスが回ってきている。

 北浜が進もうとしているコースは本来なら俺とクーが通っているはずだった。しかし、後方から追い上げて来た北浜には俺達が外へ外へと振られていく様の全てが見えている。コーナーの直前までは内埒を舐めるように進んでいたはずの馬が中腹で二頭分近くも膨れていれば答えは明白、このまま直線に向く頃には外へと膨れるコーナー設計と相まって遥か外へと弾き出され、となれば渡会の真横は綺麗に空いている――そう算段してしまう。一瞬。しかしレースではその一瞬こそが全て。絶対に内を回さなければならないという重圧を背負ったこのレースで、一度見えてしまった理想の絵からはそう簡単には逃げられない。

 だから俺も、北浜が食い付いた針が喉元深くまで食い込んでくれるように、外へ流される進路を無理に留めようとはしない。

 残り四〇〇のハロン棒を通り過ぎてから一呼吸の後、内の方から二頭の蹄の音が響いてくる。クーの首を力尽くで押し込みながら鞭を左手に持ち換え、力のままに流されていた進路を絞り内へ向けて手綱を堪える。

「います!」

 北浜の怒鳴り声が耳に届くと同時、全力で左鞭を振り下ろした。

 他より一足先に直線を見た刹那、背後から衝撃が襲ってきた。一切の加減が無い接触。声に構えていなければ落とされていたかも知れない。渡会を埒へと押しやりながら俺とクーのケツを弾き飛ばすように、北浜が間を割ろうとしている。

「どけってんだよ!」

 絶叫の裏で右脇腹に鋭い痛みが走った。固い何かを捻じ込まれたような痛み、俺を外へ押しやろうとするような力、恐らくは北浜からの一撃だろう。

 瞬間覚えたのは怒りでは無かった、想定を超えて迫られている事への危機感だった。やり返してやる暇も余裕もあるはずもない。ひたすらに前へ向かって首を押し、内を閉めて鞭を打つ。

 残りは二〇〇を切っている。

「渡会ッ!」

 怒鳴って焚き付けると応じるように内からの圧が増した。こんな騎乗をされれば渡会だって頭に来ていないはずが無いのだ。外と内から同時に圧をかけて北浜をすり潰す、落ちたく無ければ引くしかない。

 それから一、二秒の間、北浜はそれでも粘ろうとしていたが、やがて状況を察するとそれ以上踏み込む事を諦めたようだった。

 並走していた三頭から真ん中がずり落ちればとうに限界を迎えているクーも連れて下がろうとする。そしてそれは渡会の馬も同じだ。

 残り一〇〇メートル、ほんの六秒程度の間。しかしその時間で生死が決まるのだ。ここで負ければ、踏ん張れなければ、クーは死ぬ。

 俺は叫んだ。クーの首を押しながら、あの日ベランダから飛び降りた瞬間を思い出して、呂律なんててんで回っていなかったが、叫んだ。

 どうせ死ぬならここで死ね。

 そう叫んだ。

 そうして、気が遠くなるような、たった六秒の間、それは気のせいだったのだろうか、けれども確かな事だったように思われるのは、クーが自分の意思でハミを取り、走ってくれたような、そんな気がした。


 ゴール板を通り過ぎコーナーまで流していると、内を走っている渡会から、苛立ちを隠さない声だった。

「気でも狂ったのかよ」

 言い返してやろうとするが、言葉が出てこない。どうやら頭が回っていないようだった。

「やっぱマトモじゃねえな、お前」

 吐き捨てて渡会は去って行く。

 クーも疲れ切っているらしい、レース前の暴れぶりなどどこへやら、力なく流して走るのが精一杯のようだ。労いの意味を込めて首に触れると、汗で湿りながら確かに熱を発している。

「生きてんじゃねえか」

 ようやく絞り出した声は自分でも解るほどにかすれていた。

 検量室に引き上げると荒れ模様の雰囲気だった。槍玉に挙げられているのは北浜らしい、全方位から睨まれて顔を青くしている。遠巻きに眺めながら列に並んで検量の順番を待っていると、どこからか近付いてきた慎一が言った。

「流石に今回はお前からもヤキ入れとけよ」

「何がだ」

「最後の直線前、思いっきり肘入れられてんじゃねえか。あんな競馬許しちゃいけねえよ。全体の安全の問題だ」

 一瞬考えてようやく思い当たる。最終コーナーの出口でもみ合っていた時に脇腹へ刺さったナニカはどうやら肘だったらしい。なるほど確かに、言われてみればそんな感触だったかも知れない。

「問題があれば裁決委員の方で判断するだろ」

「結果に影響が無い制裁なんて精々罰金だろ。いっぺんシメとかなきゃ、また同じ事やらかすぞ」

「なら良いじゃん」

「何がだよ、全然良くねえだろ」

 疲れていた事もあり、絡んでくる慎一を蠅にするように手で払う。

「その程度ならまた勝てる」

「そういう問題じゃねえよ。あんなの、下手すりゃ死ぬぞ」

「そういう問題なんだよ、少なくとも俺達にはな」

 やがてレースが確定すると、俺はすっかり力が抜けてその場に座り込んだ。そうして周りの目を気にすることも無く腹の底から深く深く息を吐くと、その瞬間、小さな、けれどとても大切なものが報われたような気がした。

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