大越凛太朗【raison d'tre ⑧】
控室でそれとなくダイナースの勝負服を探す。鞍上は栗東村山厩舎三年目の北浜利一、熱心な営業でデビュー以来星を伸ばして来たが昨年末に節目の五十勝をあげて減量の恩恵が軽くなって以降は苦労しているらしい事も含めて把握している。ローカルだから当然と言えば当然だが、彼のように上昇意識が強い若手が多い事はこちらとしては有り難い。
お目当ての勝負服はすぐに見つかった。数レース前の俺のように待機室の前で厩舎関係者と簡単な打ち合わせをしながら、パドックに陣取ったぽっこり腹のグラサンスキンヘッドに小さく会釈するような仕草が見えた。
俺は、その仕草から滲み出ているカタさに内心で拳を握りながらも、決して表情に出さないよう自身に言い聞かせ、いかにもくたびれた風に手足を気怠く投げ出してベンチに座った。
「流石に絶好調男は態度もデケエな、おい」
美浦の大ベテラン、渡会のオッサンが部屋中に聞かせるような大声で言った。このレースは特に若い乗り手が集まっているらしく、俺程度の相手でもこんな風に言ってきてくれるのは御年五十歳というこのオッサン位だ。
「今日はもうお腹いっぱいですよ、本当に疲れました」
「そんな事言いながら次だって狙ってんだろ、いやらしいヤツだね」
派手な音を立てながら俺の隣に乱暴に座ると、声の大きさは変えずに会話を続ける。このオッサンの場合はこれが地声だから、特別大声になっているつもりも無いのかも知れない。
「次なんてそれこそ無理ですよ、絶対に無理。なんせ未勝利馬の格上挑戦ですもん。色々付き合いで乗りに来ましたけど……ま、実際問題無理ですね」
それとなく周囲の様子を伺うと、他の若手は皆それぞれレースへ向けて支度を整えながら俺とオッサンの方に聞き耳を立てているようだった。ローカルに回ってくるベテランというのは面倒な存在だ。大して実力がある訳ではないが先輩だから仕方なく立ててやるという扱いで、若手にしてみれば自分から率先して相手をしたくはないだろう。渡会などはその典型で、今まで散々煙たがられていた所にふらっと現れた俺が相手をしているから、物珍しさで眺めているという訳だ。
「調教で乗ったけど、走る気が全然無いですもん。変化付けるのにぶっつけでチーク試すみたいですけど、下手したらかかってペースぶっ壊しちゃうかも」
「おいおい、大丈夫かよ」
「真面目な話、そうなっても勘弁してください。その時は迷惑かけないように止めずに行かせちゃいますから」
苦笑を浮かべながら言ってみせると、渡会は試すように俺をじっと見てから、やがてふっと息を吐き、解ったと勢いよく言った。
渡会も伊達で五十まで騎手をやっている訳ではない。こうした立ち振る舞いにも彼なりの計算が働いている。
「ま、偶には人気ジョッキーさんもツライ馬に乗ってくれにゃ、俺らが面白くねえからよ」
「何言ってんですか、俺なんて辛い馬ばっかりですよ」
そうして話していると、表での打ち合わせを終えた北浜が帰ってきた。
「一番人気じゃねえか、羨ましいねえ」
すぐさま絡みにいった渡会に北浜の表情は解り易く引きつっていたが、大ベテランはお構いなしに絡み続ける。
「ダイナースさんに乗れるんだから、今の若手は得だよ。俺達の頃なんて良い馬はみーんな先輩が持ってっちゃうんだから、修行中の俺らは残りモンさ」
なるほど、嫌われる事が良く解る発言だ。北浜も真面目に相手をしていないのだろう、愛想笑いを浮かべながら聞き流している。
「これで負けたら騎手の腕だぜ」
渡会はそんな風に脅しをかけてから立ち上がった。そろそろ時間らしい。
控室を出て行く渡会を後ろから見送りながら、その背を射殺すような視線で睨み付けている北浜の背中を軽く叩く。
「相手すんな、アレでプレッシャーかけてるつもりなんだから」
そんな風に笑いかけると、実は初対面だったが、一発で距離が詰まる。
「あんな風にはなりたく無いっすね」
「そういう事、大丈夫そうじゃん」
十も年下の若手と一気に近付ける機会をくれたのだから、俺からしてみれば渡会には感謝しかない。
「俺も出されたんだけど、最終コーナーの位置取りの指示があっただろ?」
控室から出る間際、隣を歩いていた北浜にそれとなく聞くと、北浜は一拍の間を置いてから小さく頷いた。
「そういうオーダーには注意しといた方が良い、あの手の連中は何より自分でコントロールできる騎手を欲しがるから」
整列しながら伝えると北浜は露骨に訝しんだ視線を向けてきたが、俺としても特段慌てる必要は無かった。本音だからやましさなんて微塵も無いし、演技して隠す必要も無いのだ。
「そんなだから俺はクラブから好かれてないって話さ。でも、お前は上に行きたいんだろ?」
そうして笑ってみせると北浜はすっかり打ち解けた風な笑顔を見せてくれた。俺は何一つとして嘘を吐いていないし、北浜のように活きの良い若手は俺の事を低く見ているだろうから、このアドバイスはきっと素直に聞き入れるだろう。
「馬の力は抜けてんだから、リラックスして乗れば大丈夫だよ」
最後にそんなダメ押しをしてからクーの元へ向かう。
小倉二〇〇〇はスタンド前の直線からのスタート、四〇〇近く直線を走ると第一コーナーの手前から僅かに上り勾配がつき始める。小さな丘を行く感覚で第二コーナーまで緩やかに登り切るとそこからは上った分を少しずつ下り、向こう正面からはほとんど平坦に進む。第四コーナーのスパイラルカーブ出口で馬群をばらけさせながら迎えるのはゴール板まで三〇〇も無い短い直線であり、コース構造上先行馬が有利とされているのは間違いない。
クーは明らかにイレ込んでいた。待機所での輪乗りも危なっかしいので少し離れた所で隔離しておいたがチークが効き過ぎている事は明らかだった。クーが激しく首を揺すると、鞍上の俺も凄まじい勢いで振られる。ロデオでもないのに首やら腰を痛めそうな勢いの揺れ方だ。
「本当に大丈夫かよ」
ゲート前でそんな風に声を掛けてきた渡会はくれぐれも面倒事に巻き込んでくれるなとでも言いたいのだろう。
「飛び出したら前でポツン出遅れたら後ろでポツン、迷惑はかけません。単勝万馬券の馬ですから、どっちにしても気楽です」
そんな風に返しながらも、手応えはあった。チークに視界を遮られる恐怖によって、調教で跨った時のような乗り手への敵対心は完全に覆い隠されていた。今のクーは恐怖でパニックになっており、恐らくは本能的な部分で、この危機を乗り越える為には手綱からの指示に従うしかない事を察したのだろう。
目論見通りだ。
「ホント、人間ってクソだよな」
基本的に全ての馬が格上だが、特に見るべき馬は北浜のシャイニーメイガス一点。他の馬は展開次第でどうにかなるかも知れないが、あの馬だけは展開が味方に付くだけでは勝てない。
ファンファーレが終わり各馬の誘導が始まると案の定クーは暴れた。ゲートには無理矢理押し込んだものの一向に落ち着く気配は無く、狭いゲートの中であちこちに身体をぶつけてしまう。
ゲートとクーの身体に足を挟まれる痛みに耐えながらどうにか宥めていると、隣に入って来た渡会と一瞬目があった。
その瞬間、渡会は確かに苦笑していた。気の毒だと言いたげな表情を見せていた。
だから俺も笑った。最後のカードを手元に引き入れた笑みは、格好悪い愛想笑いに見せかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます