大越凛太朗【raison d'tre ⑦】

 第3レースが終わってまだ間も無い時間、気持ち早めにパドックへ顔を出すと、既に数名のファンが陣取って熱心に馬を眺めていた。

 二月第一回の小倉は基本的に東京と京都の裏開催扱いであり、今日もその例に漏れずやっとの思いでメインに準オープンを据えているようなドが付く程のローカル競馬なのだが、そうした日だからこそ、わざわざ競馬場に足を運んでパドックを覗き込む視線には独特の雰囲気が漂っている。府中などで時折聞かれる浮かれた若者や家族連れの朗らかな声とは対極に位置する、ある意味では競馬場らしいと言えるのだろう、鉄火場さながらのヒリついた空気。関門海峡から吹き付ける寒風を前にしてもいささかも衰えないそうした玄人ファン達の熱気は待機する身にも自然と気合を入れてくれる。

 今日は1、2、4、6、8、11レースで六鞍。杉本さんが自分の馬で用意してくれた鞍が1、8、11レースでクーを含めて三鞍。他に知人のオーナーさんに声を掛けて回してくれた鞍が2、6レースで二鞍。そして有紀から回された鞍が次の第4レース三歳未勝利戦、栗東井上厩舎ヴィントホーゼ号。

 事前に有紀から指示があった通り控室の表で突っ立っていると、井上厩舎のスタッフらしい人物が手を挙げながら近付いてきた。俺より少し年上だろうか、三十代の中頃に見えるが雰囲気はいかにも調教師の卵といった風で、恐らくは能力も優秀なのだろう。

「助手の船井です、どうぞよろしく」

 さわやかに差し出された手を軽く握り返すと、船井は逆の手でパドックの柵に寄りかかっている男をそっと指した。スキンヘッドにサングラス、ぽっこりと出た腹のだらしなさが緊張感を和らげているが、それがなければ誤解を生みそうな風貌だ。

「吉川さんから伝言です」

「吉川って、ダイナースのマネージャーさん? あの人がそうなの?」

 何となく尋ね返すと、船井は頷きながらも少々顔をしかめた風になった。

「大越さんはダイナースの馬初めてなんでしたっけ?」

「そうですね」

「あの人の指示は聞いておいた方が良いですよ。言う通りに乗れない乗り役はバッサリ切るって有名なんですから」

 まるでパシリみたいなビビり方だった。お前のことなんてどうでも良いけど、ウチの厩舎、或いは俺の将来に迷惑かけないでくれよ。そんな情けない本音を隠し切れていない忠告。内心ムッとしたが努めて愛想よく頷いておく。

 そうして聞かされた内容も特段的外れな指示では無く、そう乗って欲しいというのならそのプランへ寄せていく事もやぶさかではないと思える内容だったが、如何せん細かすぎた。道中何番手で残りこれくらいから押してくれとかそんな程度のざっくりした指示ならともかく、ハロン刻みのラップ管理に注文が付いたりコーナーの位置取りを埒から何頭分単位で指定されたりと、真面目に聞いていたらそれだけで肩が凝りそうな内容だ。

「善処します」

 承知したと返す訳にもいかずそんな風に逃げようとすると、船井はいかにも不安そうな顔で縋り付くように言った。

「なら最低限第四コーナーの位置取り。埒から三頭分以内って指示だけはどうにか承知してください」

「何かあったんですか?」

 あまりに必死な態度に違和感を覚えて問い返すと、船井は僅かに躊躇うような素振りを見せてから、心なし小声になって言った。

「昨日の競馬で、人気してたダイナースの馬が外に振られて届かなかった事が続いたんです。会員からの反応も荒れてきてるみたいで、気にしてらっしゃるようなので」

 小倉競馬場の特徴でもある最終コーナーのスパイラルカーブは、直線を向いた時に馬群が外にばらけるように、コーナー出口に向かうにつれて角度が急激にきつくなるように敢えて設計されている。遠心力に逆らって内を走らせようとすると直線に向けてスピードに乗せてやる事が出来ない為、後方からの勝負を狙う馬が外に膨れることはある程度仕方がない構造だ。

 そんな風に考えていると自然と表情が強張っていたのだろうか、船井は念を押すように続けた。

「どうにか。外に馬を置いて回すとか、ともかくそこだけは乗ってください」

「承知しました」

 半ば諦めの境地で頷き、会話を打ち切って控室へ引き上げると、待ち構えていたかのように慎一が近付いてきた。

「内回せって言われただろ?」

 年齢的には俺よりも一つ上だが、不思議と昔から敬語を使った事が無かった。特別優しかったり面倒見が良い訳ではないのだが、向こうから気安く話かけてくるから自然とタメ口で会話をするようになってしまう。斎藤慎一はそういう、ある種損とも言えるキャラだった。

「アレ、定番なの?」

「定番と言えば定番だ。俺も朝一であそこの馬に乗ったけど、会員へのポーズで出す指示はある程度固定化されるからな。で、マストになるオーダーも結局はそれ一本だから解り易いと言えば解り易い」

「なるほどねえ」

 いつぞや有紀から聞かされた理念とはまるで話が違うが、これも現実というヤツなのだろうか。或いは委縮した厩舎サイドがクラブ側から出された指示を過剰解釈している可能性もある。いずれにせよ、指示系統が複雑化したせいで現場に降りてくるオーダーが形式的になっており性に合わない。

「やっぱクラブ馬は向いて無いな、俺」

 控室のガラス越しにパドックの柵に寄りかかる吉川の姿を遠目に眺めながらぼやくと、慎一が調子よく続けた。

「そりゃ有り難いね。俺らからすりゃお前みたいなヤツにそうそう来られても困るんだよ」

「ひっでえ言い方」

 こんな言い方をしていても慎一は決して勝てていない訳ではない。ローカル中心とは言え毎年安定して二桁以上の勝ち鞍を並べており、リーディングでも俺より上が定位置なのだ。

「当たり前だろ。ローカルのクラブ馬ってのは俺らみたいな落穂拾いか、これから上を目指す若い連中がアピールの為に乗る馬だよ。表で乗れる人間は裏の鞍を荒らすような真似すんじゃねえ」

 僻み臭い言葉を吐き捨てるとメットの上から俺の頭を勢いよく叩いた。一応先輩なのでやり返してやる訳にもいかず舌打ちだけ返しておく。

「悪い事ばかりじゃないさ。そういう場所でその勝負服着てりゃ、他の騎手も敢えて内を防ぎに行こうとはしないからな。乗り易いぜ」

「何だそりゃ」

「わざわざ変に目を付けられたく無いって事、その服自体が魔除けなのさ」

 そうして真偽の定かでないような与太話に付き合っているうちに呼び出しがかかった。

 控室の前に整列して他の騎手が出揃うのを待つ僅かな間、かぶりつきで仁王立ちしていたオッサンが突然声を張り上げた。

「裏切りもん!」

 実際の所俺に向けて言ったという確証は無いが、明らかに俺を睨んでいたから多分俺なのだろう。

 突然の事態に呆気に取られたのはほんの一瞬だ。気を取り戻してすぐに馬達が動揺していないかをざっと眺めたがどうやら影響は無さそうでまずはホッとする。

「金曜の時点でネットで話題になってたからな、今日の騎乗」

 隣に立つ慎一が茶化すように耳打ちしてきた。

「何、今のと関係あんの?」

「アンチ宮代の大越がついにダイナースに乗るって話だよ。宮代に魂を売った裏切りモンって意味だろ」

 想像の数十倍も下らない話に緊張していた肩の力が抜けていく。

「ハナから売れるほどの魂なんて持ってねえよ」

 鼻で笑いながら、それでもきちんと礼はした。


 レースは正直出来過ぎな程だったように思う。それだけきちんと分析した上での指示だった事もあるのだろうが、ゲートさえ出てしまえば後は想定通りの展開に進み、気が付けば先方からの注文通りに収まっていた。最後のコーナーもきちんと埒から二頭分の所を丁寧に回してやっており、カンカン場では船井助手がホッとしたような表情で出迎えてくれた。

「有り難うございました、完璧ですよ」

「それはどうも」

 差し出された手に軽い握手を返しはしたが、腹の中では何とも言えない気分だった。勝ちこそしたもののどうにも気の抜けたレース、ローカル競馬に漂う閉塞感とでも言おうか、あまりに想定通りにことが進み過ぎた。

 或いは、とも思う。少しばかり乗り手の間で魔除けが効き過ぎているのではないか。

 モヤモヤとした気分を抱えながら口取りに向かうと、ウィナーズサークルに吉川が現れた。間近に見るとよりでっぷりとしている腹をさすりながら自然なふうに近付き、目の前まで来るとサングラスを外した。

 喩えるなら生まれたてのとねっこみたいな、意外とつぶらな瞳だ。

「初めまして、ダイナースのマネージャーをしております。吉川孝弘です」

「大越です、今日はありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ。実は社長から提案された時には少し迷ったんですが、良い判断でしたね。流石に見る目がある」

「社長?」

 吉川は大きく頷いてから、

「ほら、有紀ちゃんのこと」

そんな風に気安く言った。

「知り合いなんでしょう? 突然大越を試したいなんて言われたから戸惑ったけど、やっぱり騎手を見る目は確かだね。乗馬のセンスも良かったから、彼女」

「吉川さんは、昔から宮代さんの牧場とお付き合いが?」

「まあね。今じゃこんなになっちゃったけど元々は育成で乗ってたんだ。彼女に乗馬教えたのも俺、もう二十年近く前かな」

 太鼓のように腹を叩いてみせながら、吉川は朗らかに言う。

「赤ちゃんの頃から知ってるからね、娘とは言わずも妹みたいなもんさ」

 そうして不意に俺の手を握った。ふかふかしていそうな腹とは違う、厩仕事でごつごつとした手に痛い位の力を込めてくる。

「騎手は女癖が悪い人も多いから、心配でね……腕の方は信用させて頂きますけど、くれぐれも妙な事はしないでくださいね」

 スキンヘッドのグラサン野郎に相応しい、見てくれ通りの物言いだ。

「その点はどうぞご安心を、何なら今日の競馬よりも安定です」

 ありもしない心配をしている目の前のオッサンがどうにも可愛らしく思えてしまい、自然と笑いながらそんな風に返した。


 第6レースの四歳以上下級条件戦を勝つとにわかに周囲がざわめき出した。四鞍乗って三勝に三着一回、全レース馬券圏内に持って来ている成績は確かに我ながら破格であり、周りが多少やかましくなる事も頷ける。

「他人の庭荒らしやがって」

 ロッカールームで顔を合わせた慎一が厭味ったらしく言ってきたが聞き流して杉本オーナーの勝負服に着替える。ステッキを手に軽く目を瞑りながら一度深呼吸して意識を落ち着けようとしていると、またも横から声が届いた。

「ま、どんだけ調子良くても次はねえな。ブッチギリの不人気だろ」

 今日何勝したところで次を負ければ意味が無い。そんな俺の心情を知ってか知らずか、いずれにせよ今の俺には一番響く言葉に違いないはずだった。

 だが、不思議と動揺はなかった。負ければ終わり。どれだけ慌てた所でそれ以上にもそれ以下にもならない。背水の陣というヤツだろうか、開き直るより無いから却って気楽なのかも知れない。

「慎一さんさ、そういうのフラグって言うんだよ」

 ロッカールームを出る時にふと、あのベランダから逃げ出した夜の事を思い出した。死ぬかもしれないと思ったけれども、最後まで震えたままだったけれども、気持ちのままに手足を動かして空へと飛び出した時に不思議と全てから解放された、その夜のこと。

 だからクーも、たとえ死ぬのだとしても、せめてその一瞬を得る為に自分の意思で飛ばなければいけない。そう思った。


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