大越凛太朗【raison d'tre ⑥】

「――ではそういう事で。私は当日京都だから、詳細は現地にいる吉川というスタッフとの判断で進めて頂戴。他に必要なデータがあれば後で送りますけど、何かあります?」

 京都駅から目と鼻の先にあるホテルのラウンジで、テキパキという言葉が形を持ったかのような振る舞いで宮代有紀は言った。

 俺は突然目の前に現れた高そうなコーヒーカップを手に、ほんの少し考える。

「吉川さんって女の子だったりします?」

 そんな事を尋ねると呆れた風に鼻を鳴らされたが、以前のように付き合いが悪い訳では無かった。

「私が小さい頃からウチがお世話になっているレーシングマネージャーのオジサンだけど、問題が?」

 宮代有紀はカップに口を寄せながら、そんな風に返してくる。

「いやいや、その方が余計な力が入らないから助かります」

「冗談言ってる余裕はあるんだ」

「そりゃね。乗ってみた感触は良かったし宮代さんの所の馬なら人気にもなるだろうから、有難く乗せて頂きます」

 ――あの後、クーの打ち合わせを終えて鎬厩舎を離れた直後に携帯が鳴った。珍しい着信相手に呼び出され、五件隣の見知らぬ厩舎にお邪魔すると、競馬界を席巻する宮代軍団のナンバー2にして我らがへっぽこ馬主の友人、いつものようにスカした態度の宮代有紀が立っており、聞けば今週の小倉で三歳未勝利を使う馬の追い切りをするから乗れと言う。後はもう美浦に帰るだけとなっていた俺は正直さっさと栗東を出てしまうつもりだったのだが、他所の調教師の前で業界最有力の馬主様に頼まれては無下に断る事も出来ず、言われるままに追い切ってやると上々の手応え。十分勝ちを見込めると思いますよ、と思ったままの事を正直に伝えてではさらばとズラかろうとしたのだが、更に更に呼び止められ、聞けばこれから京都のホテルで打ち合わせがあるから駅まで送ってくれると言う。さしもの俺も訝しんだが、最寄り駅から新幹線が出る駅までを慣れない鈍行で揺られる苦行を想像すると手間が省ける事は有り難く高級そうなスポーツカー(美浦に乗りつけたヤツとは違った)にホイホイと乗り込んだのであった。そうして、京都までの車中で先程追い切った馬の鞍が空いていることやちせの承諾は得ていること(別にちせの承諾は必要無いのだが)、小倉で頼みたい騎手が他に見つからなかった事などがつらつらと語られ、要するに俺への騎乗依頼だったらしい。その後到着したホテルのラウンジで先方の調教師さんに改めて電話で挨拶をしてから簡単な打ち合わせをしていたのだが、どこからか注文もしていないはずのコーヒーが出てきた、という流れだった。――

「これ飲んでも良いんですか?」

「駄目なら出さないでしょ」

「でも、何も注文してないですよね」

 間違って届いたものじゃないだろうかなんてどぎまぎしながら言うと、宮代有紀は力が抜けた風にころころと喉を鳴らして笑った。

「大丈夫だってば。もし請求されたら一緒に支払いしておくから」

 ネタ晴らしとでもいうような悪戯っぽい表情を覗かせると、隅に立っているスタッフの方を見るように視線で促してくる。

 そうして促されるままに視線を向けるとそれだけで即座に察知され、丁寧な会釈が返ってきたのだった。

「レイカウントの有馬と年度代表馬の祝賀会、ここでやるの。今日はその最終確認と支払いだから」

「VIPってヤツですか?」

「そんなに大袈裟なものでは無いでしょうけど、諸々お世話になってるからね」

「はー……大したもんですね」

「どうせならランチでも取っていく?」

 一瞬考えたが、間を空けずに首を横に振った。

「今日は駅弁食うので」

 往路は昼過ぎの出発となって駅弁と縁が無かった為、昨日の段階から帰りは駅弁と決めており、こればかりは譲れない。そんな思いで大真面目に返したのだったが、宮代有紀は堪え切れなくなったように吹き出していた。

「確かに、たまに乗ると食べたくなるからね」

 ウケを狙った訳ではなかったのだが重々しい空気よりは砕けていた方が良い。一息入れるつもりで躊躇っていたコーヒーに口を付けると、厩舎のインスタントとは比べ物にならない深い香りがする。

「ちせちゃんから聞いたけど、自分の牧場の馬に乗るんですって?」

「俺の牧場じゃないですけどね」

「でも一時期見てたんでしょ」

「そういう意味なら、そうとも言えるのかな」

 そんな会話をしながら、ホッと一息吐くようにコーヒーを味わっていると、不意に届いた呟きは意外だった。

「しんどい面もあるだろうけど、やっぱりそういうのって羨ましい」

 会話を繋げる為の意味のない呟きとは違う、意図せず漏れてしまったような響きを持っている言葉だった。少なくとも、こんな高級ホテルのVIP待遇を受けられる人間が俺に向ける言葉ではないように思われた。

「どういう意味で?」

 だから、何となく興味をそそられて尋ねた。無視されても黙ってコーヒーを啜っていれば良い。それ位の気持ちだった。

 宮代有紀もまた静かに、誰へ向けるともないような口ぶりで答える。

「馬やってる牧場に生まれて、一度も騎手に憧れない子なんて、きっといない。テレビに映った自分の家の馬を見る時は、感謝も、悔しさも、怒りも、憧れも、全部、自然と鞍上の人に向いてしまうものだから」

 語っている宮代有紀の表情が自然な分だけリアリティを持って伝わり、騎手の立場としては照れくささを覚えるような状況だった。そうして照れ隠しに薄笑いを浮かべていたのだが、そんな俺の態度が気に食わなかったのだろうか、

「ちなみに、ヘグった騎手を見て【あんなヤツ乗せる位なら自分が乗った方が良い】から騎手に憧れるのが大抵のパターン」

いつもの調子で吐き捨てられると苦笑に変わらざるを得ない。

「目指さなかったんですか?」

 ほんの少し、皮肉めいた気持ちを混ぜ込んで聞いてやる。

「親に内緒で競馬学校の資料を取り寄せて、ウチの育成で乗馬の練習もさせて貰ったし、毎日体重計とにらめっこもした。でも、普通の女の子がアイドルに憧れる事と同じだったんだと思う。中二の終わりで諦めた」

 そこでふと言葉を止めると、俺の顔をじっと見つめた。それから少し躊躇うような間を置いてから、けれどもやはりという風に、僅かだが意を決したような雰囲気で尋ねてきたのだった。

「貴方は、どうして騎手に?」

 滲ませた躊躇いの様から俺の過去の事を承知の上で聞いている事は解ったし、なんとなく、この雰囲気ならサラッと話してしまえるような気がした。だから俺も力を抜いて昔話をしてやる事にした。

「今の話の後だと申し訳ないけど、俺は早く一人になりたかっただけですよ。

 俺、いわゆる養護施設の出身なんですけど、合わなくて、さっさと独り立ちしたかったんです。だから警察とか自衛隊考えていたんですけど、中学の教師に競馬好きのオッサンがいて。就職したいって話をしたら、チビだし運動神経良いからどうせなら競馬学校受けろって言われて。で、たまたま引っかかって。

 そんなですから、生きていければ仕事なんてなんでも良かったってのが本音で、特別騎手になりたかった訳では無いんです」

「そんなにアッサリ言われると流石に腹立つかも」

「ちゃんと相応の苦労はしましたよ。同期で未経験者は俺だけでしたから、他の連中が当たり前にやれてる事も全然やれなかったし……でもまあ、それまでと比べれば幸せでしたから、大して苦にはならなかったですけど」

 昔語りをしていると何故だかクーのことが頭に浮かんできて、俺はG1とは言わずもオープン競争くらいは勝てたんだろうな、なんてふと思った。

「でも、目指してた訳じゃなくても、競馬学校に受かった時は嬉しかったです。これで生きていけるって、人生何とかなるかも知れないって、ようやくホッと出来たみたいな、そんな気がしたので」

 クーはきっと、地獄を抜け出せなかった俺自身の姿なのだろう。馬と出会わないまま、自分の命の価値すらも他人に委ねるしかできなかった頃の俺なのだ。生きる為の、戦う術を知らないまま、ただ周りを恨むしか出来なかった頃の俺なのだ。

「結局、俺が騎手をやっている理由は馬が走る理由と同じなんだと思います」

「それは、どういう意味?」

「俺は別に騎手になりたかった訳じゃないし、馬だって別に競走馬になりたくて生まれた訳じゃない。ただ、生きる為にやっている。生きる為に勝たなきゃいけない……なんて、そんな事を思ったので」

 自分でも不思議なくらいに腹の底から思っている事をストレートに吐き出すと、宮代有紀はなるほどねと頷いた。



 美浦に戻るとレラは馬房で昼寝をしており、ちせは珍しくヘロヘロになって大仲の机に突っ伏していた。

「ただいま。そんな死にかけて、どうした」

 声を掛けると恨めし気な視線をこちらへ向けて、あんな子じゃなかったのに、なんてぼやく。

「何だ突然、レラの事か?」

「引き運動に付き合ったんですけど、こんなにしんどいとは思わなくて」

「そりゃ一歳の頃と比べりゃまるで違うさ、アイツだって成長すんだから」

「大越さんよく毎日これに付き合ってられますね」

「まあこれ以外の仕事が無いもんでね。と、土産は冷蔵庫に入れとくぞ」

 適当に聞き流しながら言うと、

「八つ橋は冷蔵庫に入れたらダメなんですよ」

これまた死にそうな声で返ってくる。

「宮代有紀に持たされたケーキだよ、スゲー高そうなホテルのヤツ……大体、八つ橋のそれって俺が教えた事だろ」

「あ、会ったんですか? じゃあ騎乗依頼の件も聞きましたよね?」

「依頼は受けたし、打ち合わせもしてきた」

「なら良かった、ビッグチャンスですから。頑張ってくださいね」

 妙に明るいテンションで言う割に会話が不自然だった。俺はクーの追い切りの為に栗東まで行ってきたのだから何よりまずその話題が出て然るべきなのに触れようともしない。

「クーのこと、聞かないのか?」

 腹を探り合うような真似をする気も無かったので直球で尋ねてみると、ちせは静かに身体を起こしてから、少しだけ神妙な風になって言った。

「実は、あの騎乗依頼、杉本さんからじゃなかったんです。これがラストチャンスだって連絡を頂いた時に、それなら大越さんを乗せて欲しいって、私からお願いしたんです」

 突拍子もない話の様だが、想像できない訳では無かった。控え目な杉本オーナーの性格を考えれば未勝利馬の格上挑戦の為だけに関東の騎手を小倉に呼び出すような依頼の出し方は考え難い。そう考えれば、事の背景にちせの意思が働いているというのはむしろ自然だ。

「だから、ごめんなさい」

 ちせがそう言った一瞬、大仲の空気が固まったような気がした。

「何で謝ってんだよ」

 腹の底から溢れ出そうな感情を堪えるように、ちせの脇に立つと、頬の肉を右手の指でぎゅうと抓んだ。突然の事にちせは戸惑いを隠さずもがいたが、俺は気にせず左手でも同じように抓んでやる。

「ブサイクなツラしやがって」

 抓んだままびょんびょんと伸ばして暫く遊んでいると、ちせは怒ったらしく手を思い切り叩き落とされた。

「何するんですか」

 俺を睨みつけながら。その瞳の奥にある怒りは決して頬を抓られたからでは無いのだ。それを俺は知っている。だからこそ、俺は叩き落とされた手でもう一度頬を抓ってやるのだ。

「クーの為にも、お前は謝るな」

 本気で睨みながら言うと、ようやく伝わったのだろうか、ちせはそっと俺の手を外しながら小さく頷いた。

「駄目ですね。牧場では偉そうな事言ってたのに、いざ目の前でそれがあると、やっぱり辛いです」

 遠くから見守るしか出来ない人間と目の前に立って最後に送り出す人間では、果たしてどちらの方がより辛いのだろう――ふとそんな風に考えていた。有紀はクーに乗る事を羨ましいと言い、ちせはクーに乗せる事を謝った。きっとそれらは、元をただせばどちらも同じ感情なのだろう。

 だがしかし、どちらだって構わないのだと思い直す。

「難しい事は解らんが、少なくともお前の騎手を見る目は確かだよ」

 いずれにせよ、最後に残るのは俺とアイツらだけなのだから。






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