大越凛太朗【raison d'tre ⑤】

 Cウッドの二頭併せで先行させた相手を外から差し切るというオーソドックスな指示だった。相手は休み明けの三歳馬、とはいえ新馬勝ちを収めているホープであり次走もクラシックトライアルを見据えているそうだから四歳未勝利の立場からすれば格上も格上だ。

 もしかしたらこの調教の主眼は、レースを控えたクーの調整ではなく、ノンビリし過ぎた若駒に喝を入れるリハビリの方かも知れなかった。簡単にかわされてしまったら負荷が足りないから、休み明けの若造が相手でも必死に走ってどうにかかわせる程度の弱っちい馬を相手にギリギリまで粘り込むための調教。要するに噛ませだ。

 しかし、だ。噛ませとして指名された側であっても、直前の追い切りである以上易々と醜態を晒してやる訳にはいかない。

 追馬場で受け取る段になっても澤田はいかにも気に食わなそうな表情を崩さなかったが、鞍に跨った俺に一言、放馬だけはしてくれるなよと、そう言ったのだった。

「騎手ですから」

 流石に頭に来た事もあり当て擦りに鼻で笑ってみせたのだが、そこから数秒と経たないうちに澤田の過剰なまでの心配の理由が解ってしまった。

 この馬は人を乗せる事が嫌なのだと乗り手に否応なく悟らせる、跨っているだけで不安になってくる背中だった。宙を彷徨っているような浮ついたハミの頼りない感触は乗り手とのコミュニケーションを拒絶している事を伝えてくる。お前の命令で走るつもりなど毛頭ない、気に食わなければいつだって振り落としてやる。そんな風に思っているのかいないのかまでは定かでないが、少なくとも鞍上に協力的な馬では無い事は確かだ。

 とは言えこちらも騎手稼業、この程度でビビる位ならとっくの昔に引退している。あのクーがこうなったという寂しさは腹の底に押し込めて朝靄の馬場に出ると、前を行く若駒に少しくらいは意地を見せろと目一杯に攻めてやった。

 だが、如何せん馬にはまるでその気がなかった。

 力が無い訳ではなく、むしろ力は有り余るほどにあるのだろうが、その力を走る事に向けようとしない。ひたすら騎手の指示に逆らい、隙さえあれば振り落とそうとしてくるような、そういう事に全力を尽くしている。

 薄暗く紫がかったような視界の中、スタンドからの照明を頼りに、併せ相手の鞍上が着ている赤色のダウンジャケットを目標にして馬を追う。その距離は一完歩ごとに確実に近付き相手の姿や足音が大きくなって行くが、手綱からの手応えは空虚なまま。

 拳を捻じ込むようにして力尽くで出した指示は、果たして通じていたのだろうか、どうにか形だけは予定通りに追い切る事が出来たが、本番へ向けて視界が開けたとは言い難い内容だ。

『上出来だ、上がってくれ』

 無線から届いた鎬先生の言葉が本心かどうかすら解らない。ただ、追い切りを終えても何も変わらない、空っぽの手綱の感触がやるせなかった。

 調教を終えて引き揚げた追馬場では、待ち構えていた澤田はどこか気が急いているように見えた。話を聞くと坂路の方で鎬厩舎の馬に放馬があったらしく人手が足りていないらしい。

「冗談じゃねえよ、こっちゃこの後ハルタがあるってのに」

「ハルタって?」

「トーアハルシオン、今週の京都で使うんだよ」

 カリカリしながら吐き捨てる澤田を見て様々な事が腑に落ちた。トーアハルシオンは鎬厩舎の準オープン馬であり、素質馬としてそれなりに名前を知られている。澤田が担当している事までは知らなかったが、オープン入りをかけた大一番が控えているとなればそれ以外の作業など目に入らなくて当然、もっと言えば余計な仕事にしか思えないのだろう。無論、そこにはクーの事も含まれている。

「こいつのクールダウン俺がやっときますよ。自分の所で毎日やってますから、大丈夫です」

 いつもの調子で提案してみせると、澤田はむっつりとしたままだったが背に腹は代えられないといった調子で提案を受け入れて、自転車でそそくさと厩舎へ戻って行った。

「さて」

 残された追馬場で何となしに呟き、クーの首を撫でてみる。辺りをギラギラと照らす電光も、金のかかったコースも、クーも、何から何まで天と地ほどに変わってしまったが、それでも跨っているのがクーだと思えば、何となくあの牧場を思い出せるような気がした。

「まあ、ゆっくりやれよ。俺は用事もねえし、付き合ってやるから」

 馬の気に任せて手綱を緩め最低限落とされない程度に構えていると、やがてクーはゆっくりと動き出した。はてさてどこへ行くのだろうとノンビリ跨っていると、のんびりゆったり逍遥馬道へ出て好きに歩き始める。手綱をやらなくとも大人しく右側通行をしているあたり、やはり頭は良いのだろう。

「大越さん、おはよっす」

 名前を呼ばれて顔を上げると向かいから総司がすれ違う所だった。わざわざ手を振っている辺り頭の中身が本当にガキ臭く、妙なやつに懐かれてしまったと思う。簡単に手をあげて返しながら総司が跨っている馬を見ると黒鹿毛。

「それ何?」

「堀口厩舎のラストウィッシュ、きさらぎ賞です」

 すれ違う数秒でそんなやり取りをして別れる。堀口厩舎で宮代の馬、しかもエリート。果たしてクーは覚えているだろうかと思って鞍下の様子を伺ったがまるで興味なんて無さそうにすいすい進んでいる。

 俺が乗っている事まで忘れているのかも知れなかった。調教前の嫌な感じもすっかり影を潜めている。

 そのままクーの好きに歩かせ続けていると、満足するだけ歩いたら何の指示も出していないのに厩舎まで戻ってきた。

 まだ慌しく動き回っている厩務員達の脇をすり抜けて洗い場に繋ぐ。

「お忙しそうなんで、こっちでやっておきますからね」

 小声で許可を取ってから道具棚のブラシを拝借し、気になっていたぼうぼうの冬毛に手を付けた。

 わざとではない事なんて解ってはいる。忙しいから手が回らない、危ない馬だから手入れをするのに躊躇う事もあるだろう、何より今週はもう一頭の担当馬がオープン入りをかけた大勝負をしなければならないのだから尚更だ。

 それでも、やはり、こういう部分で、ちょっと悔しい気持ちは起こる。

「お前だってレースに出るのに、これじゃちょっと恰好つかねえもんな」

 見てくれで速さが変わる訳ではないが、何となく、風呂に入れなかった自分の事を思い出すようで、嫌だった。クーにしてみればさっさとシャワーで汗を流して欲しい所かも知れないが、体温が高いうちの方がやり易い。力を込めてブラシをかけ、伸び過ぎた冬毛を取り去ってやる。

「よし、上等だろ」

 そうしてから、ちょっと構えてシャワーをしてやったのだったが、かつてのように水が跳ね返って濡らされるような事は無かった。

「大人しくなったじゃん」

 自然とそんな言葉が口を出る。

「ちせが良いちせが良いって散々ゴネて、俺がやるの嫌がってたのに」

 使っているシャンプーだって、ブラシだって、牧場のそれより数段良い品なのだろう。

 でもきっと、これはそういう事では無いのだと思う。

 しっかりと洗い終え、丁寧に水を切ってから、お疲れさんなんて声をかけてもやっぱり当然クーの言葉は返ってこない。

「ホント、キレーに忘れてんだな」

 苦笑交じりに声を掛けても俺の方なんて向こうとはせず、空を飛んでいる何かの鳥を眺めているようだった。


 どうやらトーアハルシオンの追い切りは順調だったらしい、上機嫌で帰って来た澤田は労いのつもりらしい缶コーヒーを差し出してきた。

「今日はアンタのお陰で助かったよ、ありがとう」

 ナメ腐った態度が頭に来るのも事実だが、それよりも確認しておかなければならない事がある。余計な言葉は聞き流して会話を繋いだ。

「最後まで遊んでましたけど、いつもあんな感じなんですか?」

 こちらの真剣な雰囲気を察すると澤田は面倒臭そうな表情を隠さなかったが、協力してやった事にそれなりの恩義は感じているのだろう、渋々といった具合に返してくる。

「基本的に人を乗せたくないんだろうさ。人間が乗っている事に気が付くと嫌で仕方なくなって、競馬なんてどうでもよくなっちまうんじゃねえのかな」

「何か無いですかね、集中させる方法」

「そんな事言ってもな、色々試したけどどれもあんまり……ブリンカーなんかは効果あったけど、ありゃ効き過ぎて駄目だ」

「ブリンカー?」

「根は臆病な性格なんだろ。ブリンカー付けたら後ろを怖がってさ、鞍上との喧嘩は後回しになったけど、結局は怖がり過ぎて暴走だよ」

 澤田はてんで話にならない事のように語ったが、俺は一筋の光明が見えた気がした。つまり、人が乗ることよりも嫌な別のモノを用意して目を逸らさせるという方法。人を乗せて走りたくないなどと言っていられない状況に無理矢理でも追い込んでやれば、たとえ恐怖からであっても自分の力を走る事に向けてさえくれれば、あとは俺の腕一つでどうにか出来るかも知れない。

「カップの浅いヤツとかも全然ダメ?」

「そりゃ一通り試したし、浅くすればマシにはなったけど、根本的に効き過ぎなんだから。調教で危なっかしいもんはレースで使えないし、馬具登録だってしてないぞ」

「ならチークでも良いです、とにかく走る事に力を向けさせないと勝負になりませんから。この事、先生に伝えておいてください」

 希望が見えてきた事に軽く握り拳を作りながら言うと、少し勢いを付け過ぎたのだろうか、澤田がムスッとした表情に逆戻りしている。

「お前さん、自分の立場を考えた事あるかい?」

 そうして、圧力を隠そうともしない物言いだった。

「いや、確かに俺はよその人間ですから、出過ぎた真似になってたら気を付けますけど」

 面倒臭えなと思いながらも舌打ちは心中で済ませて、いかにも真剣な表情を取り繕って頭を下げると澤田から特大の溜息が聞こえた。このクソジジイマジでぶん殴りてえ。

「そうじゃない……お前は他所の厩舎に所属してる騎手で、今年のクラシックでも主役級の人材で、その上ダービージョッキーだって事。そんな騎手に高々下級条件戦の為に危ない橋を渡らせて、万一事故でもあってみろ、ウチの厩舎は業界から総スカン食らうし、何より、お前も自分のキャリアを大事にしろよ」

 澤田は大真面目な表情でそんな風に忠告した。彼にしてみれば現実が見えていない若造に世間の真実を忠告してやったつもりなのだろう。俺もまた、身に余る評価をされたのだからその忠告を受け入れるべきなのかも知れない。

 だが、そうは思えなかったのだ。理由は何故だか解らなかったが、下らない反骨心や意地ではない事も確かだ。ただ漠然と、レラやあの牧場の事が浮かんでくるから、俺はこの勝負で必死にならなければいけないのだ。

「ともかくチークの件はお願いします。万が一の時も、絶対に鎬厩舎に御迷惑はおかけしませんから」

 覚悟を決めて相手の瞳を睨みつけてやると、澤田はバケモノでも見るような表情で後じさった。


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