大越凛太朗【皐月賞前段②】

 アスンシオンは宮代ファームの生産、系列のシュラインホースクラブが所有している馬で、去年の阪神ジュベナイルフィリーズを勝って最優秀二歳牝馬に選出されている。新馬勝ちからアルテミスステークスを経て阪神JFという王道ローテで三戦三勝という戦歴は間違いなく世代最有力の存在であることを示すものであって、俺クラスの騎手に鞍が回ってくることなど、ましてや一生に一度のクラシックという晴れ舞台での騎乗など、普通であれば有り得ない。

「アスンシオンはシュラインの馬だし、私から声を掛けるのも変に思われるかも知れないけど、今回は色々あってね」

 ふと気が付くと、俺は咥えていたんまい棒を何故か両手で支えた姿勢で固まっていた。

 有紀はあくまでも淡々と続ける。

「デビュー戦はクリスだったけど、アルテミスステークスの都合が合わなくてアーロンに任せたの。で、阪神はヨットーリに頼んだのは覚えているでしょう?」

「そりゃ、まあ。てっきりクリスに戻るもんだと思ってたから、意外でしたし」

 府中の新馬はクリスの騎乗で快勝していた。能力の高さからその後もコンビ継続が有力視されていたのだが、二戦目のアルテミスステークスではクリスが同日京都のスワンステークスに出走したアルスクラウンの騎乗を優先したため、短期免許のアーロン・カイルが騎乗する事になった。と、そこまでは良くある話なのだが騒動になったのはその後、次走の阪神JFでも鞍がクリスに戻らず短期免許のヨットーリへと回された事にある。

「そんな上っ面な反応じゃなくて、その件に関するウチの噂のコト」

 開き直った風ですらなく平然と言ってのける有紀を見ると、やはり並大抵の育ち方をしていないのだと今更ながらに思い知らされ、却って気を遣っている自分の方が馬鹿馬鹿しくなった。

「宮代さんの機嫌を損ねたことへの懲罰人事だとか、そういう話なら人並みには聞いてますけどね」

 簡潔に表現すれば、ヨットーリに鞍が回った原因は他からの依頼を優先したクリスへの宮代グループによる報復だ、という噂が流れたのだ。

 一般論で、馬主側が短期の外国人騎手を起用するメリットには二つのものがあるとされている。一つは単純に騎乗技術の高さ、そしてもう一つは乗り替わりの際の面倒が無いことだ。日本の騎手への騎乗依頼は必然的にサークル内の人間関係も付いて回る。有力馬の乗り替わりなどが起こると、場合によっては降ろされた騎手本人よりその周囲に対する調整に手間がかかる場合すらあるが、短期免許の外国人であればそうした労力が不要になる。つまり、目の前の一戦こそ乗り替わるものの期間が終われば帰国する外国人を乗せるのだから次の鞍では元の騎手に戻るという流れが暗黙の裡にサークル内で共有されているのだ。

 アスンシオンに関してもそうだった。実際にクリスは阪神でアスンシオンに乗るつもりで構えていたから他の鞍を探しておらず、ヨットーリの騎乗を聞きつけてから、他のコンビで決まりかけていた所に強引に割り込むような営業をかけて鞍を確保したのだ。しかしそんな真似をすれば当然あおりを食った騎手やその騎手と交友の深い関係者はどこかで陰口を吐き出す。更には陰口の内容が日頃から反宮代の陰鬱とした感情を抱え込んでいたサークルの暗部と上手い具合に噛み合ってしまったせいもあり、聞きつけた周囲が面白おかしく吹聴したせいで尾ひれを付けられた噂が際限なく広がる。その語られ方たるや、さながら極悪非道の大魔王の如きこき下ろされ方だった。

「当たらずとも遠からずかな。ちなみに、貴方はそれを聞いてどう思った?」

「アルスクラウンもクリスとのコンビでG1勝ってた馬だし、そっちを選んで怒られるんじゃ流石に可哀そうだとは思いましたけど」

 アルスクラウンは一昨年のNHKマイルの覇者で、怪我で休養を挟みはしたが、去年のマイラーズCを勝利、安田記念二着と好走してからの秋初戦だった。結局同馬はスワンステークスからマイルCSを連勝し、ラストランでは暮れの香港に遠征して香港マイルを制覇、G1三勝の大活躍で種牡馬入りした名馬だ。

 だからこそ、クリスの立場で考えればアルスクラウンを優先するのは真っ当な判断だった。自分が京都に行けば残ったアスンシオンは十中八九アーロンに任されるだろうこと、アーロンの短期免許の期限を考えれば阪神JFでは騎乗出来ないこと、その二つが既に明らかだったのだから本番で自分に鞍が返ってくることまで織り込んでいただろう。とすれば、海外遠征も見えていたマイル路線で上り調子のお手馬を優先しない理由が無い。

「ただ、ぶっちゃけどうでも良いってのが正直な感想ですね。今の時代、騎手の側だって自分に都合の良いようにやってるんだから、馬主さんだけ我慢しろってのも変な話だと思うし」

 そもそもG1に乗るだの乗らないだのなんて話題自体が自分とは違う世界の話に聞こえるのだから終始他人事、売れっ子も大変なんだなあ、なんて呑気に聞き流していたのが実情だ。

「ひょっとして慰めてくれてるの?」

 からかうような口ぶりに思わずコメカミがヒクつく。

「そんな気も無いですけど……噂してた連中だって宮代さんが嫌いだから陰口叩いてただけでしょうし、他の馬主なら大した話題にもならずに終わりですよ」

 敢えて不躾に言ってやると、何故かツボに入ったようで、有紀は気持ち良く声をあげて笑った。

「さておき懲罰人事になってしまったのは本当、でも言い出したのは私の家ではないっていうのが今回の話の大元ね……ところで、ダイナースとシュラインの違いって貴方解ってる?」

「元々どっちも縁が無いと思ってましたので、細かい所はサッパリです」

 包み隠さずに答えると、有紀はいつも通り呆れた風に鼻で笑ってから、それでも説明してくれた。

「ウチの系列のホースクラブで一番古いのがシュラインで、最初は共有馬主の延長みたいな感覚で始めたらしいのよね。そんなだから一頭持ちもやっているような会員さんが多かったんだけど、事業を続けていくうちにもう少し小口で募集するクラブも需要があるんじゃないかって話になって、それでダイナースを作ったの。極端に言ってしまえばシュラインは大口の、ダイナースは小口のお客さんを対象にしているクラブってこと」

「要するに、シュラインの方が金持ちが多いって事ですかね」

「随分と身も蓋も無い言い方だけど、それで正解」

「で、それとクリスの懲罰人事がどう関わってくるんです?」

 そこで有紀は一呼吸置くように脚を組み替えると、あまり外には言わないで欲しいんだけど、と妙な前置きをしてから語り始めた。

「さっきも言った通り、シュラインには個人でも一頭持ちをやっているような昔からのお得意様が多いんだけど……そういうお客さんの中には、昔気質って言うのか、今の競馬の在り方に疑問を持ってる人も少なからずいるのよ」

「すみません、今一解りかねるんですけど」

 珍しく歯切れが悪くなった有紀に遠慮せずに踏み込むと、有紀は覚悟を決めるように深く頷いてから続けた。

「つまり、エージェントをフルに活用してより条件が良い馬に気軽に乗り換えていくクリスみたいなスタイルを良く思わない人もいるってこと。自分たちのホープにいつも通りの対応をされて内心いけ好かない思いをしていた所に都合良くヨットーリが来たんだから、頼まない理由が無いでしょう」

 長くなってきた話に息を入れるように、俺はその場で伸びをした。今までの話でクリスがアスンシオンを降ろされた背景は一応解ったが、かといってそれが俺へ打診する理由には繋がらず、様々頭を回してはみたがそれらしき内容も一つとして浮かんでこない。

 そうして思考の深みにはまりかけると、有紀はようやく核心を口にした。

「全部白状すると、今回の件って父さんからの直指名なのよ。アスンシオンに大越を乗せろっていうのが本当の指示」

 その衝撃に思考が一発で吹き飛ばされて、頭の中が真っ白に塗り潰された。

「いや……どういう意味です?」

「そんなの私が知るはず無いでしょ。それでも父さんがそうするって言ったらそうするしか無いのがウチなの」

「いや、でも、なら、アルカンシエルの件はどういう事です? 俺を乗せたいならわざわざ条件を付ける必要が無いでしょう」

「そう、だからアルカンシエルの依頼は私から父さんに提案して呑ませた条件。父さんの思い付きを全部そのまま聞いてたら会員に愛想を尽かされる、だから最低限の手続きとしてアスンシオンの騎乗依頼を納得させるだけの信頼を勝ち取って貰う必要がある、それが理由」

 あまりの展開に思考が追い付かず呆けながら聞いていると、有紀はそんな俺に苛立たしさを感じたのかも知れない、刺々しさを感じさせる口調だった。

「私は貴方の技量を最低限認めているつもりだけど、ハッキリ言ってクリスや総司君と比べたら天と地だと思ってる。だから、本音を言えば父さんが言っている事にも納得していない。それでも今日来たのは父さんから貴方に直接依頼してこいって言われたからよ」

 浮かれかけていた心中に冷水を被せられるような言葉だったが、この状況では却って有り難い事かも知れない。何にせよ、俺自身冷静な思考が出来ていなかった。

「ともかく、結果を出して頂戴。アルカンシエルを掲示板に載せられれば理屈は立つけど、それ以下だったらキープさせて貰っている他の騎手に回すから」

 有紀は、珍しく少し早口になって、感情の昂ぶりを隠せていない様子で言うと、仕事を終えてホッとしたのだろうか、ふうと息を吐く音がした。

 それから、少し言い過ぎたとでも思ったのかも知れない、俺の方へちらちらと視線を向けながら出してやったんまい棒を手に取り、礼儀として口を付けるべきか否かを悩んでいるような素振りを見せていたが、しかし結局封を切る事は無く、そっとテーブルの上にんまい棒を戻してから、短い挨拶を残して大仲を出て行った。

「せめて食ってけよ」

 いつまでも固まったままではいられないと解っていても思考が働いてくれず、真っ白な頭で呟けたのは心底どうでもいい戯言だった。

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