大越凛太朗【東京優駿~Derby Week①】
月曜のトレセンは静かだ。たとえそれがダービーウィークでも。
朝、出掛けに厩舎へ顔を出すと、レラの馬房の前でちせがタブレットを弄っていた。
俺が入ってきたことには気付いたはずだが構う様子は見せない。近付いて何を見ているのかと覗き込むと、何のことはない昔の写真らしい。
「アルバム、写真屋さんに頼んで全部データに落としてたんですけど、量が多くて大変だったみたいで、昨日ようやく戻って来たんですよ」
あの牧場や、馬や、それに関わる人、そして小さい頃のちせ自身の姿が、ちせの指先の動きに併せて流れていく。
「親御さんか?」
「そうです、こっちがおじいちゃんで、この人がおばあちゃん。おばあちゃんは私が小さい頃に死んじゃったから、あんまり覚えてないですけど」
そんな風に言ってからこちらに振り向くと、途端に驚いた表情になった。
「スーツなんか着て、どこか行くんですか?」
俺がスーツを着ちゃ悪いか、と絡むには俺自身がそのリアクションに納得してしまっている。
「ちょっと弁護士に会ってくる」
「お父さんのことですか?」
「やれることは全部片付けておきたくてさ」
馬房の中のレラと目があったので、鼻を撫でる。
「ダービーだからな」
独り言のつもりだったが、何故だか俺の言葉を理解出来る目の前の馬は、元から丸い目で問い返してくる。
『ダービーなのか?』
いつも通りのレラの態度に肩の力は程よく抜けた。
「何にせよ、特別なことをする訳じゃない。夕飼の時間には戻るよ」
一人と一頭に向けて言い、厩舎を出る。
上野の改札を出たのは十時過ぎだった。約束の時間まではまだ十分ちょっとは余裕があるはずだったが、久保田は既に指定された像の前で待っていた。直接会うのは競馬学校の卒業以来、十年以上も経っているはずなのだが、見れば解るものだった。
「遅くなりました」
駆け寄って頭を下げると、やや驚いたような表情で一呼吸の間を空けてから、いいよいいよとゆるい仕草で手を振る。児相で初めて会った当時が二十代前半の駆け出しで今は四十代に入っているのだろうか、グレーのスーツで年相応に落ち着いた外見はしているが、ふとした時に出る仕草は変わっていない。
「事務所までちょっと歩くけど、良いよね」
先を行く久保田の後について公園の中に入り、ジョギングしているランナーや大道芸人の周囲の人だかりを横目に坂を降りていく。信号を渡ると緑色の蓮に埋め尽くされた不忍池が目に入り、へえと思わず声が出た。
「どうかした?」
「初めて見たので」
「ああ、蓮ね。花が咲くのは七月かな、奇麗だよ……少し見て行く?」
「別に好きな訳じゃないから」
「そっか」
久保田は静かに微笑むと再び歩き出した。
そうして、池を抜けた先で信号を待っている時に何となく話しかけた。
「先生って実家もこの辺なの?」
「いや、全然違うよ。ウチの実家は大分。どうして?」
「何となく。なんか地元の話する人みたいな感じだったから、池の話の時」
「なるほど。でもそういう意味なら正解、大学の頃からずっとこの辺だから、もう人生半分以上この辺で暮らしてる」
そう答えてからまじまじと俺の方を見つめた。
「どうかしました?」
「コミュニケーションが巧くなったなあって、感動してた」
こちらが戸惑ってしまうような反応だったが、どうやら本気で言っているらしい。
「馬と、臼田先生のお陰ですかね」
「そうだろうね」
それからも他愛もない話をして歩き、坂の途中の路地裏にある、一階がトンカツ屋をやっているビルの四階だった。ちょっとした生活感のある小さな事務所で、久保田は俺を応接用の椅子に通すと奥でお茶の支度をしてから戻ってきた。
出してもらった緑茶で一息吐いてから、改めて頭を下げる。
「今日は急なお願いを聞いて頂いて、有難うございました」
「大丈夫、相方と二人でやってるような気ままな事務所だから。今日は私だけだし、却って都合良かったよ」
「相方さんはどこかに行ってるの?」
「打ち合わせ。大きい会社の顧問とかも引き受けてるから、こっちと違って忙しいんだよ。ま、少なくとも浮気ではないだろうから、そこは安心かな」
「旦那さんも弁護士なんですね」
「いや、パートナーだけど旦那ではないの。私ビアンだから」
「ああ、そうだったんですか」
考えてみれば、これまで久保田の個人的な話など聞いたことも無かった。いつだってこちらからの一方的な相談に付き合わせるばかり。今日だって、昨日の夜中に突然電話して予定を空けさせたばかりかわざわざ駅まで迎えに来てくれたのだから、本当に聖人のような弁護士だと思う。
「今日は先生にお願いがあって」
「うん、良いよ」
せめてこちらの話の中身を聞いてから引き受けて欲しいが、昔から、久保田は変わらない。当時はそれが鬱陶しくて嫌だったが、今自然と聞けるようになった理由は、先ほどの久保田への回答と同じで、きっと馬や御大のお陰なのだろうと思う。
俺はバッグから銀行の封筒を二つ取り出すと、その中身を抜き出して久保田の前に置いた。
「父親の件、手紙もちゃんと読んで、その上で骨は受け取らないって決めたんだ。でも、税金で面倒見て貰うのも寝覚め悪いだろ。だから、世間に迷惑かけないように、このお金で先生に一切合切の後始末を依頼したい」
久保田は一度頷くと、二つの札束を俺の前に置き返した。
「お墓を作りたいとかでなければこんなに要らないよ。費用は後で請求するから」
「他にも何か出てきてしまうかも知れないし、そうなれば足りない分はまた出すけど、少なくともこれは今までのお礼も込みだから。受け取ってください」
そうして俺はまた置き返す。
「今週末、大きな勝負があって、その前に片付けておきたいんです」
勝手を承知のお願いであり深く頭を下げると、久保田にも通じたらしい。
「ものすごく余るから、そしたらコッチの活動に使わせて貰うけど、本当に良いの?」
「もちろん、それくらいの世話にはなってますから」
久保田は力が抜けたように笑うと、頭を下げて承知してくれた。それから、契約の書面を用意するから少し待つように言うと、札束を手に奥のデスクへ引っ込んでこなれたリズムでキーボードを叩き始める。
椅子に浅く腰をかけ、肩の力を抜いてお茶を飲んでいると、作業中の久保田が呟くように言った。
「まさかあの凛太朗君がこんな風になるとはね」
「何です、それ」
「悪い意味じゃないよ、本当に。こんなに立派になると思ってなかったから」
「金の話ですか?」
「ま、そっちも否定はしないよ。やっぱり騎手って儲かるの?」
「最近は特に強い馬に乗せて貰ってるので、大分余裕があります」
「仕事は楽しい?」
「どうでしょう。楽しいかって聞かれると、良く解らないですけど……でも、馬に乗ってない自分は想像できないので、これしかなかったんだと思います」
そう答えると、久保田はディスプレイから顔を上げてこちらを見た。それから、俺の顔を覗き込むようにじっと見つめると、良かったね、と言った。
それから十分程度待ち、久保田が用意してくれた契約書に俺はサインした。文面はどうせ読んでも解らないので読まなかったが、久保田もそれで説教を始めるようなことは無かった。
「私、今でも児童相談所とか養護施設の支援事業をやってるの」
文書の手続きが一段落してから、お茶を飲みながら久保田が言った。
「俺とかが世話になったヤツ?」
「正にそれ。あれから始めて、抜ける機会が無くなっちゃってさ」
そうして暫くはお互いの近況を語り合っていたが、昼前になり久保田の次の予定が近付くとそれもお開きになった。
「駅まで乗せてくから」
久保田の運転する車の助手席に乗りながら、ふと尋ねる。
「ひょっとして、これから行く場所も施設?」
久保田は一呼吸の間を置いてから肯定した。
「そっか」
俺はそんな風に曖昧に呟くしかできなかったが、不思議と久保田に感謝の気持ちが沸くのを感じた。
やがて博物館の脇で車が止まると、お礼を言って降りようとした俺に久保田は言った。
「今週末、ダービーでしょ。終わって、落ち着いて、気が向いたら、また連絡しなさい。もしも貴方が私に感謝してくれてるなら、貴方にだから出来ることが世の中にはあるんだからね」
頭が良い久保田の癖にまとまらない言葉は、けれどだからこその本音なのだろう。
「ちゃんと覚えておきますよ」
去っていく車に手を振りながら、一つ、心の荷を下ろせた気がした。
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