大越凛太朗【東京優駿~Derby Week②】

 全休明けなのに少しも酒の空気が残っていない、年に一度だけの火曜日。

 スープの運動に馬場へ出ただけでも周囲の視線を肌で感じた。

 特別に声を掛けてくるわけではなく、ただ遠巻きに眺めるだけ。きっと彼らにしてみれば意識すらしていないような自然な行動で、逆の立場であれば俺も同じようにするのだろう。

 エトの時は意識する余裕なんて無かった。ただひたすら、負けられないプレッシャーが頭の中で這いずり回って、向かっていくダービーを味わう余裕なんてなかった。

 この世界に競馬が生まれた理由は必ずダービーに辿り着く。

 全ての競走はダービー馬を決める為にある。

 やがてダービー馬は親となり、その血を継いだより強い馬達が次のダービー馬を目指す。

 螺旋のスタートでありゴールとなる場所、それがダービー。

 この世に競馬が続く限り開催を定められたレースであり、十八のゲートに辿り着くことが出来た存在は必然として全ての競走馬の存在意義を背負うことになるのだろう。

 その事実を、今こうして、二度目を迎える中でようやく実感する。

 散発的な記者対応をこなしながら午前中の厩舎作業を終え、大仲でんまい棒を片手に缶コーヒーを取り出して一息吐こうとしていたら、ふらりと有紀が現れた。抱えるように持参した大きな箱はどことなく洒落た意匠をしており、俺への手土産では無いだろう。

「ちせちゃん来たら渡しておいて。ダービーの時のドレス、約束してたの」

 どうやら当人が家で昼寝していることは把握した上での来訪らしい。

「相手に届けさせといて自分は昼寝とは、良いご身分ですね」

 箱を預かりながら詫びると有紀はあっけらかんと笑った。

「私が家で寝てて良いって言ったの。どうせ当日には会うんだし、こっちも正確な時間までは読めなかったから待たせるのも悪いし」

 ふらっと来て御大しかいなかったらどうするつもりだったのか、と考えていたら、どうやら通じたらしい。

「どうせいるでしょ」

 その一言で済ませると俺の横を素通りし、勝手に大仲の椅子を引いていた。

 預かったドレスの箱を奥の部屋へ置いてから、缶コーヒーと意地のんまい棒を持って戻ると自然な仕草で缶コーヒーだけを受け取られたので、んまい棒は料亭のおしぼりよろしく机とぴったり平行になるよう目の前にセットしてやる。

「今日はゴールドジャーニーですか?」

 トライアルの青葉賞からダービーに参戦するゴールドジャーニーは例によってダイナースの秘蔵っ子であり、勝ちには縁遠い青葉賞組とは言えNHKマイルCに回ったブルーミーティアらの穴を埋めるには十分なポテンシャルがあると見ている。

「ウチで言ったら今週は他にも八頭、ほとんど人に任せてるけど」

「ちゃっかり楽してるんですね」

「後進育成。いつまでもマネジメントやっててもしょうがないし、さっさと牧場戻らないと」

「牧場に戻りたいんですか?」

 有紀は一呼吸の間を置いてからそっと頷いた。

「元々考えてはいたけど、この前田丸先生と話して本当に思ったんだよね。苦労して獣医になったのに現場から離れるなんて、バカ丸出しじゃない」

 いかにも華やかなホースクラブの代表よりも生臭い牧場での暮らしを希望するという考えは、一般論としては理解され辛い話だろう。それでも、この女は本気で語っている。今更その程度のことは問い返さずとも解る。

「ファンや、馬主や、サークルや、競馬会や、競馬の全体を見て考えることも大事だろうけど、やっぱり私は自分の手で馬に触れて過ごしたい」

 穏やかな言葉とは裏腹に、芯の強さを感じた。周りが何を言おうと私がやりたいからそれを選ぶという芯の強さ。

「大体、騎手諦めた時点で覚悟決めてるし。まあ、そんなの今更って感じ」

 自覚すらないレベルで、彼女にとって生活と馬はイコールの関係なのだろう。そんなところまでどうしようもなく宮代明に似ていて、そう気づくと当たり前のように言ってのけるその影が牧夫姿のあの男と重なり、笑いをこらえることが出来なくなった。

「何、いきなり」

「いや、やっぱり人間も血統だと思って」

「一緒にしないで」

「そっちは立派なもんだろ、こっちなんて犯罪者だぞ」

 一瞬面食らったような表情が浮かんでいたが、こっちが笑っているとほっとしたようだった。

「昨日後始末してきたから、もう大丈夫。そっちにも迷惑かけたからさ、一応報告」

「昨日って、随分急な話だけど大丈夫なの?」

「そりゃダービーですから」

 返してからんまい棒をかじっていると、ちらとこちらを見た有紀と視線が重なった。

「そっか」

 そう呟くと、口に付けた缶を唇で遊ぶようなそぶりを見せる。意外な風に感じはしたが、イヤではない。

「今回もアマスケが勝つよ」

「そこはゴールドジャーニーでしょうよ、立場的にさ」

「誰も聞いてないし、たまには良いでしょ。ダービーなんだし」

 こちらを見ながらそんな風に言うと、ふっと微笑んだ。

「ダービーは毎年出てるような家だけど、やっぱり今年ははしゃいでるのかな」

「口に気を付けないといずれ刺されますよ」

「事実だもの。変な謙遜こそイヤミでしょ」

 全く以てその通りではある。

「ラトナの時もやっぱり嬉しかったのよ、名義はともかく自分の馬だったし」

 そうして胸を張ってみせる。こうなるとはしゃいでいるという表現は的を射ていた。

「ダービー挑戦は親父さんが決めたって記事見たけど、もしかしてもしかする?」

「その通り。桜花賞に勝った時点で同年代の牡馬どもと比べてもいけると思ってたからね」

「親父さんは?」

「そこが自慢なんだけど、父さんは止めたの。オークスで話を進めようとした」

 そういう彼女はこれまで見たことがないような幼い表情の崩し方で、こちらが真正面から見てしまうのを躊躇うほどだった。

「馬を見る目がねなんて言うもんだからあったまきて、はーもー大喧嘩。桜花賞の打ち上げから天皇賞の表彰式まで口もきかなかった」

 そう言われて少し思いを巡らすと、その年の春天は確かに宮代の馬が勝っていた。勝ち祝いが親子仲も取り持ったのだとすれば随分と生産者孝行な天皇賞馬だ。

「最終的には親父さんが折れた、と。プレゼントにしては随分と高くついたことで」

「自業自得、私の相馬眼を鍛える為にって自分で言い出したんだから。一歳馬から一頭選べだなんて、そんな誕生日プレゼント、年頃の娘からしたら有り得ないでしょ」

「でもそれでダービー馬の馬主になれた」

「その上その仔でダービーに参加できるんだから、宰相程度じゃお話にもならない」

 随分と上機嫌になりながら語る有紀を見ていると、ふと、いつぞや空港のラウンジで宮代明と酒を交わした夜のことを思い出した。

「アマツヒの母親って宮代牧場代々の血統なんだろ」

 そう切り出すと、幾分驚いたような顔になった。

「いつぞや酒飲んだ時に、親父さんから聞いたんだ。代々の牝系に自分が連れ帰った種馬を付けた血統だって」

「言っとくけど、選んだのは純粋に馬を見て決めたんだからね」

 相手をする俺からしたら笑うしかない意地の張り方だから、隠すこともしない。

「そうじゃなくて、上手く言えないけど、そっちが選んだ時に親父さん嬉しかったんじゃないかなって」

 笑いながらそう言うと、一瞬確かに有紀の動きが止まって、驚きと、それから一呼吸遅れて祝福しているような、そんな不思議な瞳でまっすぐに俺を見た。そうして俺もまたその反応を自然と受け入れていた。

「俺が言うのも変な話だって自覚もあるけどさ……多分、そういうもんなんじゃないの?」

 何故だかそんな言葉が自然と出てきて、そこには羨ましさや卑屈さなんてひとかけらも無かったから、そのことがじんわりと温かかった。

 敵ではあるが許されるだろう。なにせダービーだ。

 それからしばらく、二人して飲み終えた缶コーヒーを手にぼんやりとしていたが、やはりんまい棒には手を付けないまま、やがて有紀は帰った。

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