大越凛太朗【皐月賞⑥】

 四本の脚が一回転するごとにリズムが早まり大地を蹴る音が力強くなっていく。予定通りの歩幅、予定通りの歩調で、コーナーから膨れ過ぎずに一歩一歩にじり寄る。佐藤の馬を順調に外からパスし、外回りとの合流地点で真戸原の尻を捉えて集団の後方を二馬身程度の距離にまで詰めた。

 近付いたことで明らかになった集団の表情は予想以上に限界が近い事を示していた。後方数頭の鞍上はあからさまに周囲の様子を探りあっており、それは勝機を探しているのではなくレースの下り時を探っているらしい。このままでは最後まで走れないと判断し、レースを壊さない、馬への影響が少ないドロップアウトの方法を探っているのだろう。

 アマツヒを囲む集団前方の表情はまだ見えないが、後方の状況を知った上で考えればどの馬も同じ状況なのだろうと察しは付く。今更投降してアマツヒに進路を譲った所で彼らの体力が戻ってくるわけではない。

 少なくとも、今日のレースで潰された馬たちは金輪際アマツヒに勝てないだろう。そうさせられてしまった。それだけのパフォーマンスだ。

 パトロールタワーを通り過ぎ六〇〇のハロン棒に差し掛かったタイミングで五馬身ほど前、集団の中腹からずるずると滑り落ちていくように脱落する馬が出た。一歩ごとに四分の一馬身も後退しているようなハッキリとした速度の落ち方。最初は少し力を抜いただけだったのだろう、走る気をなくすつもりでは無かったのだろう。しかしもう駄目だ。一度滑り落ちた馬は疲労から集団についていけなくなったことを自覚し、気持ちを捨て、走ることをやめてしまう。

 一頭、ただの一頭そうなれば他の馬がそれに引きずられる。体力の限界を迎えていることは他の馬も同じだ。誰も彼も、必死になって縋りついていた蜘蛛の糸からその血と汗に手を滑らせて底の見えない地獄へ引きずり込まれていく。

「レラ!」

 奮い立たせるように腹の底から声をかけながら進路を外へ取った。大地を蹴るリズムに合わせて、俺自身がクランク・ギアとなってレラの動きと同期して回転を加速させる。無理に内へ堪える必要は無い。コーナーでかかる遠心力をフル活用して、大きく跳びながらも回転は速く、四角途中のラスト二ハロンからを直線として使えるように逆算して思い切り外を回す。

 距離のロスは問題にならない。集団は深刻なガス欠の影響で丁寧なコーナーワークになっているがその分速度が死んでいる。多少大回りでも十分なお釣りが出る状況。瓦解していく包囲網を横目に、他と競うことなく思い描いていた理想的なコース取りで順位を押し上げる。

 四〇〇のハロン棒の向こうにスタンドが見え始めコーナー角が最大となる地点、埒から最も膨らむタイミングで集団を捉えた。しかし先頭ではない。

 群れは音を立てて崩壊し、馬たちが後方へ滑落していく。その中で一頭、自分を包んでいた膜を引き裂いて前へ進み出た馬がいる。

 奇麗な芝を走っているかのように。

 初めから先頭を走っていたかのように。

 閉じ込められていた事実が存在しなかったかのように。

 まるで他の馬が存在していないかのように、その馬は淡々と進む。

 反射的に覚えた寒気を掻き消すように思い切り奥歯を噛んだ。

 埒から六頭分も外、他に勝負になりそうな馬は無く、前にはアマツヒがただ一頭走っている。ラスト四〇〇に作り上げた仮想直線で、いつも通りのレラの末脚を出せば、相手が誰であれ、五馬身程度の距離ならば確実に差し切れる。直線前のルーチンで左前を鞭で撫で走法を落ち着けてから、現状での最善を用意した確信と共に鞭を振り降ろす。

 内を回るアマツヒはまだコーナーの途中、しかしこちらはコーナーを大回りして作り出したおおよそ一〇〇メートル分の仮想直線に入っている。ギアを最高速へ引き上げるタイミングはこちらがワンテンポ速い。

 総司はコーナーの遠心力を利用して加速しながら埒から二頭分ほど外へ出した。だがしかし、それによって急に加速するわけではない。

 直線に入り三頭分内を行くアマツヒとの距離が詰まっていることは間違いない。ラスト四〇〇から直線入口の三〇〇まで、一〇〇メートルで目算二馬身詰まって残りは三馬身差、単純な算数でも差し切れることは明らかだ。

「差せ!」

 スタンドからの突き刺すような歓声を浴びながら、レラを奮起させるでもなく、自然と声を出しながら追う。回転を大きく、速く、レラの肉体と繋がり、そのエンジンの一部となって俺自身が回し続ける。

 坂の手前で二馬身差を切ると総司とアマツヒの姿は俺の視界の右端に切れた。視線で追う余裕はない。前回と同じ轍は踏めない。

 俺の息は上がりレラの体力も残りわずかだ、だがしかし、最後まで追い切れば勝てる。その確かな意識が俺とレラを後押し、中山の坂を駆け上り、最後の一滴まで振り絞ってゴール板を駆け抜けた。


 第一コーナーまで流して進んでも、どよめき交じりのスタンドからの歓声はおさまりそうにない。確実にレコード決着だろう、確かな数字までは解らないが、記録が出たことは疑いようもない。

 コーナーに差し掛かった辺りで総司とどちらともなく距離が詰まる。

「どう思う」

「一分五十七秒二、ズレとらんはずです」

「コンマまで解るのか」

「今日は特に自信ありますよ、ラップばっちり刻んでますから」

 レースレコードはおろかコースレコードまで大幅に塗り替える時計、歴史に残る勝負というやつだ。

「こっち、残ったと思います」

「根拠は?」

「声、かけてくれたやないですか」

 冗談めかしてはいたが声は自信に満ちている。普通なら差し切っているはずの上がりの差、にも関わらず意見を求めている時点で薄々勘付いてはいるのだ。そうして俺は何も返せなかった。スタンドの止まない歓声がその答えであるとおぼろげながら察していた。

 アマツヒはあそこから踏みとどまり、俺たちは届かなかった。それが答えだ。

 俺とレラの、二度目の敗北だった。

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