大越凛太朗【Amor fati ①】
カンカン場に現れた鎬先生は傍目にも解るほどに上機嫌だった。勝利まであと一歩という二着ではあったが、それでもトライアルの目的は果たせたという事だろう。
「どうや。ええ馬やと思わんか?」
「伸びしろもありそうですし、二〇〇〇より長めって感じですかね」
俺が言うと鎬先生は力強く頷いた。
「せやからオークスには期待しとんねん。今日はいいとこ七分のデキや、メイチで仕上げりゃええとこまで狙える」
雑談しながら腹帯を外していると、ふと一段階声のトーンが低くなっていた。
「予定、空いたんやろ」
「ええ、まあ」
平静な風に返したが、耳の早さに驚かされる。
アスンシオンはオークスではなくNHKマイルへ進む。有紀から内々の予定として打診されたのはつい一昨日の金曜日の事であり、その時点でもまだ各所と調整中との話だったはずだが、さすがは業界の生き字引、情報戦ならお手の物ということだろう。
「せっかく出走権取ってくれたんや、本番も頼みたい」
「笹山さんはいいんですか?」
「邦彦には先約がある、遠慮する事はない。なんなら、今日の騎乗見りゃオークス後も大越君に頼みたいくらいや」
自分の手持ちを考えると、三歳牝馬にはアスンシオンという超大物がいるものの宮代の馬であることを考えればいつまで続くコンビかも解らない。加えてあちらがマイル路線に舵を切ったことを考えればそうそう食いあう事もないだろう。
「ぜひお願いします」
こちらが頭を下げたのとちせを伴った杉本オーナーが姿を見せたのはほとんど同時だった。
「本番、大越君でええですね」
「頼めるならこの上ない」
差し出された右手を受けるとぐいと引き寄せられ、さわやかなハグで労われる。
「今晩はオークスの作戦会議といこうやないか、総一郎も付き合え」
流れで決まりそうになる話に口を挟もうとしたが
「レラの事は私が見ますから」
見透かしたようにちせに言われてしまうと断る理由はなくなる。
オーナーの誘いを有難く受け入れてから検量に向かった。
オーナーの東京での行きつけなのだという、格式の高そうな料亭で、当然ながら打ち合わせとは名ばかりの飲み会だった。本日のフローラステークスで二着に滑り込み見事オークス出走権を勝ち取ったモチ子ことスギノモチモチ号というゆるふわな名前の由来や彼女の生まれ故郷である日高の小さな生産牧場との縁がオーナーの口から語られると自然な流れで牧場とビデオチャットが繋がり、馬主・生産者・調教師・騎手の四者が揃った宴席はかれこれ三時間も盛り上がってなお終わりが見える気配がない。
「G1なんて初めてですよ.。ましてそれがオークスなんて、夢みたいだ」
オーナーから聞いたところによると、画面越しの牧場主は元々投資銀行に勤めていたが、今から十年前、四十歳を機に退職し、廃業する牧場を買い取って起業したのだという、昨今稀な情熱家だった。その目元はほんのりと赤らんでいるようにも見える。
「現役を終えたら預託する約束なんだ」
補足するように杉本オーナーが言う。
「それならもっと箔付けて帰さんとな」
鎬先生が俺を見ながら言う。
「十分タイトル狙えますよ」
続けて言うと、画面の向こうの牧場主がカッと目を見開いた。
「今期既にG1二勝のトップジョッキーが言ってるんだ、オークスも期待してください」
上機嫌な杉本オーナーは言いながら酌を勧める。俺は恐縮した風に頭を下げて受けた。
生渇きの草の臭い、耳の奥に沁み込むような水音、雨が降っている。
酔い覚ましも兼ねて小便に立ち、離れ風の個室へ戻るための渡り廊下でぼんやりと雨音を耳に入れていると不意に鎬先生から声をかけられて飛び上がった。
「随分大袈裟に驚いてくれたな」
愉快そうに喉を鳴らしながら勢いよく背中を叩いてくる。
「考え事か」
「まあ、少し」
「皐月賞か」
「ですね」
レジェンド級の元同職を相手に隠しおおせるはずもなく、ハナから取り繕う気は無い。
「G1二勝のトップジョッキーとはよく言って頂きましたがね、ここ一番で負けてるんだから世話無いですよ」
「ここ一番の話はさておき、今期のお前さんにはそれだけの価値があるのさ。アスンシオンの次走情報が流れた時にどれだけの関係者が動いたと思ってる」
「それは光栄な話ですが」
「正味の話、今の話を聞かされて早まったとは思わんのか?」
「ちゃんと弁えてますよ、俺なんて全部エトやレラのお陰ですから」
「そういうところは臼田先生の指導か、しっかりしとるわ。ただまあ、自覚も必要ではある」
含ませたような物言いに返す言葉を躊躇っていると、鎬先生は続けた。
「良いレースを見ると、現役の頃の自分ならどう組み立てるか、自然と考える癖があってな。大抵は無責任な分だけ辛口な評価に繋がるものやが」
そこで言葉を止めると、勝負師としての芯を感じさせる瞳で俺をじっと睨んだ。
「あのレースはケチがつけられん、相手が悪かった」
慰めのつもりなのだろうか、しかしそれは俺が一番聞きたくない言葉だ。相手が大先輩の調教師であることが頭の中からすっ飛ぶと、舐めた口を抜かすなと声には出さなかったが、自然と瞳に痛いほどの力が籠もり鎬先生を睨みつけていた。
鎬先生はそんな俺を見て鼻で笑った。
「テンの2ハロンを二十二秒台で入って前一〇〇〇をそのまま五八秒六。これも十分破壊的なペースやが、まだ常識の範疇や。本当に問題なのは後一〇〇〇を同じタイムで駆け抜けていること」
スッパリと言い切ると、胸元から煙草を取り出して咥える。雨は煙草が不味くなるなどとボヤキながらマッチを擦り静かに火を点けた。
漂ってきたリンの臭いは湿気に混じって幾分柔らかい。
「十一秒七、十一秒五ときて、終いが同じく十一秒五の三十四秒七」
そうして呟いた数字は皐月賞でアマツヒが出した上がり三ハロンのラップ。レラは十一秒四、十秒九ときて十一秒一の三十三秒四、差し引きで一秒とコンマ四も縮めている。レラが叩き出した上がりも中山であることを考えれば間違いなく驚異的な水準であり、タイムは差がなく中山コースレコードを大幅に更新する一分五十七秒二。 しかし、それでも頭差で勝ち切られた。
「去年のスプリンターズステークスの上がり最速、いくつやったかな」
とぼけた風に鎬先生は言う。
「三十三秒五、でしたかね。ほら、坂口先生のところの」
「バンバンジョー。ともあれ、それより早いんや。一二〇〇の古馬G1よりも上がりが早い二〇〇〇の三歳G1。そう表現すればお前さんとレラカムイがやってのけたことだって十分異常だ、普通じゃない」
「それでも負けた」
俺自身、負けたにも関わらず、自分たちが驚異的なパフォーマンスを叩き出していたという確信があるのだ。だからこそどうすればよいか解らない。
「何よりも理解できないのは終いだ。アマツヒのラスト一ハロン、あれが無ければお前たちの勝ちだった。そしてアレを想定できる騎手なんているはずがない」
競馬におけるラスト一ハロン、ギリギリまで振り絞り脚を使い切ってゴールに滑り込む区間であり、基本的にタイムが落ちるべき区間。レラのタイムはひとつ前の区間と比較してコンマ二秒落ちている。本来であればそれが普通なのだ。
だがしかし、アマツヒはタイムが落ちていない。
「あのアマツヒという馬、宮代の、日本競馬の歴代最高傑作という評判は伊達じゃない。この国の競馬の記録を一切合切塗り替えるだけの逸材だろう」
それはつまり、あの破滅的なハイペースの逃げを完遂し、レコードを大幅に更新してもなお、アマツヒはまだ底を見せていないという事を示しているのではないか。
「だから今回の勝負にはケチの付けようがない、相手が悪かった」
鎬先生の言葉に奥歯が軋んだ。絶対に、それを聞き入れる訳にはいかない。
「まだダービーがある」
「二〇〇〇から四〇〇伸びるんだ。こなせないというつもりはないが、適性を考えれば相手の有利に働く事も目に見えている」
「菊も、ジャパンカップも、有馬、天皇賞、宝塚、全部捨てろってのか」
「普通なら勝てただろう。三冠も、グランドスラムも、十分狙えた。レラカムイはそれだけの馬だ」
だが、しかし。鎬先生はその後の言葉を続けなかったが、言わずとも解る。
「無理に長い距離を使わなくてもマイル路線に切り替えれば良い。上がりの瞬発力だけ見ればスプリントだってこなせるかも知れんし、この時代だ、長距離を勝つより種牡馬としてはよほどに好かれるさ」
漏れ出た煙が顔にかかり、苛立ちに任せて手で払う。
「まだです。まだ試せることがある」
自分自身言ってから気付いたが、それは苦し紛れの出まかせではなかった。アマツヒがまだ底を見せていないのだとしても、レラもまた限界を出し切ってはいないのだ。そしてその思考に行き当たると同時に、そこに懸かる命の存在を目の当たりにして固まる。
「あるのか、手が」
鎬先生に問い返されて言葉を返すことは出来なかったが、既に答が頭に浮かんでいる以上その沈黙は肯定にしかならない。少なくとも鎬先生はそう受け取ったようだった。
「なら良い。俺も期待させて貰う」
心底から愉快そうに俺の背を張りながら、鎬先生は笑う。
「期待?」
「過保護は承知だがね、アイツにはまだ早い。出来上がる前にダービーなんて与えられたらその騎手はそこで終わりだ」
「総司は、まだ伸びますか」
それもまた俺からすれば冗談のような話だ。今ですら天才なのだ、これより伸びるなどというのは冗談にしか聞こえない。しかし鎬先生は明確に頷いた。
「時計の管理も、馬の御し方も、視野の広さも、アイツは間違いなく天才だよ。親だからではなく、一人のジョッキーとしてそう思う。だから自分の厩舎に入れなかったし、ガキの頃から俺の真似事してることも知ってはいたが一つも教えてやったことは無い。自分の頭で考えて答えを導き出すことが一番の栄養だからだ」
「ああ、つまり俺はエサか」
自虐風に冗談めかして返すと鎬先生は笑った。宮代明がアマツヒにレラをけしかける構図と全く同じではないか。そう気付いてしまえば笑うしかない。俺も、レラも、誰かに都合よく使われようとしていて、その為に命を懸けようとしているのだ。これがお笑いでなくてなんなのか。
「アイツはまだ育つ、俺はそれを見てみたい」
「何にせよ、俺はせいぜい必死に勝ちに行くだけです」
俺は結局勝ちたがっているのだ。レラの命を踏み躙ってでも、自分のちっぽけな意地のために勝ちたがっている。
「そりゃそうだ、色々言ったが騎手なんてのはそれが全てさ。それで良いんだ」
そうして、随分と短くなった煙草を、名残を惜しむように最後にひときわ深く吸い込んでから携帯灰皿に押し込んだ。
「そろそろ行こうか、流石に杉本のオッサンも暇をしているかも知れん」
酒も入っているせいか、鎬先生は随分とフランクにオーナーを呼ぶ。
「付き合い長いんですね」
「俺が現役の頃、オッサンが初めて持った馬を勝たせてやったのさ。詳しく聞きたきゃ戻ってから教えてやる」
すっかり慣れた風な鎬先生にヘッドロックの姿勢で引きずられるようにして部屋に戻った。
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