大越凛太朗【Amor fati ②】

 生温かい吐息の後で突如視界が眩くなり目を細める。狭まった視野の中、日除けに被っていたキャップが吊り上げられていくのが解った。

「じゃれてんじゃねえよ、お前の身体洗ってやってんだぞ」

 器用に首を曲げてキャップを咥えているレラに言う。

『少しは明るくなるかと思ったんだよ』

「何が」

『陰気なツラが』

「誰の話してんだよ」

『そりゃお前だろ』

「この野郎」

 言いながらキャップをふんだくる。ツバの部分がべっちょりと湿っていたので、手にしていたシャワーで雑に丸洗いして滴る水と一緒に被りなおした。

『水浴びしたかったのか?』

「お前が言うな。まあ確かに気持ち良いけど」

 そうしてくだらない言い合いをしながら洗っていると意識の外から有紀の声がした。

「傍から見たらすっかり呑気な牧童って感じ」

「乗鞍が無くなった時の為に今から実習してんですよ」

 作業の手を止めて振り向こうという気が起きなかったのは単に慣れだろう。

「ところでこの後時間貰える?」

「いい加減アポ取ってくださいよ」

「他の厩舎を回る時は取ってるけど」

「けど、なんです」

「貴方の場合絶対ここにいるから、必要ないでしょ。そもそも他の用事のついでに寄っただけだし」

 全く悪びれない、らしい態度だ。ただし好ましいわけでもない。

 レラを馬房に戻してから有紀を大仲に通して幾度目かのんまい棒、だがやはり当然のようにスルーされて缶コーヒーにだけ口が付けられる。若干の口惜しさを覚えつつ、んまい棒を齧りながら対面に座るといきなり本題を切り出された。

「天皇賞、なんで断ったの」

 俺からすれば今更にも思える話題だ。

 春の天皇賞に出走するエヴァンタイユはダイナースの所有する五歳牝馬で、過去に秋華賞トライアルのローズステークスを勝っており、直近の阪神大賞典では牝馬でありながら三着と好走していた。主戦騎手の騎乗停止もあって天皇賞での騎乗を打診されたのはつい先週のことであり、その時点で府中に先約があったため断っていた。

「説明したでしょ、先にスイートピーステークスの依頼受けちゃってたんです」

 依頼主はアストラレーシングクラブ。オイルマネーを背景に世界展開しているやや特殊な立ち位置のクラブであり、宮代一強と言える国内競馬界においても独自路線を保ち続ける異質なステークホルダー、となれば宮代からすればスッキリしない相手ではあるだろう。

「それがG1の鞍より優先する事? 大体貴方オークスは杉本さんの依頼を受けたんでしょ、仮に出走権取っても本番どうするのよ」

「ハナからトライアルだけの約束ですよ、本番は別の騎手を乗せるって話になってます」

「そんな舐めた条件後からでも断れば良かったじゃない、トライアルだけの雇われジョッキーやる為に天皇賞の鞍を蹴ったって言うの?」

 外見は平静だが言葉は妙にヒートアップしている。その部分だけを聞いてしまえば理屈として全く通らない訳ではないあたりがまたややこしい。本来なら説明してやる義務は無いのだが教えて損がある訳ではなし、何より面倒を避ける為にも、全て話してやることにした。

「どこぞの誰かさんと同じ流れですよ、アスンシオンの桜花賞に乗りたければアルカンシエルの大阪杯で結果を出せってヤツ」

 そこまで話せばこちらが続けるよりも有紀の反応が早かった。

「安田記念のアップルガーデン」

 一昨年の秋華賞に昨年のヴィクトリアマイルを勝っており、他には昨年の安田記念とマイルCSでそれぞれ五着、三着。前走はドバイターフを半馬身差の二着まで好走しており、五歳にして本格化したと見られている。人気の一角を占めることは間違いないだろう。

「そういうこと。スイートピーステークスを見てからって条件ですけど、先々を考えれば破格も破格の依頼でしょ」

 そうして有紀の様子を窺う。てっきり「どうして貴方なんかに依頼するのかしら」なんて皮肉の一つでも言われるかと思っていたが、そんな様子も無く、やけにあっさり聞き入れていた。

「そういうことなら納得した」

「やけにあっさりしてますね。もっとこう、色々言われるかと思って覚悟してましたけど」

「なんでウチが貴方のマネジメントに口出さなきゃいけないの」

「だって、それならなんでわざわざ聞き出すような真似したんです」

「皐月賞で負けたから、いじけてるのかと思って」

「は?」

 何言ってんだお前、と声には出さなかったが顔には出ていただろう。

「だから、ここ一番の勝負に負けたから、上を見る事から逃げたのかと思ったの」

「いや、繰り返さなくてもいいから」

 意味を聞こうとした「は?」じゃなくて、コイツ何言ってんだっていう「は?」だから。

「ダービーの張り合いが無いから鞭入れに来たつもりだったけど、まあ大丈夫そうね」

 まるで悪びれない様子に思わずこれみよがしな溜息が出てしまった。

「親父さんにそっくりだな、そういうところ」

「冗談やめてよ、どこが」

「似てるさ、自分が一番正しいと確信してる」

「やめてってば」

 ボルテージが上がり切ってしまう前に解り易く息を吐いて会話を区切り、アスンシオンのレースプランを切り出した。白々しさもあるが、この女とは結局これが一番やり易い。ガチ喧嘩っぽい空気になる前に仕事の話で場を流す、コレ最強。

 そうして暫く真剣な打ち合わせを続けていたが、数十分もした頃玄関の方から声が届き、はっとなって時計を見た。

「何、どうしたの」

「いや、ごめんなさい。今日先約ありました」

 本来なら忘れるはずのない重要な来客だが、話しているうちについつい意識が入り過ぎたらしい。

 完全にうっかりしていた分だけ神妙になり手を合わせて詫びたが、却って恐縮された。

「やめてよ、押しかけたこっちが悪かったんだし。その代わり待たせて貰っても良い?」

「いや、でも結構かかりますよ」

「誰なの?」

「診療所の先生です、レラのことで少し」

 そう伝えると途端に有紀の表情が硬くなった。

「それ、聞いても大丈夫な話だった?」

 尋ねてきた表情は珍しく少し怯えた風にすら見える。

「駄目なら隠しますよ、別に故障じゃない」

「なら良いけど」

 そうしてやり取りしていると、すみませんという遠慮がちな声と一緒に大仲の扉が開いた。なかなか迎えに出ないせいで焦らしてしまったらしい。

「すみません、ちょうど来客してまして」

 慌てて扉まで小走りで向かい、丸眼鏡に白衣といういかにも穏やかそうな中年男性を招き入れる。

「いえいえ、こちらこそ勝手にすみません」

 すると突然、先生が丸眼鏡の下で更に目を丸くした。

「あれ、あれあれあれ。意外なところで会うもんだ、久しぶりだな」

 すっかり驚きながらも、俺に対するより数倍はフランクな口調になっている。

「お久しぶりです、先生もお元気そうで」

「そっちも元気そうでよかった。最近めっきりコッチの方に顔出さないから、すっかり経営者になったって言われてるぞ」

 そうして俺をそっちのけですっかり話が始まってしまったので、説明を求める視線を有紀に向けると、こちらも少し戸惑ったような表情を浮かべながら、

「大学のゼミの先輩なの、田丸先生」

「狭い業界ですから、在学期間が全く被ってなくても大体わかるんですよ」

田丸先生も自然と肯定する。

「え、何、ってことは宮代さん、獣医なんです?」

 思わずしどろもどろになりながら尋ねると、どこかばつが悪そうに、伏し目がちに頷いた。

「牧場の為に取った資格ではあるけど、そっちの方がメイン。確かに最近は父さんから言われちゃって経営の比重が増えてるけど……面と向かって言われるのは、流石に効くかな」

 どうしたことか、傲岸不遜を絵にかいたような人間が田丸先生の何気ない一言にすっかりメンタルを抉られたらしい、何も言い返すことなくやり込められている。

「お前だし、情報は最先端なんだろうけど、腕は臨床離れた分だけ錆びるからな」

「すみません」

 すみません、ときた。あの宮代有紀が、である。

「ちょうどいい、希少な例だし一緒に聞いていけ」

「レラカムイの話ですか? 良いの?」

 俺は一瞬考えたが、敢えて拒否する事でもないように思えた。

「アマツヒは親父さんの個人所有なんでしょう、構いませんよ」

 そもそも知られて今更、隠したところで得になる情報でもない。

「エトの時、普通の事故じゃなかったっていうので解剖調査したんですけど、その時担当してくれたのが田丸先生なんですよ」

 先生を席に通しながら有紀に向けて説明すると、本人から補足が入った。

「正確には調査チームの一員ね、あの事故の調査は特に力入ってたから。外部からもお歴々を呼び寄せたりしてたし」

「そうなんですか?」

 初耳の情報に問い返すと、田丸先生は差し出した缶コーヒーを受け取りながら頷いた。

「スターホースに起こった事故だからね、競馬サークルの関係者が世論の批判に晒されるのを防ぎたかったんだろうさ。当事者の立場からはそれでも批判はあっただろうけど、競馬会なりにリスクマネジメントは機能してたってこと」

「へえ」

 関心しながら聞いていると有紀がどこか冷めた声を挟む。

「お抱えシステムのボヤだけはやたら行動が早い、いかにも村社会って感じ」

 それを聞いた田丸先生は苦笑した。

「経緯についてはこの辺りにしておこうか、宮代が言うと洒落にならん」

 そうして先生は鞄から大型のタブレットを取り出すと、ロックを解除して有紀に手渡した。

「カムイエトゥピリカの脊柱部だ」

 田丸先生がそんな風に言ったのでエトの名前につられてタブレットを覗き込もうとすると、無造作に飛び出てきた有紀の手に顔面を制された。

「何すんだよ」

 思わず素になって言うと、

「見ない方が良い、切開写真だから」

有紀は真剣な表情でタブレットを睨むように指で弾きながら、こちらを見ることもせずに返す。

「CTあります?」

「別フォルダに入れてある、勝手に弄れ」

 それからも有紀は暫くタブレットを睨んでいたが、不意に立ち上がると先生のタブレットを持ったまま玄関の前へ行き、扉に手をかけた。

「おい、どこ行くんだよ」

 唐突な行動に戸惑いながら声をかけると、

「眼鏡取ってくる」

集中しているという事なのか、何から何まで普段の振る舞いからは想像できないぼんやりとした行動だ。

 有紀が車へ向かうと二人で残された室内では自然と言葉が止まったが、やがて先生の方から口を開いてくれた。

「ご相談頂いていた件ですが」

 その言葉につられるように、心持ち姿勢を正して先生を正面に見据える。

 先生は缶コーヒーに口をつけてから、ハッキリとしたことはお答えできません、と言った。

「現状では安全とも危険とも断言できるだけの根拠がありません。安全を第一に考えるのなら使わないに越したことは無い、というお答えになります」

「でも、それじゃあ困るんです」

 先生を困らせる事は承知していたが、それ以外の言葉が浮かんでこなかった。

「無茶は承知ですが、でも、困るんです」

「仕事柄、こういう相談は良くありますから、お気持ちは理解しているつもりですがね。レラカムイの事を第一に考えるのならダービーに拘らなければいい。どうせアマツヒは凱旋門に行くのだから、ダービーだけ我慢して、秋や古馬でG1タイトルを取って種牡馬入りさせてやれば良い」

「それは嫌なんです」

「レラカムイがそう言いました?」

 先生の表情に初めて苛立ちの色が透けた。この人はきちんと馬の見方をしてくれるだろう、だからこそ有難いのだ。

「まさか、有り得ない」

 俺は首を横に振る。聞いたことはないが、アイツはそんなことどうでも良いと思うはずだ。もしかしたら、俺に合わせてああそうだと頷いてくれるかも知れないが、本心ではそんな事を望むはずがなかった。

「アイツをダービー馬にしたい、俺のわがままです」

 それでも、それが偽らざる本音なのだからどうしようもなかった。レラにダービーを勝たせたい気持ちは天秤のもう一方の皿を見つめても揺れる事がなかった。

「自分だって危ないだろう」

「元よりアイツを殺して生きてるつもりも無いですよ」

 諭すような先生に胸の内を返すと、先生は大きく息を吐いて黙り込んでしまった。

 永遠にも思えた男二人の沈黙はやがて戻ってきた有紀の言葉で動き出す。

「これを見せてくれたってことは、レラカムイにも同様の変異が見られるって理解で良いんでしょうか?」

 眼鏡をかけた新鮮な姿で、僅かに声を弾ませているようにも聞こえる。先生は無言で頷き俺は有紀に視線で説明を頼んだ。

「馬では見たことが無かったけど、恐らく腰仙部の移行椎に起因する脊椎の形態変異」

 説明を聞いてもちんぷんかんぷんで固まっていると、有紀は言葉を選ぶようにほんの一息の間を開けてから、

「つまり、普通の馬より腰の部分の骨が多いのよ」

そう言った。

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