大越凛太朗【Amor fati ③】

 何となしに自身の腰をさすりながら言葉を反芻してみるがいまいちピンと来ない。

「人間や、動物でも犬とかにはよく見られる例なんです。まあ、背骨の数なんて普通は数えませんから、ほとんどが何かしらの不具合が出た時の検査で偶然見つかる……つまり本当はもっと色んな動物で当たり前に起きている事例なのかもしれませんが」

 俺の様子を察したらしい田丸先生が言葉を継いでくれた。

「脊椎、俗に背骨って呼ばれる部分ですね、動物って聞いてイメージする生物は基本的に全て持っている骨ですけど、部位によって、首、胸、腰、それから尻と尾、といった具合に分けられるんです。そして当然ですが、動物の特徴に応じてそれぞれの本数や形状が変わる。例えば、尻尾の無い人間と馬のお尻周りの骨が同じような形だったら非効率でしょう?」

「まあ、それは何となく解ります」

 そう返すと、先生は満足そうに頷いた。

「だからそうはなっていない。生命というのは面白いものでね、動物の骨を眺めていると生命がその形状を取るに至った理由が見えてくるんです」

「理由ですか」

「そう、骨の一本一本に歴史が刻まれているんですよ」

 冗談っぽく言うと、試すように続けた。

「なぜ人間はライオンやチーターに乗らずに馬に乗るようになったか、解りますか?」

 唐突な質問に面食らっていると、答えを知っていたらしい有紀が口を開こうとしたが田丸先生はそれを制した。

「お前が答えても面白くないだろ」

 そうして俺に向き直り答えを待つ風に間を開ける。

「肉食だからじゃないですかね。馴致が難しいだろうし」

「確かに肉食ではありますが、人間が彼らを馴致して用いた事例は歴史上も珍しくはありません。しかし馬のように乗り物にはしなかったんです」

「なら、大きさとか」

「確かに考えられますが、馬という種も当初から現在の大きさであった訳ではありません。乗用として家畜化し交配を進めた結果、人間の手で今の大きさに行き着いたと言えます。決定的な要因には足り得ない、というのが私の考えです」

 どこか楽しそうな田丸先生と問答を数度繰り返していたら、横で見ていた有紀が見かねたように呟いた。

「多分、そんなに難しい話してない」

 田丸先生の様子を伺うような視線を向けながら、探り探りに言葉を続ける。

「もっと単純に、私たちがどうして馬に乗れるかっていうような話」

 田丸先生はニコニコした表情で有紀の言葉を聞いている、公認のヒントという事だろう。

「例えば、どこに鞍を置くとか――」

「ストップ、そこまで」

 ナゾナゾをしたい訳でもなし、どうせなら答えまで言って欲しかったが田丸先生に止められてしまう。それでも、有紀の問いにはこれまでの数十倍も解り易い答えがあった。

「き甲、胸の裏か」

 田丸先生は少し残念そうな顔で、正解にしておこう、と言った。

「馬が乗用に使われた一番の理由は背中に鞍が置けるからなんですよ。草食故に発達した消化器官の重量を支える為の、分厚く大きな胸椎が鞍を支える上で適していたんです」

「ライオンやチーターはそうではないって事ですか」

「彼らの背中は馬と対照的に、獲物を捕らえるためにより速く走る方面へ、脊椎の中で最も可動域が広く柔軟な動きを可能とする腰椎部、つまり腰の骨の進化へ向かいました」

 ゆっくりと頷きながら田丸先生は言い、そこで出てきた言葉にようやく話が繋がった。

「なら、レラの背中はそれと同じ?」

 田丸先生は静かに首を横に振った

「今の話はあくまで例だ。ただ、同じではなくとも、それと近しい働きをしているからこその速さであることは確かです」

 そうしてちらと有紀を見て、あとはお前が説明しろと言わんばかりに顎をしゃくる。俺としては見るだけも恐ろしい仕草だが、有紀はすっかり従順に頷いていた。

「こういう表現で正しいか自信が無いけど、レラカムイは、腰の骨が増えた分だけ、普通の馬よりも首側に胸部の構造が詰まっているの。その分だけ、彼の背中は柔軟な腰の骨でカバーする範囲が広がり、結果他の馬には真似できない長大なストライドと並外れた脚の回転数の両立に繋がっている、と考えられます」

 説明を終えた有紀が答え合わせを待つ生徒のように田丸先生へ向く。

 ややあってから、田丸先生はどうにか及第点とでも言いたげな表情で小さく頷いた。

 缶コーヒーに口を付けながら、今まで聞いた話を小さな頭で拾いなおして、何となく整理していると、浮かんできた言葉が自然と口を出た。

「それはエトの怪我とも繋がる」

 俺の問いに有紀は答えずに田丸先生へ向き、田丸先生はんまい棒を一齧りしてから頷いた。

「前例がないし、エトゥピリカの直接の怪我は背中ではなく脚だ。ただ、これだけ明確な変異で身体の動きにも影響が出ていることが明かな以上、無関係とは言えまいよ。軽のボディにF1エンジンを積んだらどこかがぶっ壊れる方が自然ってのと同じ話さ」

 先生が語り終えると、大仲からピタリと言葉が止んだ。

 言わなければならない事があるはずなのに言葉が詰まった。

 聞いてなお、ダービーを勝つ為にはそれを使う方法を考えなければならないという思考が少しも揺るがない事実が、その事実に躊躇いを覚える俺自身の中途半端さが、喉を縛る。

 やがて、静まり返った場で空の缶コーヒーに口をつけてばかりだった俺の背中を押すように有紀が言った。

「特段変な話でもないでしょう。元々、私たちがしているのはそういう仕事なんだから」

 先ほどまでとは違う、ある意味ではいつも通りの強さを感じさせる口調。俺や田丸先生の視線が向いても揺らぐことはなく言葉を続ける。

「より速く、より強く、その為に命を作る。そういう仕事よ」

 こちらをまっすぐに射貫くその瞳に、ふと、うつくしさを感じる。その瞳のうつくしさは、以前あの牧場でちせに対して感じたものと重なったたから、きっと深い愛情と苦悩の果てに辿り着く瞳なのだろう。

 敵わないと思う。それでも、応えるべきだとも思う。

「アイツとダービーに勝てるなら心中しても良い」

 この瞳の前だからこそ本心が淀みなく口を出る。

「先生、頼む。どう転んでも恨むような真似はしない」

 田丸先生は顔をしかめて腕を組み黙り込んだが、立ち上がって帰ろうとはしなかった。

 そのまま数分、馬房からの物音が聞こえてきそうな室内でまんじりともせず答えを待っていると、やがて小さな溜息が漏れてから、田丸先生は口を開いた。

「エトゥピリカとレラカムイは、鍛え方が違う。エトゥピリカの鍛え方も周囲と比べれば群を抜いていたが、レラカムイについては鍛え方の質が違う。しっかりと、時間をかけて歩かせることで身体そのものを強くしている」

 いつだったか、それは宮代明にも言われたことだった。

「臼田先生は全て理解して、その上で可能な限りのポテンシャルを引き出す方法を模索して鍛えたんでしょう。あれならば、腰回りの負担も和らげられるとは思います」

 そうしてからじっと俺を見つめてきたのでその瞳を見返すと、やがて諦めたようにかぶりを振った。

「直線だけにしなさい。気休めだが、最低限力の方向性が安定すれば脚の負担も減らせる」

 言い終えると問答を打ち切るように、これ以上言えることは無いよ、と付け加えた。




 アストラレーシングクラブの秘蔵っ子という前評判の通りだった。道中六番手から、最終コーナーで徐々に追い出すと切れ味鋭く反応し最後は二馬身差で着差以上の完勝。本番を考えるとモチ子でどうこう出来る相手とは思えないし、二〇〇〇の秋華賞でアスンシオンとぶつかる時もどちらに転ぶか解らないとすら思わされる。

 カンカン場で出迎えに来たレーシングマネージャーのフォンさんと握手をしていると、思考が表情に出ていたのだろうか、意味深な笑みと共に、秋はこっちでどうだい、と囁かれる。

「ぜひ検討させて頂きたいですよ、素晴らしい馬だ」

 折角の誘いを無下に断るわけにはいかない、これは不義理なのではなく社交辞令だ。そう、あくまでも社交辞令。そういうことにしておけば角が立たないし、後の可能性を潰すこともない。笑顔で頭を下げておくに限る。

「安田記念もよろしくお願いしますね」

「勿論、既に殿下も了承済みですよ」

 とぼけられないように釘を刺したつもりだったが元よりその必要も無かったらしい。俺の発言を想定していたような微笑には有紀や宮代明とは別種の怖さがある。

 簡単な握手をしてから検量室に入ると天井モニターに人が群がっており、見上げると発走直前の京都の映像が映し出されている。

「大越さん、今日はこっちなんですね」

 声の方を向くとクーの時に小倉でやりあった北浜だった。

「そりゃ関東の所属だし、基本はこっちだよ」

 言わんとしていることは解っているが敢えて流す。最近調子が良いのは事実だが、そもそもG1の度に遠征しているような一流ジョッキーではない。

「宮代からアストラに鞍変えなんて話も聞きましたけど、本当なんですか?」

 あー、めんどくせえ。と口には出さず、表情にも出ないように気を付けながらモニターから視線を切って量りへ向かう。と、当然のように北浜が着いてくる。

「総司ならともかく、俺みたいなのにそんな計算してる余裕があるわけないだろ。噂話も程々にしとけよ」

「でも、本当にそんな感じで考えてるなら馬回してくださいよ。小倉で勝ったのも大きいんでしょう、ならお願いしますよ」

 最悪なのはよりにもよって今のレースで北浜が二着だったことだ。レースの確定が宣言されるまでの間、嫌味ともつかないくだらない営業文句を延々と聞かされ続けるハメになった。

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