大越凛太朗【Amor fati ④】

 パドック前のベンチでルーチン風に指を回していると、見るからに固くなったサブが現れて無言のまま隣に座った。

「一番人気だぞ」

 そう声を掛けると壊れたおもちゃのように何度も首を縦に振る。相も変わらず解り易い。

 本日のメインであるNHKマイルCはハイレベルな混戦模様を呈している。

 俺が騎乗するアスンシオンは無敗のG1二勝馬にして驚きの五番人気で単勝二桁台。一つ上の四番人気にはアーリントンCをレースレコードで勝ったグランシャリオと総司のコンビ。三番人気には共同通信杯など重賞二勝で皐月賞四着のブルーミーティアがダービーを回避しての参戦となりこれにはクリス。二番人気は昨年の朝日杯二着でスプリングSの勝利後に熱発から皐月賞を回避したソウキュウハイネス鞍上は邦彦さん。そして昨年の朝日杯からニュージーランドトロフィーを連勝しての参戦となるサブのアポロショットが本命の一番人気。

 本来であればアポロショットを軸にアスンシオンとグランシャリオが絡んでくるレースであったはずが、ブルーミーティアやソウキュウハイネスといった表街道でも準主役を張れる格の馬が出走してきている。他にも出馬表を眺めればダービーを目指すと考えられていた馬の名がぽつぽつと上がっており、ファンのみならず関係者にとっても想定外の事態だ。

 だが同時に、ファンであれ、関係者であれ、答えは一瞬で解る。今年のダービーには勝ち目がないからこちらに流れたのだ。

「精々タケルに良いとこ見せてやれよ、オトウサン」

 某ネズミの夢の国を口実に家族全員を今日のレースに招待したのだという、調整ルームで散々語っていた彼の決意を口に出してやると、もう少し慌ててくれれば面白いと思っていたのだったが、想定外に、力なく泳いでいたはずのサブの視線が落ち着いてしまった。

「解っとるわ」

 そのままテンパってくれていれば儲けものだったが、これは下手を踏んだだろうか。内心で舌打ちしていたら、サブがいつになく真剣な声で言う。

「悪いけど、今日はガチのガチや。余計な茶々入れよったらお前でも許さんぞ」

「知らねえよ。コッチだって人気してんだ、負かしても恨むなよ」

「モチのロン、真剣勝負や」

 言い合いながら、ふと、競馬学校時代の模擬レース前の一瞬を思い出した。俺は劣等生で、サブは同期で一番の優等生だった。でも、そういうやつがレースの時はやたらと絡んできて、劣等生の俺でも本気にさせられたから、何となく嬉しかった。そんな記憶がある。

 そうしてもう一度サブの方を見ると、手首に巻いたミサンガに念を込めるように精神集中している。

 いつまで馬に乗れるかなんて解らんのやから、大舞台の口取り写真に映してやりたい。

 酒が入ってほんのり赤くなった顔で、或いは酒が入っていたからこそか、サブはそんな風に言った。アポロショットはデビュー以来サブが乗り続けて朝日杯を制し、クラシックに目移りせずに腰を据えてマイル路線を歩ませてきた馬だ。馬主さんもデビュー当時から散々世話になった恩人だから思い入れは人一倍強い。自分の騎手人生でそうそう何度も巡り合えるはずがない、そういう馬だ。お前みたいな幸運は他の騎手にはそうそう有り得んのや。だから今回は負けられない。

 サブはすっかり立派な親に、正しい人になっている。

「オッサンだな」

 気が付けば俺は、最後に見た父親と同い年なのだ。

「なんやねん、喧嘩売っとんかワレ」

「独り言だ、集中崩してんなよ」

 こういう絡み方は競馬学校の頃から変わらない。そう気づくと笑えてきて、同時にこちらの気合いも良い具合に満ちてくるのが解る。相手の重要な勝負だからこそ、負けてやる気は欠片も無い。

 サブのお陰で手紙の事は暫く忘れられそうだ。

 不在の宮代明に代わって現場を任されているシュラインのマネージャーと簡単なやり取りをしているうちに騎乗号令がかかる。レースプランは意外にも一任だった。

 いずれにせよこのレース、五番人気の低評価はむしろ好都合、馬の能力や自分の立ち位置を考えれば貪欲に勝ちを狙うべきであり、その為にマークするべきはサブとアポロショット。アスンシオンには切れる脚もあるが、ハナを切るだろうアポロショットを好き放題に行かせてしまうと捉え切るのに不安が残る。道中は中団より前目、勝つならば坂手前で三馬身までは詰めておきたい。

 様々思考を巡らせながら向こう正面のゲート前へ。輪乗りの最中にバチバチと睨みを利かせてきたクリスの視線には気付いているが知らん顔を通す。クリスにしてみればここで俺に下手をさせれば手綱を取り戻すチャンスであり、騎乗するブルーミーティアも過去のレースを見ればマイルも器用にこなしそうなタイプ、まず間違いなく狙ってくるだろう。

 ゲートへ入る前に深く息を吸い、二度目のレースとなる鞍下のアスンシオンの首を撫でる。牝馬にありがちな気難しさの薄い大人しい子で、だからこそ鞍上がコロコロ変わっても素直に結果を出し続けられるのだろう。それはつまり、俺が降ろされる時にも同じ事なのだ。

「よろしく頼むよ」

 まじないのつもりで言いながら首を撫でる。

 ファンファーレが鳴り終わりゲートへ。俺は六枠、サブは三枠、クリスは八枠。向こう正面からのスタートであり内外の差は無いがクリスに外から見られているのは気味が悪い。しかし言っている時間は無い。クリスには悪いが今日の敵はサブ一本だ。

 ゲートの出は良好、馬群の動きを見ながら内へ進路を取り想定通りの五番手でコーナーへ。

 サブは巧い具合に出したらしい、アポロショットには理想的な単騎でハナの展開だ。脚質的にブルーミーティア辺りが鈴を付けに行くかとも思ったが、どうやらクリスはサブよりも俺を見ているらしい、内埒に一頭置いて外を回る俺たちの更に外側後方からピッタリとマークされている。

 他の有力馬ではグランシャリオは恐らく後方馬群で待機中、ソウキュウハイネスはこちらより前だがアポロショットを追う風でもない。

 前八〇〇は体感四十六秒少し、可もなく不可も無いペースで先頭のアポロショットまではおおよそ六馬身。前は多少速いだろうがアポロショットならやり切ってしまうというペース。

 だが、まだ行かない。視界を右に向け外のスペースを確認しながら、六〇〇までは脚を溜め切る。

 四角で自然と膨らむのに任せて進路を外へ、前目に位置取った甲斐もあり取るべき進路がハッキリと見えていた。

 スタンドからの歓声が大きく聞こえ始める。

 ハミを通じて感じるアスンシオンと俺の呼吸が重なった一瞬、ここだと直感して追い始めたその瞬間、外側から降り注ぐような圧力が覆い被さってきた。

 目視するまでもない。クリスとブルーミーティア。アスンシオンは気が強いタイプでは無いし何より牡馬を相手に力比べをしたのでは普通の牝馬でも分が悪い。最悪の当たられ方だが相手は元々乗っていたクリスだ、当然知った上でやっている。

 上等。

 三角で外に構えられていた時点で覚悟は出来ていたし、アスンシオンは良い子でも鞍上は狂犬臼田厩舎の所属騎手である。この程度でイモを引かされたら後でどんな折檻が待っているとも知れない。

「cazzo!」

 クリスが何かを叫んだ。意味なんざ知りゃしないがしてやったって事だろう。

 圧で歪みかけたアスンシオンを立て直して坂の手前は想定通りの三馬身。前のサブを捉えるために、クリスの圧に負けないために、全力でアスンシオンを押す。

 切れ味ではアスンシオンが勝っていた。徐々にブルーミーティアから抜け出しアポロショットとの距離を詰める。坂を登り切る頃には隣から半馬身ほど抜け出し、前への距離は一馬身まで詰まっていた。

 しかしそこが限界だった。元より切れ味で勝負するタイプの馬が露骨に圧力を掛けられて消耗しないはずがない。無理をさせれば粘りは効くだろうが勝つには足らない、牝馬ということを考えれば引き時だ。

 結果を見ればクリスの計算通りにやられてしまったという事になる。

 半馬身の差が巻き返され、ブルーミーティアがアポロショットとの距離を確実に詰めていくのを感じながら、考える暇もない中で半ばヤケクソの本音だった。

「勝てやッ!」

 スタンドの歓声に負けないように、前を行くサブの背を全力で殴りつけるように、あらん限りの声で叫ぶ。

 そうして、三着を確保した状態でゴール板を駆け抜けた。

 前二頭の結果は後ろからでは微妙だったが、サブがいつにも増して派手なガッツポーズをしていたので、不覚にも、負けたくせにホッとしていた。


 この日は最終レースの鞍も無かったので口取り写真の様子を遠巻きに眺めていたら、いつからそこにいたのか知らないうちに、音もなく隣に有紀が立っていたので妙な呻き声が出て飛び跳ねてしまった。

「幽霊でも見たみたいなリアクションやめてくれる?」

「いや、なんでいるんですか」

「生産者代理」

 だってうちの仔だもの、と当然のように続けられると解ってはいても力が抜ける。結局どう転んでもこの女の家に金が落ちるシステムなのである。

「ちなみに、今日って宮代さんと関係ない馬いました?」

「当たり前でしょ、ウチの生産は四頭だけ。お陰で二頭も掲示板に乗れたけどね」

 ありがと、なんて上機嫌で言うあたり今日の結果はそれなりに満足しているのだろう。

「勝てなかったですけど?」

「今日のメンツで三着まで来れば上出来でしょう。ウチの馬が勝ってるし、ブルーミーティアも力を見せた上で負かしたし」

「ひどい本音ですね」

「そっちにだって言える事よ。クラシックから転戦してきたブルーミーティアがこれだけの力を見せたんだもの、接戦を演じたアポロショットがこの先マイル路線で他世代を圧倒すれば間接的にアマツヒやレラカムイの力の裏付けにもなるわ」

 尤もそんな必要すらないかもしれないけど、と、これは小声で続ける。

「そっちはどうして?」

 ふと、スタンドからちょっとした歓声が上がった。視線を向けるとタケルを派手に肩車しているサブと上機嫌で迎えている馬主さんの穏やかな表情が目に入り、妙に心地よい。

「同期だからとか?」

「まあ、それもありますかね」

「ハッキリ答えなさいよ」

「昨日の夜、サブが人の親みたいな事言ってたんで、どんなもんなのかなって」

「ふうん。で、どうなの?」

「どうって?」

「見た感想」

 言葉はすぐには浮かばず、一呼吸、二呼吸、間が空いた。

「こういうもんなんだな、って」

 そうして出てきた言葉じゃとても足らないのだが、それ以上の言葉が浮かばないのだから仕方がない。こういうものなんだな、と素直に思ったのだ。

 有紀は笑うでも無し、静かに腕を組んで続きを待っているようだった。

 それからまた、一呼吸、二呼吸、間を空けて、浮かんだ言葉をそのまま出す。

「父親だった人間が死んだらしくて、手紙が来たんです。多分それで」

 有紀はいつもと変わらない声で、そう、と応じた。

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