大越凛太朗【Amor fati ⑤】

 指定されたホテルのバーで言われた通りに有紀の名前を伝えると、ガラス張りの窓際から反対に位置する、部屋の隅にひっそりと置かれたテーブル席に案内された。毎度ながら感嘆してしまうような抜かりの無さだ。

 そうしてタブレットで今週のレース映像を振り返り始めてから小一時間もした頃だろうか、今日の第八レースを見終えたタイミングで有紀は現れた。

 画面から顔を上げて窓を見ると、青みを増し始めた空には淡い星明りが見えているようだった。

「待たせたわね」

「いえ、ゆっくりするのにちょうどいい時間でしたから。それより、アポロショットの打ち上げは本当に良かったんですか?」

「今日は馬主と騎手でお互い家族まで呼んでるような内輪会だったから、元々挨拶だけして退散するつもりだったの。大日向さんの所と沢辺さんって昔から家族ぐるみなのよ」

「ああ、サブの親父さんと先代の馬主がウマが合ったとかって」

「有名どころだとヤマトチャリオットの担当が沢辺さんのお父さんだったりね、良い付き合いだったみたいよ。今日は久々に大きいところだし、皆楽しそうにしてた」

「そりゃ負けてやった甲斐もあるか」

「そう言えば、沢辺さんの息子の、タケル君だっけ。貴方のファンなのね」

「何です?」

「アスンシオンが二着に来てればもっと良かったってしきりに言ってたから」

「素直に父親の勝ちを祝ってやれっての」

「でも、そこは沢辺さんも同意してた。貴方がいないのにずっと貴方の話してたもの」

 有紀は愉快そうに笑ってから、何を飲んでいるのかと聞いてきた。

「ビール、高い酒に慣れてないんだ。頼んでくれます?」

「了解、任されてあげる」

 そうして近くにいた店員を視線で呼ぶと、ギムレットのソーダ割を頼んだ。

「手紙、今あるの?」

 今日の流れを考えれば不意にではないが、構える間も無く飛んできたと表現したくなるような言葉だった。隠し切れなかった苦笑を漏らしながら、スーツの内ポケットに抱え込んでいた封筒をテーブルに置く。

 有紀はゆっくりと封筒を手に取ると、その外観を眺めるようにしてから言った。

「読まないの?」

「迷ってる」

「何故?」

「読まなければいけない気もするけど、読みたくない気もする」

「読みたくはないんだ」

「今更読んで良いことがあるとも思えないからね」

「読まなきゃいけない気がするのはなんで?」

「解らないけど、捨てられない」

 そうして問い詰められるでもなく自然と言葉を交わしているとギムレットが届いた。

「さておき、乾杯しましょっか」

「宮代ファームの勝ち祝い?」

「それじゃ味気ないし、貴方の三着とかにしない?」

「三着じゃ締まらないでしょ」

 すっかり気の抜けるやり取りで互いに笑いあってから、

「じゃ定番で、お互いのより良い未来に」

有紀がそんな風に言ってから乳白色のグラスをそっと掲げる。

 ギムレットといえばもっと鋭い酒をイメージしていたが、炭酸で割ったお陰で飲み易い。

「旨い」

 有紀への謝意を込めて伝えると、有紀はなら良かったと小さく頷いた。

 そうして他愛もない話をしながら酒を楽しみ、俺のグラスが半分ほども空いたころ、有紀が封筒を遊ぶように指で挟みながら

「これ、私が空けても良い?」

そんな風に言った。

 早くも酔いが回っている訳ではないだろうが、酒の楽しさに反応がワンテンポ遅れて、出てきた言葉は自分でも意外だった。

「助かる」

 情けない話だと気付かされるより先に、有紀は封を切っていた。

「お酒飲んでなさいよ。ここなら顔も効くから、暴れない程度なら大丈夫」

 便箋に目を落としながらそんな風に言う。

「静かに飲むさ」

 気を落ち着けるようにグラスを軽く揺らすと氷の音がした。

 テーブルの上に置かれた有紀のグラスは薄く汗をかいており、乳白色のはずの液体は店内の暖色の照明のせいで黄金色に輝いているようにも見える。グラスの中の氷が溶けて崩れると炭酸の気泡が一斉に吹き上がる。不思議なことに、その泡を見ていると何とかなるだろうという気が湧いてきたのだったが、それは一瞬のことですぐに目の前から急激に熱が引いていって不安で潰れそうになる。そうして何度も何度も、短い時間の中で揺れ動くのだった。

 不安を隠すようにグラスに口を付ける。意地を張っておいたことが良かった。酔いつぶれるような飲み方をしてはいけないという自制は残っていた。ゆっくり、呼吸を落ち着けるようにして、あくまで酒を楽しむのだと言い聞かせるようにして口に含む。

 実際にはそれほど経っていなかったのだろう、けれども妙に長く感じられた時間の後、俺がグラスを空けきる頃に、有紀は便箋から顔を上げた。

「意外と短かった?」

 平然を装おうとして、そんな風に言った。

「長い文章を書ける人ではなかったんだと思う」

「それは、つまり?」

 バカな質問をしていると思った。自分で読めば良いだけの事なのにわざわざ人に聞いているのだから救えない。

 それでも、有紀は気にした風ではなかった。

「ストレートに言えば、勉強が出来る人ではないってこと。でも、雑って訳じゃなくて、この人なりに一生懸命には書いたんだと思う」

 何が書いてあったのか。本当はそれを聞きたかったが、ためらいが先に立った。見栄だけではなくて、きっと怖かった。そうして空のグラスで遊びながら、そっかとかへえとか、妙な相槌を返すのが精一杯だった。

「読める?」

 有紀はそんな俺のことを見透かした風にそう聞いてくれた。

 首を横に振る。

「グラス、次はどういうのが良い?」

「もうちょっとキツめかな」

「じゃ、ドライマティーニ」

 先ほどと同じように店員を呼んで注文し、その距離が離れたのを見てから、

「内容、話すよ」

「ああ、頼む」

有紀は手紙を読み返すようにして、ゆっくりと語り始めた。

「最初は児童虐待で捕まったことを周りに隠してたみたいね。他に傷害の余罪もあったから、他の受刑者に聞かれた時はそっちの話をするようにしてたって。でも、その頃の話は本当に少しだけ、文章のほとんどは貴方が騎手としてデビューしてからのこと。

 貴方が騎手デビューしてから刑務所に入ってきた人と話をしていて、大越って苗字が珍しいからって話を振られたそうよ。大越凛太朗なんて姓名の人間そういないからすぐに気が付いたらしいけど、わざわざ目立つような真似はしたくないから知らんふりして過ごしてたって。

 ただ、やっぱり知った以上は気になるから、刑務所の暇つぶし程度の感覚で、他の受刑者が買ってるスポーツ新聞や雑誌をそれとなく借りて貴方の成績を調べるようになったって」

 脚を組み、膝の上で頬杖を付きながら。平静とは言えなかったが、想像よりは冷静に聞けている自分に驚いていた。もっと感情が狂ってしまうだろうと思っていたが、有紀の口を通して聞かされるお陰もあってか、どこか他人ごとのように聞けていた。

「そうしているうちに、刑務所っていう環境のこともあってか、すっかり貴方の成績が一番の娯楽になって、楽しみになっていた、生きる希望になっていた、って書いてる。自分はこの凄い人間の父親なんだって考えると自分みたいな人間でも偉くなれた気がしたって。

 だから、貴方が重賞を勝ったニュースが出た週に、いつも競馬の雑誌を借りていた人につい話したんですって。

 それで相手から色々聞かれたけど、考えてみたら貴方が喜んでいた記憶が殆どないことにその時気付いたんですって。それでも必死になって思い出して、貴方をギャンブルに連れて行って勝った時に食事に連れて行った話を、貴方が喜んでいたからって話したそうなの。けど、それからすぐ児童虐待のことが周りに知られたんだって、そう書いてる」

 頬杖のまま、そっと頷く。

 パチンコ屋で銀球を拾ったり、その辺に落ちている舟券を拾ったり、物乞いの真似事をさせられたり。負けて殴られるか、勝って上機嫌な父親と外食にありつけるかの二択なのだから、食事にありつけた日は喜んで当然だろう。思い出すだけで冷笑が浮かぶ、美味しくて嬉しかった記憶。

 息子の思い出話を聞かれてあんな話しか出てこない、そんな話を他人にしてしまう、そういう人間だったことを改めて知ると、どこか哀れですらあった。

「犯罪者にもヒエラルキーがあって、児童虐待をしていた人間は一番下の扱いをされるそうなの。だから、そのことを話して、全部知られてからはひどくいじめられるようになったって。でも、それで自分がしていたことが虐待だって気付いたって……そう書いてる」

 つまり、俺の父親は俺を虐待していたことについ最近まで気付いていなかった。

 だから、媚びた笑いを浮かべるしかできなかった俺を見ても、チンケな外食を喜んでいるのだと、恐らく本気で思い込んでいた。

 そして、そんな話を唯一の繋がりとして話したことで刑務所の中でいじめられるようになって、そうしてようやく自分がしていたことを理解した。

「救われない話だな」

 死んでくれた事を喜ぶ自分がいると思ったのにまるで喜べない、笑えないギャグみたいな話。

 会話が止まったタイミングで運ばれてきたドライマティーニを口に含むと、その辛さが心地良い。

 ただ、哀れで仕方がなかった。そしてそう思うと、手紙を読むだの読まないだのと、そんなことに煩わされていた自分も滑稽に思えた。

 どうしようもないほどに、父親と呼ぶべき男は他人だった。

「あとは本当に、貴方への懺悔が書いてあるだけ。だからもう、貴方が読まなければならない必要は無いと思う」

 そうして便箋を封筒に戻すと、俺へと差し出してくる。

 あとはもう自分で決められるでしょう、そういわれたような気がして、素直に受け取った。

「どうするの?」

「解らないけど、少なくとも怖くはなくなった。だからありがとう」

 三十余年も煩わされていた問題を小一時間で解決してくれたのだから、この女も大したものだ。

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