大越凛太朗【Amor fati ⑥】

 ざらりと湿った何かに顔面を舐められ生温かい感触で目が覚めると、次いで気付いたのは猛烈な馬臭さ。寝覚めとしては最低最悪レベルに違いない。

 べちょべちょに湿らされた顔を手で拭い指先の涎を払っていると、ボロ取りのフォークを手にしたちせが冷めた視線でこちらを見ていた。

「何時?」

「もう七時ですよ。起きたならどいてあげてください、レラが待ってます」

 言われてから寝覚めのベロをくれた愛馬に視線をやると、どうやらコイツもやりたい訳では無かったらしい。

『何かわかんないけどお前見た途端ちせが怖いんだよ、さっさと出てけ』

「悪かったな」

 寝藁から身体を起こすとどうやら酒は残っていない。首についた藁を雑に払って立ち上がり、家主の首を詫び代わりに撫でてから馬房を出る。

「月曜だから良かったですけど、普段だったら先生から大目玉ですからね」

 まだ言い足りない風なちせはとても茶化して逃げられる雰囲気ではない。

「夜中にコイツの顔見たくなってさ。酒も入ってたからいつの間にか寝てた、すまん」

 素直に頭を下げたのだが却って苛立たせてしまったのか、眉間に皺を寄せて汚物でも見たような表情の後で視線すら逸らされる。

 逃げるように距離を取る去り際、耳に滑り込んできた舌打ちのような呟きはやけに鮮明だった。


 五月に入るとトレセンの空気は独特の緊張感を帯びはじめる。

 誰もが何となくその言葉を避けているのに、出走馬を持つ関係者のことは皆が当然のように把握していて、暗黙の裡に、なにかにつけて先を譲るような、喩えればとても神聖なものと向き合う時のような、特別な雰囲気が作られていく。

 ヴィクトリアマイルで騎乗するオーブウールーズの最終追切後の会見も例外ではなく、馬の調子が順調であると解れば話題は鞍上の俺のことにスライドし、当然のように再来週を見据えた受け答えをする雰囲気になっていた。

 直球を投げ込めない記者の気持ちは察しながらも質問をほどほどにかわして切り上げると、会見場を出たあたりでウル子の調教師である石田先生がそっと近付いてきた。

「この後ダイナース側と打ち合わせだが、どうする」

「いらっしゃるんですか?」

「いや、オンライン」

 細かい指示は当日だろうが声を掛けられた手前挨拶くらいはしておこうかなどと考えていたら、石田先生は続けた。

「無理しなくて良いぞ。お前の場合は他の乗り役と事情が違うし、大事な時期だろ」

 意識せずに聞けてしまうような自然な気遣いだった。

 提案に甘えて石田先生とは道中で別れ、臼田厩舎へ戻ると御大が一人で大仲のパソコンに向かっていた。今後の厩舎経営についてでも考えていたのだろうか、それにしてはモニターを睨むように腕組みした状態からまるで動く様子が見えない。

 声を掛けようか迷っていたら、御大の方からふと振り返ってこちらを向いた。

「済んだのか?」

「はい。石田先生が厩舎の作業しろって」

「そうか。来週のオークスはどうするんだ?」

「昨日鎬先生と電話しましたけど、俺は行かなくていいそうです。最終追切は先生が自分で乗るって言ってました」

「そうか」

 御大はおもむろにパソコンの前から立ち上がると打ち合わせ用の大テーブルへと動いた。

 給湯室でお茶の用意をしてから御大の向かいに腰を下ろし、んまい棒を齧る。

「俺が入った頃はこんなに毎週G1やってなくてな、天皇賞の次はダービーって感じだった」

「オークスがあったでしょ」

「オークスは牝馬のダービーだからな」

 御大は音を鳴らしてお茶をすするとんまい棒に手を付けた。ぼりぼりと小さな音だけが鳴って、ちょうど俺が手にしていたんまい棒を食べ終わる頃に言葉が続いた。

「まさかお前が毎週G1に乗ってる時代が来るとは夢にも思わなかったが」

「それは……俺もです」

 言ってから、気の抜けたことを言うな、と怒鳴られる可能性に気付き身構える。

「感謝は忘れるなよ」

 しかし意外にも、御大は小さく笑ってそう言っただけだった。

 それから暫く、競馬の事は一つも話さずに、んまい棒をぽりぽりと齧り、お茶をずるずるとすすり、お互いに一本ずつ食べ合うくらいの時間が過ぎてからだった。御大は新しいんまい棒を剥きながら思い出したように言った。

「親のことは落ち着いたのか」

 御大の湯呑が空になっていたので急須に湯を入れながら、少し考えて頷いた。

「何も無かったですから、落ち着くもクソも無いですよ」

「死んだだろうが」

 そうではない、と首を振ってから答える。

「そういう意味じゃなくて、当時のことには何の意味も無かったことが解ったんです。だからもう父親について考えることはありません」

 素直に思っている事を口に出したが他人から理解されるには難解な感覚なのかもしれない。御大は小難しい話を聞かされた時のように眉間に皺を寄せたので、慌てて続ける。

「要するに、すっかりカタがついたってことです」

 御大は少し納得がいかないようではあったが、ならいい、といつものように乱暴に話を打ち切った。




 メイン直前のダート戦で勝ちを拾えたのは幸運だったが、パドックには間に合わなくなった。口取りを終えてから特急作業で勝負服を変え、地下馬道に降りてきたところを捕まえようと検量室の表に出ると、状況を察知していた石田先生が既に待ち構えていた。

「何か指示がありました?」

 弾む息を整えながら尋ねると、石田先生は幾分緊張した表情で小さく首を振る。

「出来れば先手が欲しいが最後は鞍上に任せるとさ、代表さんから直だ」

「少しは解ってきた、ってところですか」

「信頼されてるじゃないか」

「結果出してますから……今のところはね」

 軽口を叩いて笑いあいながら、簡単にストレッチしていたら石田先生が突然俺の肩に手を置いて揉むようにした。四十代の若手は握力もしっかりしている。

「掲示板くらいは狙えるはずだ」

 ウル子の状態や周りの比較を考えれば、調教師としては一発を狙っているというのが本音だろう。どっこい人気からすれば掲示板くらいが妥当だから、という気持ちとせめぎ合って肩なんぞ揉んできたのである。

 肩に食い込む指先の力強さは決して軽いものではない。

 やがて降りてきた一団からウル子を探し出し、先生の補助を受けて跨った。

「頼むぞ」

 馬上に押し上げてもらう一瞬の声に、ステッキを握る指先に力が込もる。

 列になって本馬場へ向かう馬の流れに合わせるためにその場で小さく旋回すると、ホースプレビュー側に有紀の姿が見えた。わざわざパドックからここまで来たらしい。目礼すると小さく手を振って返される。

 本馬場へ上がる坂の下から外の陽を眺めている時にふと、勝ちたい、と思った。

「期待してるさ」

 ウル子を引いている岡安さんからの声が返ってきて、言葉が漏れていたことに気付く。

 表に出てダートコースを抜けて芝に入る間際、引綱を外す岡安さんに、勝負かけてきますと宣言して腹が決まった。

 待機所の輪乗りの最中、大方がハナを切ると予想している郷田さんのレディキャットの様子をそれとなく伺うと落ち着いたオーラを放っており、ゲートミスを期待するような真似はしない方がよさそうだ。しかしそれならばこちらも出負けしなければ良い。幸い枠はこちらが内、覚悟さえ固めておけば勝負にならないものでもない。

 ゲート入りを待つ最中にふと視線を感じた。探るとどうやらサブらしい。付き合いも長いし勘の良さもある、悟られたと考えた方が良いだろうが、とは言え悟られてどうこうされる類の作戦ではない。

 係員に引かれてゲートに入り、他の馬を待つ間、首を撫でてこれから多少驚かせることを予め詫びておく。 

 成功する確信なんてあるはずもないが、何故だか失敗することへの恐怖も無い。

 ゲートが開き馬が出ると同時に鞭を打った。このレースで勝つ為に最善を尽くすのならば足を溜める事など考えている余裕はない、ハナから全力で、行けるところまで突っ走るのが唯一の正解だ。

 きっと一瞬だった。俺が取った行動に面食らったかは定かでないが、馬群の形成にほころびが生じた、その一瞬をついて先手を取る。策が的中したかは解らないまま単騎でハナに立ちコーナーへと侵入する。

 後方確認できた二番手には大方の予想通りレディキャットが落ち着いておりおおよそ六馬身といったところか。後方が追ってくる気配が薄いのは番手を取った郷田の判断が大きいのだろう。

 今の府中の極端に軽い馬場は前を行く馬の脚を軽くする。郷田クラスの騎手がその程度の判断を誤るはずもなく、つまりこの展開は俺達ではなく後ろをまとめて潰しに行ったということだ。郷田からすれば有利な前には無理してハイペースを選んだ劣っている馬が一頭、俺からすれば仮に郷田には捉えられてしまってもそれより後ろの馬にはどうか。全く以てイヤらしい勘定が二人の間で合致したということになる。

 大欅を左手に通過して半マイルは恐らくは四五秒台前半から四四秒に入る程度。まだ後方は近付いてこない。ペースは速すぎるはずだが手綱から感じる手応えは悪くない。最後は滑り込むつもりでやれば一六〇〇はどうにかギリギリ堪え切る。

 埒に張り付くようなコース取りで最終コーナーから直線へ向く。

 後方は、まだ来ない。

 残り四〇〇、坂の直前で後続のことは意識から切って捨てた。差し返すことなど出来ない勝負なのだから細かい駆け引きなど考える必要は無い。あとはこの長い直線をひたすらに追って粘り込むだけだ。

 限界を迎えたラスト一ハロン、最後のひと踏ん張りに手前を替えさせたタイミングで明確に勝利を意識する。

 そうしてとうとう最後まで、後方からの蹄の音は聞こえなかった。 


 表彰式の壇上から降りた時に有紀と目が合った。地下馬道でも顔は合わせたがこの距離で言葉を交わすのは一週間ぶりだ。

 周囲の人間はそれぞれの用事ではけてしまい、俺は最終レースの鞍も無いからゆっくりと地下馬道へ降りていく道中、どうやらあちらも急ぐ用事は無いらしい。どう話しかけたものかと思案したのは僅かな間のはずだが、声が出たのは有紀の方が早かった。

「あわよくば、って感じではあったけどね」

 なんてことはない風に、いつも通りの調子だ。

「今期もうこれで三勝目でしょ」

「お陰様で、全部宮代さんの馬ですけど」

「良いじゃないの、ウチの馬で勝てれば。こっちも得だし、そっちも得で」

 軽い調子で言う有紀を何となく珍しく感じると、表情に出ていたらしい。

「どうかした?」

 そう問い返されると返事に詰まる。

 言葉が途絶えてしまった状態で検量室前にある馬主席へのエレベーター通路の前まで進み、別れの挨拶をしようとすると、圧の高い視線で言葉を止められてしまう。話を区切ることが出来ず、何となく立ち話をしている雰囲気だけ出しておくと、やがて有紀は静かに言った。

「突然消えたからどうしたのかなって。大丈夫だって言ってたのに」

 あーあ、なんて、声には出さないが、心中溜息。とぼける事は、まあそりゃあ出来ない。どう答えたものか、なんて考えるべきではなくて、そのまんまを話すしかないのである。

「レラの顔が見たくなって、気付いたら美浦に戻ってました」

「何それ」

「朝気付いたらレラの馬房で、ちせにもすっごい嫌味言われました」

「ほんと、何それ」

 いつも通り、らしい仕草で、鼻で笑われる。だがそのおかげで、自然と言葉が続いてくれた。

「父親のこと、怖くなくなったのは本当なんですけど、なんかむなしくなったんです。それで、迷惑をかけたけど、あの後、しんどくなっちゃって」

「で、馬に会いに行ったわけ?」

 すっかり呆れ切った風にこめかみを押さえながら隠そうともしない溜息と一緒に言われても、事実なのだから、頷くしかない。

「俺、多分、何かがあってほしかったんだと思います。でも、本当に何も無かったから、そんなことに今更気付かされたから、それがしんどかったんだと思います」

 人生の全てのように思わされていたことなのに、許すことも、恨むことすらも、何もしようがなかった。本当の意味で、そこには何もなかった。だから、今度こそ自分が本当に空っぽになってしまったような気がして、怖くなった。その怖さが何か解らなくて、辛かった。

「あの時、ホテルにいた時は解らなかったし、今でもどうして良いかは解らないけど、馬房でアイツを見ながら考えてたら、少なくともそこまでは解ったので」

 言い終えると、有紀はまだ納得した風ではなかったが、それ以上詰めてくることも無かった。

「まあ、そっちが納得できたのならそれで良いんじゃないの。調子が良い分にはこっちにとっても有り難いし」

 そんな風に言われて、さっきと意味は大して変わらないはずなのに、ようやくしっくりくる。この女はこれくらいの方がちょうど良いのだ。

「ともかく、この前は挨拶もせずに失礼しました」

 堪え切れなかった笑いを漏らしながら、我ながらようやくという思いで深々と頭を下げると、小さな溜息。

「ダービー、負けないから」

 それから、やけに透明に、そんな声が聞こえて、頭を上げた時にはもう後ろ姿だった。

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