大越凛太朗【Amor fati ⑦】

 南ウッドの五ハロンで二頭併せの外から併入して先着させるというのが事前の打ち合わせだった。近隣の厩舎から借りてきた古馬二頭はどちらも強めに追ってくれていたが、対するレラの手応えは馬なりでも十分すぎるほどであり、却って多少抑えてやらなければ速すぎるのではというレベルだった。

 皐月賞の時に籠もっていた疲労がすっかり抜け、レラの全身に走る力が迸っているのが解る。蓄えたエネルギーの余剰分を放出する為に自然と速度が増しているのだ。

 結局馬なりにも関わらず終いの時計は十一秒台、併せ相手の両頭をラストだけで千切ってしまうような速度だった。

『調教で千切ってどうする馬鹿野郎』

 インカム越しに聞こえた御大の怒声はいつも通り肝が冷えたが感触の良さは伝わっていたのだろう、長年の付き合いになれば解る程度には上機嫌だ。

 調教を終え、ルーチンのクールダウンをしっかりとこなしてからちせに引き渡し、厩舎前で待ち構えていた蓬田君たち記者の前に顔を出す。名目上はモチ子のオークスに関する取材だったがオークスに関する質疑を一通り終えても記者がはける気配が見えない。どうやらここでも本題はレラらしい。

「それにしても、今朝の調教凄かったですね」

 蓬田君の発言に周囲の記者からの視線が一斉に強まるのを感じたが、いかにも世間話風に切り出されたものだから無視するわけにもいかない。

「先生に怒られたよ、馬なりだったんだけどね」

 俺が答えると待ち構えていたかのように記者達から質問が続く。

「併せの相手は貞廣厩舎のロンゴミニアドと広江厩舎のマウスポインタですよね。両頭とも一線級のオープン馬なんて、よく揃えられましたね」

「僚馬だと流石に荷が重いので、お願いしました。ウチのじゃ上でも二勝馬なんでね」

「その辺の調整は大越騎手が?」

「いや、ウチの厩舎事務。元々自分で牧場やってたから、田舎の付き合いが上手いんだよ」

 兼レラの馬主、なのだが説明が面倒になるのでそこは伏せる。隠すような話ではないから答えても良いのだが、過熱してしまっても良くないので加減が難しいのだ。

「臼田厩舎の泣き所が解決したってとこですか」

 ベテラン記者からそんな風に茶化されると苦笑するしかない。実際、ちせが入ってからその手の調整は恐ろしく楽になっていた。本人曰く特別なことをしているわけではなく、世間話と挨拶だけでどうにかしているという辺りがまた驚かされる。殊馬が絡むような場面では元いじめられっ子とは思えないようなコミュ力お化けだ。

「確かに俺や先生じゃとても揃えられないメンツだったから、感謝ですね」

 笑いながらそう返すと、一人の記者が突然手を挙げ、俺の方をじっと覗き込むようにして言った。

「その臼田先生のことについて、少し伺いたいのですが」

「先生のことは先生本人に聞いてくださいよ、下手言ったら俺が怒られるんだから」

「もちろん記事にする時にはきちんとご本人から聞きますが、ご本人に行く前の事前調査ですよ。トンチンカンな事聞いたら洒落にならないじゃないですか、臼田先生の場合は特に」

 そんな風に拝まれてしまうと断る訳にもいかない。何せ相手はあの御大、下手な質問などしてしまえば鉄拳が飛んでくる可能性もあるのだから記者の不安は当然のものと言える。となれば、陰で師匠の尻ぬぐいをするのも弟子の義務。すっかり慣れてしまった複雑な感情でため息交じりに小さく頷いて先を促す。

「ではお言葉に甘えて、伺いたいのは皐月賞からの復調のことです。まだ一週前ではありますが、現状の仕上がり具合は見事と言うより他にありません。もし仮に今日のデキであれば、たとえ相手があのアマツヒでも、皐月賞の結果も違っていたかも知れない――」

 なかなかに大胆な発言だと思ったが、他の記者たちの反応を窺った限りでは突飛な妄想とは受け止められていないようだった。どころか、もしかすれば同じ類の質問を聞きたかった記者もそれなりにいたのかも知れない、気付けば全員が何気ない風にメモ取りに構えている。

「――ダービーに掛け値なしのピークを用意する為に全てが計算尽くだった、と考えることもできますが、このあたりいかがでしょう」

 そこで言葉を止めて、じっと俺の方を見る。

「それこそ俺には答えようがないですよ、先生以外知りようがない」

「でも、臼田先生に限って調整ミスなんて有り得ないって、大越さんも思ってるでしょ?」

 トレセンの囲み取材だからこそ出るような質問だった。本来なら厩舎関係者へ向けた世辞を兼ねた発言と受け取るべきなのだろうが、質問の口調や周囲を囲む記者達の反応はそれだけではないと考えた方が自然だ。

 つまり、臼田昭俊という人格破綻調教師は、殊『強い馬を鍛える』という調教師の根源的な仕事に関して、関係者から百科事典並みに分厚い信頼を寄せられているのである。外厩全盛期のこの時代に大手との繋がりを持たずに勝ち星を上げ続けているのだから、たとえ弱小でも並の調教師とはレベルが違う。そしてそのことは、他の誰よりも俺自身が理解している。

 だからこそ生じる疑問――何故、皐月賞ではああしたのか。

「そんな質問をされたらイエスって応える以外の選択肢が無いけどさ、本当にこればっかりは先生にしか解らないことだから」

 どのみち記者に語る事でもない、その場ははぐらかした。

 その後二、三の応答を終えてから記者たちがそれぞれの取材に散っていくと、最後に残ったのは蓬田君だった。聞けばこの後の取材予定はないとのことだったので大仲に招き入れて茶を出してやる。

 んまい棒をかじりながら茶をすすり、世間話をしている時の事だった。

「さっきの質問、僕も気になってたんですよね」

 すっかり仕事を離れたような口調で、蓬田君はそう言った。 

「仕上げのこと?」

「大越さんは実際どう思ってます?」

「あの状態でもパフォーマンス自体は普通なら圧勝してる内容だからね、本当の意味で調整ミスがあったとは思ってないよ。一般論として考えるのなら、相手の力が規格外過ぎて読み違えたって方が本命だと思う」

 自分にも通じる嘘を自覚しながら伝えると、蓬田君は予想外に食い下がった。

「本当にそう思ってます?」

 じっとこちらを見据える視線にどう答えたものかと考えながら茶をすする。

 蓬田君の質問への答えはイエスでもありノーでもある。つまり、御大は例年ならば勝てる仕上げを想定してその通りに皐月賞へと送り込んだが、同時に、アマツヒの力量から負ける可能性も承知していたというもの。調整ミスではなく、しかし同時に負ける覚悟もしていた。

 全てはダービーの為に。

 考えはまとまっているが口にするにはやや重い、そんな心境で腕を組み、だらりと天井を見上げていると、視界の外から、不安げな表情が浮かぶような弱弱しい声で蓬田君が呟いた。

「今年に入ってから臼田先生に調べものを頼まれることが増えてて」

 声の様子に引っ張られるように視線を向けると、蓬田君はこめかみに指をやって考え込むような仕草をしている。

「レラのレース絡みの?」

 問い返すと蓬田君は首を横に振った。

「それも増えましたけどそうじゃなくて、増えたのは厩務員の求人情報とかです」

 言われて俺も目が点になってしまった。

「育成牧場とか外厩の求人情報とか、あとは新規で調教師目指してる助手さんの情報とか……まるで廃業するみたいなことばかり聞いてくるんですよ」

 御大が調教師をやめる。頭に浮かんだだけでも強烈だった。あまりにも強烈過ぎて、目の前の蓬田君が重々しい表情でそれを語っていなければ即座に笑い飛ばしていただろう。

「先生、競馬やめんのか?」

「聞き返してどうするんですか。それこそ大越さんが知らなきゃ誰も知らないですよ」

「いや……俺は何も聞いてない」

「なら、私の勘違いかも知れません。少なくとも大越さんには話すでしょうから」

 そうして蓬田君は一息つくように湯呑に口を付けたので、俺も意識を落ち着けるためにんまい棒を口に運んだ。

 つまり、蓬田君が抱えている推論はこうだ。御大は今年の頭から既に引退を意識し始めていて、そうなればレラが最後のダービーとなるだろうから必勝を期している、と。

 確かに考えられなくもない。しかし一方では、御大の性格からしてだからと言って皐月を諦めるような戦略を取るはずがないという思いもある。

「でも、先生が競馬を辞めるってのは、有り得ないと思う。あの人から競馬取ったらそれこそ何も残りゃしないんだから」

「厩務員に戻ろうとしてる可能性とかは」

「流石にそれは無いだろ。大体今更あの人を厩務員で扱える厩舎なんてあるはずない、本人だって自覚してるさ」

「まあ、そりゃそうですよね」

 有り得ない仮説を立てて即座に取り消す蓬田君の混乱具合も良く解る。しかしとは言え何故厩務員の求人情報など調べているのか。タイミングが妙な具合にかみ合って疑念だけが浮かんでしまう、イヤな状況なのは確かだ。

「ともかく、そういう事なら先生に直接聞いてみるさ」

 こういう事は曖昧なままにしておくよりもさっさと本人に聞いてしまうに限る。見当違いな話であれば一発殴られれば終わること、少なくとも俺と御大の関係性ではそうだ。

「なら、あとで結果を教えてください」

「特ダネ狙いなら悪いけど、多分そうはならないよ」

 俺がそう言うと、蓬田君は小さく首を振った。

「結果がどうでも記事にする気はありませんけど、理由が解れば情報も集め易いですから」

 その言い方が妙に引っかかって、つい、口調がきつくなっていた。

「まさか本当に辞めると思ってんの?」

 蓬田君はほんの少したじろいだような素振りを見せてから、ゆっくりと、その口調はどこか俺を気遣う風でもあった。

「個人的にはそうじゃない事を願ってますけど、有り得ない話とは思っていません」


 午後の作業に出てきた御大を人気のないところで捕まえて蓬田君から聞かされた話題を振ってみると、予定に反して即時鉄拳は飛んでこなかった。どころか、いつもなら俺に任せている癖にレラの運動に付き合うという。

 嫌な予感と言うより『ああ、当たりだ』と思った。

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