大越凛太朗【Amor fati ⑧】

 こんな日に限って、まるで空気を読んだみたいにレラが砂浴びをしたがったので砂浴び場に連れて行く。御大と二人で砂上を転がるレラの姿を眺めていると、ふと、つい数か月前に宮代明と二人でこうしていた事が思い浮かんだ。

 あれからまだ半年も経っていないが、宮代の馬に乗るようになって俺の騎手としての立ち位置はすっかり変わった。ちせに任せなければ管理がままならないほどの騎乗依頼が届き、一か月先まで予定が入る、まるで人気騎手のような日々を過ごしている。そんな有り得ないはずだった現状のことを考えれば、蓬田君が語った内容もまた有り得ない話では無かったのだろう。

「解散自体はずっと前から考えていたことだ。それこそエトゥピリカの件よりも前から」

 そう告げた御大の口調は、日常のそれと一つも変わらなかった。

「お前や厩舎連中の今後についてどう算段をつけるか考え始めた時分に茂尻の爺さんからエトゥピリカを預かったんだよ。大当たりも引けたし締めるには良い区切りだなんて考えていたところで、エトゥピリカも、爺さんも、あんな形で死んじまった。つまるところ、今ウチの厩舎が残っている理由は茂尻やあそこの馬への義理だけだ」

 レラは知ってか知らずか呑気に砂の上で背中を擦り付けている。

「最小限の負荷で仕上げてやる事も、ストレス無く日々を過ごさせてやることも、ここではできない。ここには馬に余計なものが多すぎる」

 決して弱気な愚痴ではなかった。淡々と、冷静な分析だからこそ胸をえぐられる。

「もし仮に宮代の組織がエトゥピリカを管理していたら、あの事故は起こさなかった」

 静かに、穏やかに、だからこそ反論を許さない形で言い切った。

「明日は槍でも降りますか」

 瞳を見据えながら精一杯の異を示すと、御大は俺を見返しながら、身構える必要がないと解ってしまうようなゆっくりとした動作で腕を組み、柵へ背を預けて空を見上げた。

「より大きな余白を持つより優れた施設で、より高い水準の研鑽に励む厩務員の手で、よりストレスなく過ごし、より手厚いケアを受けながら、より合理的なトレーニングを積むことができる……とくれば、馬の立場でどっちが幸せかなんて解り切ったことだろう」

 指を折りながら語る御大から目を離して柵に胸を預ける。疲れた瞳をほぐすように指先で目蓋を押さえると僅かに鼻の奥がツンとする。

「それが馬を強くする正解により近い方法なのだから、遠からず全ての馬主は馬を鍛える機能をトレセンの外に求めるようになるだろう。宮代に倣った馬主達が共同で設備投資を進めるようになって、ここはますます競走馬を作る場所から遠ざかる。それでも、他の全部が消えた後でもここには競馬会の都合だけが残されて、やがて馬の足手まといにまで成り果てる。何より我慢がならないのは、他でもない俺自身がその一部に取り込まれることだ」

 目蓋を押さえていた指を離すと、俺達の話なんかまるで興味を持たずに砂の上を転がっているレラの姿が霞んで映る。

「何故宮代が強いのか、ここが弱くなったのか、少し考えれば誰だって解ることだ。連中は馬で稼いだ金をそっくりそのまま馬に注ぎ込んでいる。より正確には、連中は馬を強くする為に馬で稼いでいる。純粋に、目的と行動を直結させて延々と循環させている。翻ってここには、馬も、金も、人も、仕組みも、間に入る余計なものが増え過ぎた」

「ダサい真似したくないから、やり切らずに逃げるんですか」

 今殴られたら殴り返すかも知れない。そんな気持ちで言葉を返したのは初めてだ。

「やり切るさ。厩舎の解散も何もかも、全てはレラカムイを頂点に立たせてからだ」

 しかし御大は穏やかに答えただけだった。そうされると、俺は、もう決めてしまったのだと受け入れるよりなくなった。

「やり切って、アイルランドへ行く。細かい話はこれからだがな」

 そうして、あまりにも平然と、とんでもない話を続ける。

「ツテとかあるんですか?」

「昔世話になった縁でな。いきなり厩舎を構えることは無理だとしても、最低限生きていくくらいの目途はある」

 淡々と、軽すぎる訳ではないが決して重くない、例えば週末のレースに出馬投票する程度の口調で、人生の一大事を言ってのける。その上決して気取っている訳ではなく、自然体なのである。弱小厩舎とは言えそれなりに安定した収入と立場を捨てて、何の保証も無い場所でのゼロからのスタートを自らの手で選び取ろうとしているのだ。どう考えたって頭のタガが外れているとしか言い様がない。

「今あるものを捨てて勝負するには分が悪すぎますよ」

 止める気も止められる気もしなかったが、思ったことがそのまま口を出た。

「人生どう転んでも一度きりだ、ならせめて面白く生きた方が良いだろうが」

 御大は静かに、ゆっくりと、固く握り込んだ拳を俺の脇腹にねじ込みながら言う。

「アイルランドからジャパンカップを勝ちに来る。良い目標だと思わんか」

 俺は右の腕に力を込めて、ねじ込まれた拳を押し返しながら

「次の夢を語るその前に――」

言葉を繋げようとしたら、

「ダービー、勝つぞ」

その先は御大に奪われた。



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