大越凛太朗【Amor fati ⑨】
オークスの前夜、調整ルームの自室でスポーツ新聞を広げているとサブがやってきた。
「引きこもっとらんで、食堂で一杯付き合えや」
突き出してきたコンビニ袋の中身はどうやら乾きものらしい。
「今は遠慮しとく」
「なら今日は部屋飲みやな」
当然のように見透かしてくるあたりが流石の腐れ縁だ。すっかり納得した風に、こちらの返事を聞かずにずかずかと入り込んでくる。
「気にするほど人目を引けるっちゅうのは羨ましいもんでもあるが、気にしたってしようもないもんは慣れるしかない。お前、もう少し神経図太く鍛えた方がええで」
俺を見習えとばかりに言い放つと、我が物顔でベッドの上に陣取ってつまみの袋を開け放つ。
「どこまで行ってもお前には勝てねえよ」
本気で拒絶する気は無かった。食堂で監視の目に晒されるのが躊躇われただけで、相手がサブなら気にするはずもない。持ち込まれたコンビニの袋から缶ビールをつまみあげて椅子に座り、乾杯の合図くらいは待ってやる。
「そら天性の資質ってヤツよ、見習え」
サブはそう言って手にした缶をこちらに掲げた。
「ゴチ」
「お粗末さん」
互いに喉を鳴らし合ってから、つまみのスルメをしゃぶる。
「あ、なんか唐突に思い出した」
「何をや」
「白井の時、お前がどうしてもポテチ食いたいって騒いでさ、結局二人でコンビニまで走って、でも結局ポテチ買う度胸無くてスルメでごまかしたことあったよな。ほら、一年の頃」
「やめえや辛気臭い、酒が不味くなる」
「いや、お前とこういう風に話すようになったのアレからな気がしてさ」
「続けるんかい……ヘタザワのアホが鬱陶しかったことくらいしか覚えとらんわ」
「吉澤さん、懐かしいな」
当時の競馬学校では菓子が定量制で、それも所定のロッカーにしまっておかなければならない規則だった。挙句ロッカーへは先輩方がたむろしているロビーを通らないと辿り着けないから、口うるさい先輩に目を付けられていたサブは苦労していた。
「助手になって今年で三年目だっけ、やれてんの?」
「腰が低いし仕事は丁寧って、評判はええ。現役の頃に苦労した分若い連中にも色々教えてやってるみたいやし、騎手より向いとるんやないか」
「昔から面倒見は悪くなかったしな」
「アホか、昔のありゃただのいびりや」
「でも俺、水貯めのやり方とかあの人に教えて貰ったぞ」
「またクソ懐かしい話題を……さておき、今の若い連中は俺らの時代と大分違うみたいでな、吉澤さんもその辺弁えながら色々教えてやっとるわ」
「違うって?」
「それこそ今度総司にでも聞いてみい、携帯持ち込み普通にオッケーやしポテチも二袋以上食えるようになっとるらしいで」
「マジかよ」
「俺らはビスケット一枚余分に持ち込む為にヤクの密輸並に苦労したっちゅうのにな」
「アレか、中身すり替える」
「せやせや。しかし今考えるとようあんな下らんことに必死になれたな」
灰色の、だが俺にとってはそれなりに以上に楽しかった寮生活。サブも思い出せば笑える話ではあるのだろう。いつもよりは幾分しんみりとしているが、その笑顔は作ったものではない。
「もう十年以上経ってるってのが、どうにも実感無いんだよな」
ビールの泡に心地良くなりながら言うと、サブは小さく笑って勢いよく缶を傾けた。そうして、一息の間を置いてからだった
「賢一とは最近話したか?」
同期の名前に自然と気が緩む。
井上誠一、大越凛太朗、加藤純、栗林壮太、栄田賢一、沢辺武人、高木淳、田中直志、羽山貞人、渡辺博文、以上十名。
「賢一なら、最近だと大阪杯の時かな。お祝いのメッセージくれてさ」
誠一と壮太は一年目の十月と十一月に、淳と直志と貞人は二年目の八月に、減量をクリア出来ないと判断されてドクターストップのような形で退学。誠一は家業を継ぎ、壮太は定時制から大学を出てスポーツライターに、敦は園田で調教助手に、直志は大井、貞人は佐賀でそれぞれ一発試験を突破して騎手になった。
卒業した俺達五人の中では大使賞を貰ったサブが例年のリーディングで最上位だが、純もデビュー以降安定して二桁勝ち星を続けている人気騎手だし、主戦場を障害に移した博文も障害重賞を複数勝っている。賢一も去年念願だった重賞制覇を果たしており、極めつけにはダービージョッキーの栄誉を拾った俺の存在がある。同期全員重賞勝ちでうち二人がG1ジョッキー、紛れもない当たり年だろう。
「アイツ、なんぞ将来の話でもせんかったか?」
「いや、別に。将来ってなんだよ、結婚でもすんのか?」
賢一が結婚したらいよいよ独身が少数派になるな、なんてぼんやり思った。誠一、敦、サブ、貞人はとうに子どもがいるし、純も結婚して二年目でそろそろ考えようかなんて話をしていた。俺はさておき、そういう年なのだ。
軽く酒が入った頭でそんな風に納得していたら、サブがスルメを咥えながら言った。
「今期で引退するんやと」
想定外の展開に返す言葉を見つけられず、サブに引きずられるようにスルメを咥える。
「何で?」
スルメを咥えて数秒、ようやく出てきたのはいかにも間抜けなリアクションだった。
「親父さんの引退も見えとるからな。助手になって、本腰入れて調教師試験狙うんやろ」
「栄田先生ってまだ六年くらいあるだろ」
「試験通りゃ定年前に辞めると言われとるらしい。ま、アイツの場合は元からそっち目指して騎手になったタイプやしな」
「そっか……勿体無いな、俺なんかよりよっぽど乗れてんのに」
スルメをしゃぶりながら言ったら、サブに頭を叩くフリをされた。
「何を呑気な反応しとんねん、しゃんとせえや。賢一だけやない、純は四十までに引退して店開くって言うとるし、博文も師匠のとこの厩舎継ぐつもりで動いとる。地方の連中も直志は元アナの嫁さん関係で解説のツテ握っとるし、貞人にはそもそも実家の牧場がある。お前以外は皆ちゃんと考えとんねん」
サブがズラズラと語った情報を聞かされてその内容に驚きながら、同時にそれと別の思いも湧き上がる。
「何で一々そんな事知ってんだよ」
俺が一つも知らない情報を何故そこまで知っているのか。まさか俺抜きで飲みでもやったのかと、酔いも手伝ってジェラシー交じりに言うと、サブは全て見透かした風に腕を組んで言った。
「誰かさんが盛大にやらかした後から、メンヘラ同期のフォローをどうするかっちゅう議題でグループチャット立ち上げてちょこちょこやり取りしとるからな、その流れや」
これぞぐうの音も出ないというヤツだろう。視線を逸らし、愛想笑いを浮かべながらそりゃどうもと流すしかなかった。
「まあ、言い様によっちゃお前のお陰でそういうのが出来たんやけどな。っちゅうかもう隠す必要も無いし、あとでお前も招待しとくわ。誠一が教えてくれたアプリやけど、クッソ便利やぞ。アイツ流石は社長なだけあるな」
そうしてサブはひとしきり笑ってから、
「さっき、大阪杯の後で賢一と話した言うたやろ。俺が聞いたんは、多分お前と話した後や」
そんな風に続けた。
「エトゥピリカと違って、いやエトゥピリカもお前が乗っていたからこそやが、いつぞやクリスが言ったように、少なくともあの大阪杯は完全にお前が勝たせたレースや。せやから賢一も、ド下手糞の癖にやっぱり本物だって、心底悔しがりながら喜んどった」
まとまらない風に、つらつらとサブは言葉を続ける。
「誰かのせいで辞めるなんてほどヤワじゃないだろ」
「ちゃうねん。お前のせいとかやのうて、踏ん切りがつけられたんや。純も博文も直志も貞人も、皆同じような感覚はどっかにあると思う。あれ見て、お前に負けてられんって思わされて、次の勝負に行く為の背中を押して貰った、そういう感覚や。きっと、多分な」
サークル内で生きていくのだから今生の別れでもなし、ましてや賢一は白井の頃からいずれは厩舎経営に入ると言っていたのだから、必要以上に湿った感覚を持つはずもなかったのだが、耳に入ったタイミングだろうか、不思議なほどに響いてきた。
父親だった男がいつの間にか死に、御大は厩舎の解散を決め、賢一も鞭を置いて進む覚悟を固めた。そうして他の同期もそれぞれの先を見据えている。自分の知らないところで時間は流れていく。
俺はいつまで馬に乗っていられるのだろう。レラが引退した後も騎手を続けるのだろうか。仮に騎手を辞めたとして、何をして生きていくのだろうか。
レラがいなくなった世界で、俺は生きていけるのだろうか。
そんなことをふと考えていた。
「お前は?」
何となくサブに聞くと、サブは前のめりで俺を睨むようにしながら言う。
「俺は最後まで馬上で張り合うと決めとんねん」
それこそ白井の時代を思い出すような仕草だった。お前みたいな素人に負けるはずがあるか、そういう時のサブの態度だ。変わっていないものもあるという事なのだろう。
「賢一、今週新潟だっけ」
「いや、聞いとらんけど」
「多分、準オープンに吉永厩舎のレッドペッパー走るから。お手馬だろ」
「知らんがな」
「新潟なら博文と一緒か。純は多分京都だよな」
「知らんけど、多分な」
「お前はもう少し他の馬のこと気にしろよ」
「そんなん一々覚えとらんがな」
「四季報くらい頭に入れとけ、そうすりゃ色々解るんだから」
サブはげんなりした表情をしてみせるが、俺とて好んで身につけた訳ではなく、御大の身に刻み付けるが如き躾によって刷り込まれた血の色の習慣である。
「で、急にどうした?」
話題を変えたいのか、サブはそんな風に言葉を継いだ。
「最近直接会う機会ないからさ。こういう話してたら、何となくな」
「そりゃあ近頃の大越騎手は主場でしか乗りませんから、基本的にローカル回っとる奴らとは会う機会も減りますわな」
サブは俺を試すように言う。
「確かに、そうだな」
まだ解らないままの頭の中から意識を逸らして、外面だけで頷いた。
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