大越凛太朗【皐月賞①】

 最終追切を終え人の目を盗むように引き上げようとしたのも束の間、俺をマークしていたらしい競馬会の職員に確保され、つるされた宇宙人よろしくプレスボードの前へと引き摺り出された。

 近年稀に見る実力馬を二頭擁する注目世代、そのクラシック初戦として世間の注目度も高いのだろう、集まった人の数も、込められた熱量も、これまでの囲み取材とは色が違うのは肌で解る。さらによく見ると、いつもの競馬班と別に、見慣れないテレビ取材が入り込んでいるようであり、新人アナウンサー風の小奇麗な女性スタッフの姿も見えた。専門記者達に牽制されて後方へと追いやられてはいるが、うっすらと漂う異質な空気が場に奇妙な緊張感を生み出している。

「ナインの矢上です、まずは跨った感触をお願いします」

 決してデキが悪いわけではない。馬そのものは前回の対戦時よりも桁違いに成長しているのは当然、前走の弥生賞と比較しても強くなっている。例年のメンツであれば勝てる仕上がりだろう。

「悪くないですよ」

「今日もずいぶん軽めの内容でしたし、万全というには疲れが残っているという見方もありますが、これについては」

 しかし疲労が抜けていなかった。動きは良いが万全ではないという記者の見立てはその通りであり、ここ数日の間繰り返されているこの手の質問には御大も口を貝にしてじっと耐え忍んでいる状況、俺から何かを言えるはずもない。

「どうでしょう。調教自体は計画通りの内容ですし、疲れ云々はレラに聞いてみないと何とも」

 へっへっへ、なんて適当に笑ってみせながら。実際に聞いたら天邪鬼のアイツの事だから『大したことない』と突っぱねてくるだろうが、さておきそんな風にとぼけてみせても記者の鋭い視線は崩れない。

「ケースポの財部です。ライバルのアマツヒ号について、管理する藤井調教師から『これまででは間違いなく最高のデキ』というコメントが出ていますが、これについてはいかがでしょうか」

「うーん、皐月賞で仕上げちゃうって訳にもねえ」

「もちろんダービーへの上積みは見ていると思いますよ。その上でこれまでで一番状態が良いという意味かと」

 すっとぼけた応答をすれば少しは手を緩めてくれるかと思ったが生憎とキビシイ切り返し。叱られている訳ではないのだが、何となく背中が丸まってしまいそうなお言葉だ。

「そりゃそうですけど、こちらも悪い訳ではないので、十分勝負になると思いますよ」

「とは言え前回の対決では敗れている、いわば今のレラカムイ号はチャレンジャーの立場かと思いますが、調整を失敗してもなお、順調なチャンピオン陣営と勝負できるということでしょうか?」

「前走でも力関係は五分でしたから、成長分を考えれば十分に逆転できると思います。それに、そもそも調整ミスと言われるようなデキではありませんよ」

 十年と少しのキャリアで培ったのっぺり笑顔を張り付けて柳のように受け流す。大して世話になっている記者でもなし、となれば腹を割って本音を聞かせてやる必要も無い。

「ウマナミの松舘です。今の質問の続きで、力関係では五分だったという前走についてですが、大越騎手は勝敗を分けた要因は何にあったとお考えでしょう」

 それ用の仮面をかぶっているつもりでも思わず目を見返してしまうような質問は飛んでくる。だがしかし、そういう時こそ取り繕おうなどと考えてはいけない。それこそが失敗の元だ。質問を聞いて自然と頭に浮かんだ言葉を無理に隠そうとせず、ほんの少しオブラートで包むだけにして吐き出す方が良い。

「そりゃ、騎手の差かも知れませんね」

 七分のシリアスに三分の苦笑い、ベストかはさておき良い塩梅だろう。

「とすれば、年明け以来絶好調、目下G1二連勝中の大越騎手であれば逆転は可能だと、そういう理解をしてもよろしいでしょうか」

 記者は敵ではない。彼らは記事を面白く仕上げたいだけなのだから、必要な素材さえ提供してやればこちらをノセてくれる記事が出てくることもある。そして今回はたまたまそうなったかもしれない。

「馬の力は負けていないと。まあ、私から言えるのはそれだけですね」

 そう答えると、それまで落ち着かなかった場の空気がパズルのピースが埋まるみたいにストンと収まったような気がして、この会見の良し悪しなんて知りようも無いが、『これキマッたんじゃね』なんて感想が浮かぶ程度の手応えはあった。

「他に質問がなければこの辺で」

 競馬会の職員が会見を終えようとした時に、後方に押しやられていた女子アナらしき人物が良く通る声で手を挙げた。専門記者達から突き刺すような品定めの視線を向けられているのが傍から見ている俺にもひしひしと伝わる。

 競馬会の職員が小声でどうしますかと聞いてきたので、何となく応援してやらなければいけないような気にさせられて頷いた。

「ありがとうございます。NNCアナウンサーの伊藤と申します」

 女性がそう名乗ると、専門誌の記者達が彼女、より正確には彼女の一団に向けていた視線が一層露骨なものに変わった。

「現在弊社では国内競馬産業に関するドキュメント企画を進行しておりまして、本日はその取材の一環で参りました」

 周囲の空気を察したのだろう彼女が簡潔丁寧に前置きすると俄かに場がざわめき、自分たちのムラに突如現れた新参者を品評するようだったそれまでの雰囲気に変化が生じた。NNCは民放の主要放送局ではあるが、競馬番組を持っていない、言わば競馬村の埒外の存在だ。内部に完成された社会を抱えている業界だからこそ、まったくの外部からの視線には不慣れなのだろう。

 競馬村内部での立ち位置で言えばこの場で最も彼女たちと近いのは俺かも知れない。そんな考えがふと浮かぶと、ある種の滑稽さを覚えたが、いつまでも面白がって眺めている訳にはいかない。

「お役に立てるかはわかりませんが、可能な範囲でお答えします」

 そう促すと伊藤アナウンサーは小さく頷き、用意していたメモ紙に一度視線を落としてから、改めて俺の目をまっすぐに見つめてきた。アイドルもどきをやってる女子アナとは違うな、なんてことを漠然と感じさせられる圧力だ。

「では、今回の皐月賞の先に見据えているビジョンについてお教えください。レラカムイ号の将来的な海外挑戦などについては、陣営の意識にはあるのでしょうか?」

 圧力に押されかけていた意識が引き戻されてズッコケてしまうような、とっぱずれの質問だった。

「海外ですか……まあ、正直な話、言われてから考えるくらいというか、全然意識してなかったですけど……厩舎からも、馬主からも話は出てないですし……まずは目先のレースに集中して、考えるにしてもそれからじゃないですかね」

 しどろもどろになりながら答えていると、外部からの襲来にうろたえていた競馬村の記者達も徐々に調子を取り戻してきたのか、的外れの質問をしたよそ者に冷ややかな視線を向け始めていた。

 しかし彼女はそんな様子を意に介さずに言葉を続ける。

「例えば今回の皐月賞、そして東京優駿の後で凱旋門賞へと挑戦する、そんなプランはありえませんか」

 具体的なレース名が出てきた分だけ余計に固まる。

 笑って良いものか、しかし彼女の目は真剣だ、笑ったらきっと失礼なんだろうけど普通なら笑う所だよなあ……なんて、質問への回答を考えることもできず、そんな風にグルグル浮かんでくるような有様だった。

「ゲームじゃねえんだっつーの」

 ふと、記者の誰かが不愉快そうに吐き捨てた。敢えて名乗り出はしないが隠すつもりもない、そんな雰囲気だ。そしてその感情はどうやら会場にいる記者達の総意でもあるようだった。

 しかし伊藤アナは折れずに言葉を続けた。

「アマツヒ陣営からはそうした話が出ています」

「馬主のコメント取ったのかよ!」

 とうとう苛立ちを堪え切れなくなったらしい記者の一人が立ち上がって声を荒げたが、周囲の反応はなく、静観でまとまってしまっている。

 険悪な雰囲気が漂い始めた場をとりなすつもりで、半ば義務感から声を出そうとしたのだったが、それよりも一呼吸早く、伊藤アナは言葉を返した。

「一昨日、宮代ファームでインタビューをさせて頂きました」

 衝突する気はないことを示すように、当初から一つも変わらない、落ち着いた口調だ。

「宮代明さんは、皐月賞とダービーを連勝したら三歳で凱旋門賞を狙うとおっしゃっていました。凱旋門賞は日本競馬界がいずれ通らなければならない通過点だと。アマツヒにはそれを果たす義務があると。

 宮代明さんの見方に立てば、今年の皐月賞、そして東京優駿は、日本競馬の歴史的な視点からも意味を持つ勝負になるのかも知れません。だから我々はその過程を取材し、記録に残したいと考えています」

 とんだ皮算用だが、つい先日ラウンジで酒を飲んだ時の宮代明という人物が思い浮かぶと、彼がそれを真剣に、彼が積み上げた実績によってのみ成し得る確信めいた物言いで語ったのであろうことも直感で理解できた。だからこそ目の前のNNCのクルーにも責任を問えない。宮代明がそれを語ったのなら、自身の半生をかけて磨き上げた強靭なバックボーンを持つ男がそう語ったのなら、凡百の人間に逆らうことなどできるはずがないのだ。

 会場はいつの間にか静まり返っていた。伊藤アナの言葉、より正確にはその背後に潜む宮代明という人物の圧倒的な存在感がこの場を支配していた。

【今年のクラシックは日本競馬界の分水嶺となる】

 宮代明がそう言ったのなら、それは競馬界にとっての真実なのだ。

「質問を改めさせてください。アマツヒ号……いえ、正確には宮代明さんのこのプランを聞いた大越騎手の、率直な想いをお願いいたします」

 伊藤アナの発言に敵意を向ける記者は最早いない。彼女の質問は既に競馬界の一部となったのだろう。俺や、俺たちよりもずっと内側で。

 だから、俺はそっと笑う。

「日本競馬の未来にも、凱旋門賞にも、俺は大して興味はありません。ただ――」

 いつの間にやら彼女の側に立っていた記者達や、俺に質問をぶつけている彼女のことは、もう見えていない。ただ、その後ろにいる宮代明という牧夫に向けて言葉を返すつもりになっていた。

「――馬の力は負けてません。言いたいことはそれだけです」

 答え終えてから、さっきと同じ回答ですみません、と添えたら、伊藤アナは首を小さく横に振ってから、ありがとうございましたと丁寧に頭を下げた。 



 大仲のテーブル席でんまい棒を咥えながら、ディスプレイとにらめっこでもするように各馬の4角での位置取りを確かめていたら、トイレで席を外していた御大が戻ってきた。長かったからきっとウンコだろう。

「茶、入れ替えてくれ」

 ちせに伝えながら椅子に座る。スッキリした表情をしているから間違いない。

「出ましたか」

「ああ、大量に」

「そりゃ吉報です、久々でしょ」

「記者どもが五月蠅かったからな」

「悪意は無いんでしょうけどね」

 いかな敏腕記者であっても、まさか業界きってのバーサーカーこと臼田昭俊御大が対人ストレスで便秘になるような繊細な一面を持っているとは予想すら出来ないだろう。

「今日のレースか」

「第四レース、未勝利戦です」

「ヤネのメンツは」

「今日はほとんど阪神ですよ、真戸原さんとかは今日からこっちで乗ってますけど」

 皐月賞開催週の土曜日中山は障害G1がメインであり、平地の売れっ子ジョッキー達は阪神に回る事が多い。例に漏れず今日の中山には総司やクリスといったG1お馴染みのメンツの姿は無く、そうした点から言えば、最新レースの映像といえども参考程度の価値しかない。

「内は行けるのか」

 映像では各馬とも外に膨れることなくコーナーをさばいており、内を避けるような風には見えない。

「どうでしょう。午前中ですし、大味ですから」

 先週の中山で乗っていれば多少は見える部分もあっただろうが直近の二週は連続して阪神での騎乗だった。映像を見ても推測すら立てられない自身の状況に気づかされると焦りに似た感情を覚え、果たして正しい判断だったのだろうかと、かつての自分を疑ってしまう。

「中山で乗っときゃ良かったかな」

 不安に押されるようにして弱気が漏れた。先週、先々週と阪神で騎乗していたことが妙な形でアダとなったのか、周囲には今週も土曜までは阪神で騎乗すると思われていたらしい、土曜日の中山の鞍がまさかのゼロ。阪神まで乗りに行くよりはミーティングに時間を使うべきと判断し、土曜日午後の開催時間中であるにも関わらず大仲でんまい棒をかじっている。

「バカかお前は。G1連勝しておいて出る言葉じゃないだろう」

 御大は灰皿を手元に引き寄せ、煙草に火を点けながら言う。

「そもそもその程度で勝てない騎手なんざ三流だ」

「冗談ですってば。今日明日で対応は出来ます」

 苦笑いは隠せなかったが説教に入る前に話の方向性を逸らす。

 御大はそんな俺を鼻で笑ってから、煙草を咥えたまま深呼吸でもするかのように息を吸い、そうして雲のような煙を吐き出した。

「センスは無いが三流を乗せる男じゃない」

 ぼそりと、眉根を寄せながら呟いた。

「明さんですか?」

「名前を出すな、気分が悪くなる」

 ガキみたいなリアクションだ。

「あちらのプランだと連勝して凱旋門だそうです」

「舐めたプランだ」

「潰せますかね?」

 言い合っていると、横からいつも通りに気の抜けた語調のちせの声が届いた。ケトルと急須を載せた盆を抱えて席に着くと、まずはんまい棒を手にもってバナナさながらにするりと皮を剥き口に咥える。それを見た御大もんまい棒を手に取って咥えたので何となく俺もならい、三人そろって口にはんまい棒。

「それをこれから話し合う」

 渋い具合に御大が言うと、んまい棒のカスがはらりと舞った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る