大越凛太朗【皐月賞②】

 遠征用の荷物を適当に突っ込んだバッグを担いで車に乗り込むとふとレラの顔が見たくなり、思うままにハンドルを厩舎の方へ切った。

 普段は使われない駐車スペースに車を止めて中を覗くと、レラも明日がレースであることは解っているらしい、馬房の中で前掻きをしたり、耳をせわしなく動かして時折いなないたり、普段よりテンションが上がっていた。俺に気付くと静止画像のようにピタリと動きを止めてじっと見つめてくる。

「落ち着かないか?」

『何しに来たんだよ』

「顔見に来ただけだ。俺は今晩から前ノリするから、明日の朝はちせとか斎藤さんとか、あと先生の言う事も、ちゃんと聞けよ」

『わかってるって』

 近付いて手を伸ばすと静かに撫でられてくれた。不安なのだろう、熱発というほどではないが、普段よりはわずかに温かい気がする。

「身体つらくないか?」

『別に』

 ふと、検温した方が良いだろうかと頭をよぎったが、レラの反応を見て、俺もまた自身の不安をレラに投影していたことに気付かされた。不安は伝染するから、お互いに不安な状態では振り子のようにもっと大きくなってしまう。あまり長居しない方が良いかも知れない。

「明日も中山の二千だ、坂の手前からスタートして、右にグルーッと回る場所。この前と、さらにその前と同じコース」

『俺に言うなよ、そういうのはお前の仕事だろ』

 こんな風に言って貰えること自体、騎手冥利に尽きるというやつだろう。

「負けた相手のこと覚えてるか」

 そう伝えると、レラは間を開けて、何を言われたのか理解していないようだった。人間が決めた勝負の事なんぞすっかり忘れているのだろう。今度は勝とうぜ、なんて言おうとしていた身勝手さに気付かされてこっぱずかしくなる。

「それで良いさ。じゃ、また明日な」

『ああ、またな』

 別れ際に首を叩いて何となくキスしてやろうと顔を寄せたら、逆に肩を甘噛みされた。涎まみれだが痛くはない、すっかり俺用の加減を覚えた噛み方だった。



 インターを降りて路地へ入り、最寄りではないコンビニに立ち寄って缶コーヒーと雑誌、それに簡単なつまみを適当に買う。レジ打ちの店員がやけにじろじろと顔を見てきたので何か汚れでも付いてしまっているだろうかと頬を撫でたが、出入口前に置かれていたスポーツ新聞のラックを見て合点がいった。話題は全紙とも皐月賞、そのうちの一紙が鞍上対決に注目したらしい、見たくもない自分のツラがフルカラーででかでかと印刷されており思わず頬がひきつった。

 競馬場には今日の余熱が漂っている。既に人が多い調整ルームに入ると、ちょうど食堂から乾杯の音頭が聞こえた。

 空いている下駄箱に靴とジョッキーブーツを放り込んでからスリッパに履き替え、部屋割りボードで自分の名札を探し出すと慣れた和室だった。ロッカーに携帯やらの一式をごちゃまぜの状態で突っ込んでからにぎやかな食堂を覗くと、障害騎手の数名を中心にやいのやいのとやっている。リスクが高い環境に身を置くからこそ芽生える連帯感とでも言うのか、障害を主戦場としている騎手たちには勝敗を超えた特有の繋がりがある。今日のグランドジャンプは全人馬とも無事に完走していたから、彼らにはそれが何よりの祝いごとなのだろう。

「明日の主役の登場か」

 そう声をかけてくれたのは今日のグランドジャンプで見事JG1通算二度目の制覇を成し遂げた椎名さんだった。今はフリーでやっているが、元々は美浦の平岡厩舎所属であり、臼田厩舎とは距離が近かっただけにそれなりに軽口を交わせる間柄だった。

「今日はおめでとうございます」

「俺らは無事に回るのが一番、結果はついでだよ」

 そんな風に格好つけてはいるが鼻の穴が膨らんでいる。頬もほんのり紅潮しているし嬉しいのだろう。一方、周囲の障害騎手がみな明るい表情で素直に祝福しているのは、やはり俺にとっては少し不思議な世界に思えた。

「騒しくして悪いな、夜はさっさと引き上げるさ」

「大一番の後の乾杯なんですから、ゆっくりやってください」

「俺たちはそういう立ち位置なんだよ。春は皐月賞、冬は有馬の前日だ。慣れてるさ」

「それじゃ僻みっぽいですよ椎名さん、大越さん困ってるじゃないですか」

 俺が苦笑いしていると俺の一つ下の櫻田が茶化した。櫻田は美浦の所属で障害に多く騎乗しており、やはり椎名さんとの関わりが深い。

「言ってくれるな櫻田よ。後輩がG1二連勝してクラシックだぜ。ケースポの一面見たかよ、俺らの事なんてコイツのハナクソより小さい記事だ」

「そんなでかいハナクソがありますかっての」

「鎬総司やクリス、笹山さんなら解るさ、一面にデカデカ映ってたって俺は許すぜ」

「アンタ何様だよ」

「ただよ、あの大越がよ、全くなあ、これじゃちっとも嬉しくねえや」

「ダメだこのオッサン、喜びすぎてウザ絡みしてやがる」

 周囲の障害騎手たちに茶化されて椎名さんもご満悦のようだし、こういう時は俺も遠慮なく笑う。

「これ以上いじめられたくないので、俺は部屋に引っ込ませて頂きますね」

「おう、さっさと引っ込め。関西組が来る頃には俺らも退散する」

 一団に頭を下げてから個室へ入った。

 そうして部屋で荷を解き、コンビニで買った諸々を広げ、持ち込んだ暇つぶしを一通り済ませる頃にはすっかり夜になる。夕食を取りに食堂へ降りると、椎名さんたち障害組は宣言通りに姿を消し、G1前夜の落ち着いた空間に装いを変えていた。

 姿を現した関西組の中でも総司とクリス、おまけにサブの宮代エージェント組は一緒のテーブルで何やら話し込んでいた。どうしたものかと考えるよりもサブが俺を見つける方が早く、そして当たり前のように椅子を引いて大声で呼びつけてくる。

「うるせえよ、若いのがビビるだろうが」

 呼ばれるまま椅子に腰を下ろしながら、そっと周囲を見回した。食堂で悪目立ちして若手から面倒な先輩扱いされるなど御免被る。

「俺らかてまだまだ若手やないか」

「十代がいる世界だぞ、三十超えたらオッサンだろ」

「ちなみに二十代は大越さん的にはアダルト組なんですか」

 いたずらっぽい表情の総司が話に入ってくる。

「それ以前にリーディング取ってるやつは十代でも若手とは扱わない」

 クソ生意気だし。

「こらひどいわ、美浦の人間はすーぐそうやってパワハラする」

「誤解生むからやめてくれ」

 そうしてくだらないやり取りをしている脇で、クリスは黙々と納豆を混ぜている。

「納豆食えるんですね、クリストファーさん」

 サブとは元々知り合いだし、総司ともここ一年ですっかり馴染んだが、クリスとはまだ話したことがない。コテコテのヨーロッパ人が手慣れた風に納豆を混ぜる姿がシュールに見えたのでそう声をかけたのだが、クリスはむしろ心外そうな表情でこちらに向いた。

「十年も住んでンだからソリャ納豆くらい食うヨ」

 イントネーションに若干ヨーロッパの名残があるが予想を超えて流暢な日本語だったので、却って話しかけた俺のほうがうろたえてしまい、横で見ていたサブから笑われた。

「大越さん、クリスと話したことないんですっけ」

「こうして話すのハ初めて。よろしくねリンタロー」

 総司の言葉を受けて、納豆を混ぜていた手を止めて握手の手を差し出してくる。こういう辺りはやっぱり育った環境なのかも知れない。

「ああ、よろしく。えっと、クリストファーさん」

「言い辛いやろ、クリスでエエよ」

 関西弁になることでむしろイントネーションが整っている金髪碧眼なぞそうそう会えるタイプではない。

「コイツ調整ルームもわざわざ和室取るからな、中身はパーペキ日本人やぞ」

 言われてみれば確かに、今日も和室の所に名札が貼ってあった記憶がある。

「そりゃ却って失礼だったな。これからよろしく、クリス」

「程々ネ。アスンシオン取られたノ忘れてないヨ」

 冗談っぽく笑っている風な表情だがその実目が笑っていない。なるほど、ガイジンさんのつもりで親切にしようなどと思ったらこれはすぐに食われる相手だ。

「せやせや、いきなり割り込んで来よって。トラさん困っとったで」

「トラさんって、タナトラさん?」

「クリスに戻るつもりでおったのが急に変わったからな、色々あったんや」

「俺に言うなよ、クラブの問題だろ。良い馬乗せて貰ったのは確かだけどさ」

 ハナから遠慮する気も無いので堂々と返してやると、ふと、クリスが納豆を混ぜる箸を止めた。

「良い騎乗だった。僕の方が巧いケド」

 そう言ってから茶碗に盛られた白米の上に納豆を垂らすと、すするように食べ始めた。突然動きを止めたので何事かと思ったが、どうやら納豆の混ざり具合に満足しただけらしい。動作がいちいち紛らわしくて内心ビクついてしまう。

「そりゃクリスに比べりゃ下手だろうよ」

「昔から乗り方ブッサイクやからな、お前。クリスと比べんでも同期の中でも下手や」

「うるせえ、僻みかクソサブ」

「事実やボケ」

「勝ってんだから良いだろうが」

「後ろから見たらよーわかるけどな、あんなんで勝っても誰も真似せんわ。ブッサイクな乗り方しとるぞ、お前」

「知ってるよ馬鹿野郎」

「バカ言うたなお前」

「あ、それはすまん。アホな、アホ。アホ野郎」

「そうや、気を付けや」

「リンタロー、ブサイクでも強い。馬ヲ動かすパワー、ピカイチ」

 サブと適当に言い合っていたら、いつの間にか茶碗を空にしたクリスが指を振りながら言った。

「なんや、クリスはコイツの肩持つんか」

「肩持つッテ言うか、事実ネ。大阪杯、アルカンシエルが勝つと思わなかった。世界的にも貴重なジョッキーだと思うヨ」

 明日の敵であるだけに何か裏がないかと疑う気持ちもあるが、それでもトップクラスのジョッキーからべた褒めされているのは悪い気はしない。

「世界的にもってのは?」

 それまで聞き流している風だった総司が初めて口を挟んだ。

「現役ダト、シルヴェストロなんか特にそうだケド、走らない馬デモ走らせる事ができる、馬のブースターになれるジョッキー。シルヴェストロは技術的にも巧いカラ、リンタローとは全然違うケド」

 クリスは少し考える風な間を置いてから、俺とサブのやり取りに挟むのとは少し口調が違っていた。

「それは腕力のこと?」

「ノン。腕力も一つだけどそれだけじゃない。その何倍も、言葉で表現するの難しいケド、もしかしたらちょっとmysteriousみたいな、そういうチカラ」

「クリスはちゃうの?」

「僕ハ、その辺はソコソコかな」

「そこそこって、クラヴァッシュドール貰っとるやろ」

「競馬はそれだけじゃないからネ」

 俺に関する話がきっかけではあったが、話題は既に俺の元を離れていた。サブと視線を交わしながら、クリスが話す内容に強い関心を見せた総司を外から眺めていると、そこには何か焦りのようなものを抱えている風にも見えた。

「ソージがヨーロッパの大レースで乗ろうとするナラ、リンタローをよく見た方が良いヨ。例えばL’Arkみたいなレースで乗る騎手は大ナリ小ナリ皆そういうモノを持ってル……馬の乗り方は真似したらダメだけどネ」

 そうして俺へからかうような視線を向けると、

「ソージのスタイル、世界でもトップクラスに美しい、これハ本当。リンタローのスタイル、チョーマジでブッサイク、これモ本当」

そんな風に言って場を笑わせるのだった。



 早朝、入場が始まる前に落ち着いて見て回る為に、いつもの調整ルームよりも早起きをしてコースへ出た。春の温かな陽が姿を見せる直前、紫色の薄明りの下で、春の草の匂いを感じながら、夜露に濡れた芝をブーツで踏みしめる。

 スタンド前の直線、4角明けのスタート地点に立つと絶壁のような坂が目に入る。馬上からの慣れた視点とは違う、自分の足で立って見た中山の坂は溜息が出てしまうほどで、普段馬に登ってもらっているありがたみを思わずにはいられなくなる。

 レラは七枠十五番、おおよそのゲートの位置に立ってその視界をイメージする。外目が悪いコースでは無く脚質的にも包まれる心配が消えた分だけ悪くない。アマツヒが入るのは一枠一番、内埒沿い。

 足元の芝の状態を見てコース取りを考えながら足を進めると、登り切ったゴール板の前に総司がいた。同じように下見をしにきたのだろう、ヘッドホンをしながら内馬場の方を眺めている。

「よう」

 聞こえているかは解らなかったが取り合えず声をかけると、即座に視線が返ってきた。

「おはようございます」

「それ、聞こえてるのか?」

「音楽聞きながら外の音も聞けるんですよ、便利でしょ」

 そうして、とても大一番の前とは思えないような朗らかな笑顔を見せられると、張り詰めている自身の情けなさを突き付けられているようで、スタンドを眺めるふりをして視線を逸らすと、夜明け前の群青色に染まった空に白い星が散っているのが見えた。

「春はあけぼのって、学校でやりましたよね」

 総司がいきなりそんなことを言った。

「すまんが解らん」

「そうですか……ほら、東の空が白み始めて、雲が紫色に焼けて、こんなのかなあって思ったんですけど」

「家庭環境が複雑だもんでね、教養の類にはすこぶる疎いんだ」

 困らせたいわけではないから言った側から笑ってみせる。そうしてようやく話をできるメンタルが出来たので、ゴール板の方に振り向いて、総司の見ていた朝焼けを見る。

 春はあけぼのは知らないが、美しいと思った。

「天津日って、良い名前ですよね」

「前に聞いたけど、太陽のことなんだってな」

「レラってどういう意味なんですか?」

「ちせの爺さんたちの方言で、風のことらしい。良い名前だよ」

 そう話したきり一度言葉がやんだ。それからしばらく無言のまま、内埒に手を置いて寄りかかりながら、陽の昇る様を眺めていた。

「現状で凱旋門に行くなら乗り役は大越がベスト」

 不意にそんな言葉を口にした総司に視線を向けると、彼は俺の方を向かずにただ東の空を眺めている。

「宮代さんがそう言ったのか?」

「ええ、今週の火曜日に」

 そうして、昨日の夜のクリスの発言に食いついていた理由が解った。あのオッサン本当にろくでもない事しかしない。有紀が言っていた傍迷惑という表現も全く以てその通りだ。

「今日全て見て、その上で貴方を超えます。そうすれば俺は世界一のジョッキーだ」

 陽はその弧を現し、紫色だった雲はすっかり黄金に染まった。


 



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