大越凛太朗【皐月賞③】

 ウィナーズサークルでゼッケンを抱えていると杉本オーナーは小走りで現れた。

「ありがとう、まさか勝ってくれるとは」

 呼吸が落ち着かないまま右の手を差し出してくる。

「馬の力です、ありがとうございました」

 十分に高齢の部類の方であるのに、これほど急ぐならよほどの事情でもあるのだろう。いずれにせよ待たせる訳にはいかなかった。挨拶もそこそこにカメラの方へ向くと、かぶりつきからのぞき込んでいるファンたちの歓声が耳に入る。

「オオコシー、頑張れよー!」

 本番も頼むぞとか、アマツヒに負けんなよとか、二着まででいいからなとか、そんなニュアンスの言葉が耳に届く。二着云々を口にした輩に『お前の買い目なんざ知るか』と腹の底で苦笑しながら撮影を待っていると、杉本オーナーが呟いた。

「すまないな、本番前に余計な仕事をさせてしまった」

 想定外の言葉に対応を迷っていると、オーナーからの言葉はさらに続く。

「あとのことは良い、本番に集中してくれ」

 立ち振る舞いから察するに、杉本オーナーは俺がメインレースに備える時間を作る為に急いでいるらしかった。

「まだ急ぐような時間でもありませんから、大丈夫です。ありがとうございます」

 今勝った中山九レースも本番と全く同じ芝二〇〇〇のコース、となればこの騎乗依頼自体が皐月賞への後押しの意図だったのだろう。好調とは言えブランク明けもまた事実だ、本番前に少しでも経験値を積ませて貰える配慮は実際に有難い。

「あの牧場とはお付き合いが長かったんですか?」

 気が付けばそんな話を振っていた。

「馬を始めたての頃からの付き合いになる。彼女の祖父からあの牧場の竈の話を教えてもらって、本当に随分と長い間楽しませてもらった」

 そう答える杉本オーナーの穏やかな表情に何故だか安らぎのようなものを感じ、その時ふと、道楽とはこういうことを言うのだろうと思った。道楽だからこそ自然と周りに人が寄ってくるし、そうして繋がった周りの人を幸せにすることでその結果が本人にも返ってくる。俺とも宮代明とも違って、この人の競馬はそういう風に出来ているのだ。

「上がりのかかる馬場ですが、レラなら十分にこなせます。実際にレースをさせて貰ってコース取りも具体的にイメージ出来ました。大丈夫です」

 今のレースで勝たせてもらった礼、こうして親切にしてもらった礼、あとはよくわからないが不思議な感謝の気持ち。うまく言葉にできている気はしないがこれで精一杯だ。

 杉本オーナーは無言で俺の背を張った。高齢の部類なんてとんでもない、御大顔負けの強い掌だった。



 パドックで発表された馬体重は弥生賞からマイナス四キロ、数字だけを見れば無難な状態とも判断されそうなものだが、関係者の反応は露骨だった。明らかに疲労による減でありベストコンディションではない。言葉を交わした訳ではないが、俺を気遣うような騎手たちの視線がそう言っている。

 そうした存在は視野に入れず、控室の後方で腕を組み目をつむってじっとしていると、サブの声だった。

「どうや大将、集中できとるか」

「たった今までな」

「1.8倍と2.4倍、どっちがどっちやと思う?」

「その程度の差なら同じようなもんだろ」

 取り合うつもりがないことを悟ったらしいサブは面白くなさそうに鼻を鳴らして立ち上がった。

「今日はアッチが一番人気や、気楽に乗れや」

 表へ出る前にわざわざ振り向いて言う。聞いてないのに教えるあたりは実にサブらしい。

 直接対決で負けている割には競っている、というのが正直な感想だった。トライアルでのパフォーマンスが評価されているという事なのだろうか、馬の調子を見て解る関係者からは意外なオッズと捉えられているかも知れない。

 サブの動きを見てか、周りがぽつぽつと関係者への挨拶のために表へ出始めると、控室に残ったのは例によって俺と総司の二人だった。

「こういう時はお互い楽ですね」

「俺はそうだけど、お前はプレッシャーかかるだろ」

「今更ですよ」

 言葉を交わしながら、どちらからともなくドアの近くまで場所を移る。四月の昼下がりの陽光のまばゆさと観客のガヤ音、狭い中山のパドックの島中を埋め尽くしてしまいそうな関係者の人混み。G1レース特有の、ちょっとした縁日のような風景。

 周回している馬からレラを見つけると、引き綱を持つ斎藤さんの指示を大人しく聞いており、この雰囲気に動じる様子は見られない。すっかりレース慣れした雰囲気だ。

 と、突然斎藤さんの進路から外れた方に首をやろうとして斎藤さんが引っ張られる。何事かと思って視線を追うと、その先の島中にちせがいた。ちせもちせで、レラの意識が自分に向いたことに気付いたのだろう、派手な身振り手振りで大人しく引かれるように指示を出しており、周囲の関係者から奇特な目で見られている。

「大物ですね」

 どちらに向けたものなのか、総司がぽつりと呟く。

 一方のアマツヒは静かに悠然と歩いており、しかし、それだけで周囲を圧倒していた。他の関係者、ともすれば馬たちも、一様にアマツヒに気圧されているようですらあり、今あのパドックの中で呑気なやり取りを繰り広げられるのは臼田厩舎の面々くらいかも知れない。総司もだからこその発言なのだろう。

 そのままパドックを眺めていると島中からの視線を感じ、辿ると有紀が宮代明と並んでいた。総司のことを探していたのかも知れない。

「こっち見てるけど、打ち合わせとかあるんじゃないのか」

「普段はレース前はあんまりしないんですけど、まあでも行きます。また後で」

 そうして総司の背を見送ってからもしばらく待っていると、やがて周回しているレラが前を通った。俺のことに気が付くとやっぱり斎藤さんの進路から外れた方に首をやって斎藤さんを引っ張ってしまう。

 横に並んで、引きのリズムを整えるように歩きながら

「調子はどうだ?」 

と声をかける。

『別に普通だよ、フツー』

 クラシック三冠レースの直前にこの態度である。コイツは確かに総司が言う通り大物に違いなかった。

「ならいいさ、また後でな」

 斎藤さんのリズムが整ったのを見計らって距離を取り、流れで島中へ渡った。

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