大越凛太朗【皐月賞④】
手刀を切って関係者の間を縫うように進み、御大とちせのもとに合流する。
「馬場はどうです?」
珍しくドレススタイルのちせが開口一番でそんな事を尋ねてきた。
淡いピンクのフレア丈という可愛らしさが意外なほどに似合っており、彼女がついこの間まで女子高生をやっていた事を期せずして思い出して戸惑いかけたところでの、いかにもな、らしい行動。本番前だというのに心底どうでも良いことでホッとさせられる。
「向こう正面まで荒れ気味だし、内は特に渋い。ここ数年で一番ひどいかもな」
「ままなりませんね」
「パワーで比較しても十分トップクラスだ、相対的に捉えればネガティブなだけの材料でもないさ……ところで、それどうした?」
「有紀さんが貸してくれたんですよ、ほら」
そう言ったちせが指した先には総司と打ち合わせをしている有紀の姿があり、先ほどはまるで気付かなかったが、改めて見るとあちらもクリーム色のドレススタイルだった。それとなく観察していると、服のひらひらした部分を指先で握りしめては離したりを繰り返しており手先が落ち着いていない。シンプルで控えめなデザインだから言われるまで気付けない程度には落ち着いた格好なのだが、普段の格好と違うせいで落ち着かないのだろう。
「ファザコンの巻き添えか、難儀なもんだな」
「別に、私は嫌じゃないですよ。レラには一生に一度のことですから」
ちせは思ったよりポジティブに受け止めているらしい。
「馬は良くも悪くも昨日と変わらん、細かい部分はお前に任せる」
そう言った御大は一応スーツを着てはいるが、普段とさして変わらない。
「向こう正面から動き始める感じで、四角は多少距離が増えても外を回します。ライン取りは見えてますので」
「こだわってヘグるなよ」
「承知してます」
「アッチはどう乗ってきますかね」
ちせが有紀たちの方をちらりと見て言った。
「スタート直後に前に出ようとするだろうな、周りがどう出るかって話になる」
今日の馬場状態ではアマツヒが引いた一枠一番がハッキリとネガティブな材料になる。ゲートを出た直後は仕方ないとしても、出来る限り外へ出したいのが騎手心理のはずだ。人馬ともスタートセンスの良いコンビだからよほどのことがない限りダッシュがつかないことは想定しづらいが周囲の動きまでは読めない。もしもスタート直後に囲まれて蓋をされたまま埒沿いを進む羽目になったら、レラの調子のことなど帳消しにしてお釣りが出るほどだろう。
「どっちみち、周りに期待しちゃダメなんだよ、こういうのは」
自分自身に言い聞かせるような呟きが漏れると、それだけ期待していた思考に気付かされた。目を閉じて、目蓋の上から眼球を揉むようにしながら、そっと、深く、息を吐く。
俺の方がイレ込んでいるらしい。それでも、レラに跨る前に自覚できたことは幸いだ。
やがて止まれの号令がかかると、いつものように三人そろって礼をしてからレラの元へ向かった。
「無理をさせる必要は無い」
俺を馬上へ押し上げる一瞬で、膝を貸してくれた御大が小さく言った。
鞍に跨ってから確認の視線を向けると、俺を見上げていた御大と目が合う。
「解ったな?」
肩に力が入っていることを読まれてしまったのだろう。念押しするような御大の物言いはいつも通り有無を言わさずといった風で、俺は黙って頷くよりなかった。
「じゃ、行ってきます」
二人にそっと手を振って、パドックを出る列に加わった。
待機所の輪乗りで周囲をそれとなく観察していて確信したことは二つあった。
一つは俺たちへの関心が低いこと。これまでのレースでは考えられないほどに、俺たちへの視線が薄い。
二つ目は、減った俺たちの視線は全て総司とアマツヒが持っていったということ。全員が同じ状況だから最早誰一人隠そうとすらしていない。
ここまで露骨な状況になってしまえば考えることは周囲も同じ。期待していた展開は間違いなく現実のものとなるだろう。
レラの調整ミスはアマツヒ一強というレース展望に繋がり、その上に枠順と馬場という要素が積み重なった結果、各陣営の戦略が暗黙の裡に合致した。スタート直後からアマツヒの周囲を押さえ込み内埒沿いの荒れた馬場へ閉じ込めたまますり潰すように進むことで一方的に消耗させ、能力的に数段下の、勝負になるところまで降りてきて貰おうという寸法だ。
このレースは間違いなくドロドロの消耗戦になる。
一方、レラもまた余裕綽綽に構えている訳にはいかない。調整が万全でないことは事実だし、最後にかわす相手はまず間違いなくアマツヒなのだから、少なくとも弥生賞より早めに上がっていくつもりでなければ捉えきれないだろう。なにせあの宮代明が心底から惚れ込んでいる馬だ、いかに徒党を組んで消耗させたとしても同世代から潰されることなど有り得ない。
だがそれでも、勝機は十分以上にある。
「無理せず、気軽にな」
はやる気持ちを落ち着けるように、レラに言い聞かせるフリをして自身に向けて呟くと、レラは見透かした風に
『お前、キンチョーしてんのか』
と返してきた。大レースを目前にジョッキーよりも落ち着いている、可愛げがない馬だ。
「別にそういうつもりもないけど、お前はすっかり慣れたな」
『そりゃな、もう何回も走ってるし』
当たり前のように返してくるコイツにとっては、新馬戦だろうが重賞だろうが、GⅢだろうがGⅠだろうが、どれも同じことなのだろう。
言われてしまうと、そりゃあそうだ、と思わされる。そして気付かされると、今の自分の緊張がまったくコイツに対して失礼だったような気がして、気持ちを入れ替えるために馬上で自分の頬を張った。
ビビるな、たかが皐月賞だ。
発走が近づき待機所を出てゲート前で輪乗りに入る。やがてスターターが姿を見せると、スタンドがにわかにざわめき出し、輪乗りの馬たちにも変化が伝わる。
『手拍子のやつ?』
「お、解ってきたじゃん」
ぼやいたレラが歓声で怯えてしまわないように首を撫でると、
『人間ってホント意味わかんないこと好きだよな』
しみじみとそんな事を呟かれてしまい、しかしお陰で余計な力は抜けてくれた。
スターターの旗が勢いよく振られ関東のGⅠファンファーレと馴染みの手拍子が流れ出す。落ち着きはらっている風に見せているレラの首を撫でながらゲートの前で緩やかな円を描く。ふと、黒みの強い鹿毛の馬がこちらを見ていて、目があった。しかし馬がこちらを見ていたのではない。鞍上の総司が俺を見ていたからつられたのだ。
アマツヒ。
「こっちを見てる彼とは知り合いか?」
そんな風にレラに尋ねる。
『さあ、知らない』
レラは取り合わず、アマツヒの視線など知らん風に歩き続ける。輪乗りの中でも一頭抜けたオーラを放つアマツヒに対して、他の馬にはまず真似できないだろう素っ気なさ。だがそれで良いのだ。
時間になり、各馬がゲートに引かれる。奇数、偶数とも順調におさまってから、お隣の最外枠が引かれる僅かな時間でゲート超しに坂の方を見ると頂上付近の白旗係が目印のように映る。
隣が収まったことは感覚で解った。
「行くぞ」
聞かせるでもなく呟きながら腰を浮かせると、ほとんど同時にゲートが開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます